月イチ企画:三国志人物鑑定モ・ド・キ
第3回:郭図編
郭図(かくと)
字は公則(こうそく)
生没年:??〜205年
頴川(えいせん)郡出身。

はじめは郡の計吏だったが、のちに袁紹に仕え、謀臣となる。

数多い袁紹の謀臣の中でも、5本の指に入るほどの智謀の持ち主。
後漢の皇帝・献帝(ケンテイ)を袁紹の本拠地のギョウに迎える事を進言したが、これは採用されなかった。

袁紹の後継問題では、長男の袁譚(エンタン)を推し、三男の袁尚(エンショウ)を推す審配(シンハイ)らと対立した。

官渡の戦いで、烏巣の兵糧庫が襲撃された時は、手薄になった敵本陣を攻める事を進言。
袁紹は、半数で敵本陣を攻め、残り半数で兵糧庫を守るという両面作戦を採り、結果失敗。
この責任逃れの為、郭図は前線の張コウ・高覧の二将が寝返ろうとしていたと嘘をつき、また袁紹もこれを信じたので、二将は曹操軍に投降。
袁紹軍は総崩れとなる。

袁紹の死後、郭図は長男の袁譚につき、跡目を継いだ袁尚陣営と対立。
幾度となく二人の陣営は刃を交えた。
しかし、その対立に便乗するかのように曹操が進軍。
この時は一時的にではあるが手を結び、曹操を止める事に成功。

だが、軍師・郭嘉(カクカ)の進言を採った曹操が二人を放置すると、再び争いはじめる始末。
勿論、郭図がこれに一枚噛んでいる事は言うまでもない。
袁尚との戦いの敗色が濃厚となったところで、郭図は袁譚に曹操に降る事を進言する。
その通りに曹操に投降した袁譚だが、好機と見るや離反。
これも郭図の進言によるもの。
結果、曹操の苛烈な攻撃によって、袁譚は敗死。郭図も殺された。
 

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第3回目は、謎多き謀臣・郭図殿の登場です。
え、何が謎だって?? そりゃもう、自滅の道をひた走ったあの行為ですよ。

上記の略歴を見てもわかるように、彼の人生は自滅へのロードをひたすら走っていたとしか思えません。
自分の支持する長男・袁譚を袁家の長にする事に執着し、背後から迫るもっと大きな存在(曹操)を見過ごすようなやり方は、およそ謀臣には不適格な人物としか言いようがありません。

官渡の戦いでの失敗は、袁紹の優柔不断が招いたものであり、黙っていても本陣襲撃を進言した自身には火の粉は降って来ない筈なのに、ワザワザ余計な事を言って、余計に自軍を弱体化させるというのは、ちょっと理解できません。
まあ、袁紹がこういう失敗を他人のせいにしたがる人物だった、と仮定すれば、少しはわからなくもないですが。

官渡で敗れ、当主の袁紹が死んだとはいえ、まだ袁家の総兵力は曹操に勝っていました。
これは、袁譚と袁尚の二人が連合して曹操を退けたことからも、うかがえます。
しかしその兵をライバルである袁尚との戦いで大幅に消耗させ、双方とも曹操という共通の敵を抱えながら痛めつけあっているのでは、滅ぼされるのは時間の問題。
手を取り合って曹操に当たれば、南に進出する事は叶わなくても、自分たちの土地を守る事は出来たはず。
それを許さなかった双方のムダな自尊心が、こんな事を引き起こした一因ですが、謀臣であった郭図らが焚きつけた事も、大きな要因だったでしょう。
特に、最後の方の彼の献策は、何かとてつもない憎悪を袁尚陣営に対して持っているのではないかと思うほど執拗です。

参謀となる者は、常に広い視野を持ち、戦場だけでなくもっと遠くまで見通せる“目”が必要です。
しかし、目の前のライバルに執着し、そのライバル諸共自分達をも飲み込もうとする曹操をが目に入らなかった郭図は、敗れて当然だったとも言えるでしょう。

さて、次回は蜀のある人を紹介する予定です。
それでは、また次回……。


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