月イチ企画:三国志人物鑑定モ・ド・キ
第2回:文醜編
文醜(ぶんしゅう)
字は未詳。
生没年:??〜200年

文醜と並ぶ、袁紹配下の猛将。

袁紹の冀州入りの際には韓馥配下の関純(カンジュン)を斬り殺し、河北の覇権をかけた公孫サン(コウソンサン)との戦いでは、公孫サンを一騎討ちで追い詰め、変わった趙雲(チョウウン)と引き分けている。

曹操との決戦、官渡の戦いの前哨戦である延津の戦いでは、曹操配下の張遼を射って落馬させ、徐晃も安々と退け、まさに向かう所敵なし、手の付けられない状況でした。
しかし、曹操のもとに身を寄せていた関羽の手によって、アッサリと斬り伏せられてしまった。

その武勇は常に同僚の顔良と並び称され、軍略・用兵の腕も、無敵の騎馬隊と称された公孫サンの『白馬義従』を破った事からなかなかのものがあったと思われる。
 

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さてさて、第2回は文醜殿です。
この人は、羅貫中(ラカンチュウ)によって損をしている人の一人です。
羅貫中の『三国志演義』での文醜は関羽によって討ち取られていますが、『正史』では曹操の軍勢に討ち取られた事になっています。
“蜀ファン”の羅貫中の餌食となったわけです。
まあ、延津で死んだ事に変わりはないので、それほど影響はないですねぇ。
名もない曹操軍兵士に討ち取られるよりは、むしろあの関羽に討ち取られた方が、後世の人に好印象を与えるでしょうし。

さて、“文醜”という名前からすると「不細工だったのか??」という疑問が沸き上がってくる(ハズ)

三国志で“不細工”で有名なのは、劉璋(リュウショウ)の幕僚だった張松(チョウショウ)です。
彼は見た目が見苦しいという事で曹操に嫌われ、腹いせに曹操をけなすと棒でボコボコに殴られた、というほど。
他には諸葛亮(ショカツリョウ)の同門のホウ統(ホウトウ)も有名。
顔が嫌いだといわれ、孫権(ソンケン)に仕官できなかった経緯があります。
まあ、これには「周瑜(シュウユ)よりも才がある」と孫権の怒りそうな事を言ったからでもありますが。

文醜に関しては、残念ながら不細工だったというような記述はありません。
彼のような武勇の将のほとんどは、兵士上がりのタダの荒くれ者が多かったりしますから美男子という事はないと思いますけどね。
 

官渡の戦いについては前回書いたので、戦闘についてはもういいでしょう。
今回はちょっと違う側面から官渡の戦いを紹介します。

官渡の戦いに勝利した曹操は、当然袁紹の残していった金品や兵糧などの物資を接収します。
そしてその中には、袁紹に内応するといった内容の書簡も多数残っていたのです。
この時代、もちろんe-メールなんて物はなく、手紙はすべて竹簡か紙。
そして、身一つで散り散りに逃げていった袁紹軍には、持って帰るなんてできなかったわけです。かさばるし。

もちろんそれを読んだ曹操。この書簡を出した者を処分するかと思いきや、何と笑って焼き捨てたのです。
内応の書簡を焼き捨てた曹操は、
「このわしでさえ、袁紹の強大さに心が挫けそうだったのだ。まして他の者なら当然だろう」
と言って全く問題にしませんでした。
これを聞いた曹操配下の者は改めて忠誠を誓い、袁紹からの投降者が増大した事は言うまでもないでしょう。

きっと、こういった内応の書簡があったからこそ、袁紹は強気に攻めつづけたのでしょう。
確かに官渡城の兵糧は尽き、落城寸前。
そして官渡城を落とせば、曹操から内応者が出たことでしょう。

しかし袁紹には、そういった危険性が自軍にはないと考えていたフシがあります。
名門の威光と名声で人をひきつけるという事は、それが失われたときには脆くも瓦解する、という危険性をもはらんでいます。
やはり、そういった詰めの甘さが名門の甘さ、だったという事でしょうか。

さて、次回も袁家の関係者を紹介します。
それでは、また次回。
……今度はキッカリ1日に……。

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