馬謖(ばしょく)
字は幼常(ようじょう)
生没年:190年〜228年
襄陽(じょうよう)郡宜城(ぎじょう)県の人
襄陽の名門、馬家の五人の男子の末子で、“白眉”で知られる馬良(ばりょう)の弟。
諸葛亮にその才を愛された。
「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」と、いわれた俊英。
南中征伐の折、馬謖は諸葛亮に「蛮族たちは城を攻めるのを下策とし、心を攻めて屈服させるが上策」と献策。
諸葛亮はその通りに実行し、南中の蛮族を懐柔する事に成功した。
第一次北伐ではその才を買われ、軍事上の最重要拠点とも言える街亭(がいてい)の守備の指揮官に抜擢される。
しかし、山上に陣取り水源を絶たれた馬謖は、魏の張コウ(ちょうこう)に惨敗。
何とか逃げ出した馬謖は、北伐を失敗に追いこみ、撤退を余儀なくされた責任を全軍に詫びる為、処刑された。
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さてさて今回は、“泣いて”斬られた馬謖クンの登場です。
今回は、兄の“白眉”馬良と迷い、弟が選んで馬謖に決定です。
はい、この辺結構適当です(笑)
何気に前回と同じで諸葛亮に絡んでいますが、これは偶然です。
「泣いて馬謖を斬る」の故事はあまりに有名ですが、この時の諸葛亮の涙には、愛弟子を失う事への涙以外にもう一つに理由があると思います。
それは、蜀の未来についての涙だと思います。
190年生まれの馬謖は、第一次北伐時39歳。生年時に1歳とカウントするので39歳です。
このとき諸葛亮は48歳。寿命が気になりだす頃です。
仮に、第一次北伐での失敗でも馬謖が生き長らえたとしたら、戦場で死ななければ250年近くまで生きていたのではないだろうか。
240年代末頃から、姜維(きょうい)は北伐を再開した。
しかし全く成果は得られず、逆に蜀の国力の低下を招く事となった。
諸葛亮の死後、蜀の政務は蒋エン(しょうえん)、董允(とういん)、費イ(ひい)といった人物が行ったが、この中に馬謖が加わるだけで、多少のプラス面は得られたと考えられる。
それに、姜維の北伐に関しても、姜維の隣にいて口を出す事の出来る人物がいなかった事も、失敗した一因であると言える。
ですから、姜維の初期の北伐で知恵を貸す事が出来ていれば、幾分か違う結果になったとも考えられます。
ただ、馬謖の問題点は実戦経験の欠如と共にもう一つ、性格的な面があります。
街亭の戦いの時、王平(おうへい)という将軍が馬謖の副将につきました。
王平は、戦場で育ったと言っても過言ではないほどのたたき上げの将軍です。
ただ、文字の読み書きも出来ないほどの無学でした。
馬謖は何かにつけてその点をからかい侮辱し、王平の意見に取り合わなかった。
アタマだけのインテリに時折見られる傾向ですね。
結局それが仇となり、全軍に響く大敗となってしまうわけです。
諸葛亮は、中国史上最も理想的な政治家の一人と言われています。
その主な理由の一つが、徹底した法治主義です。
罪には罰を、功には賞を、という事です。
馬謖の処刑には、何人もの反対意見があがりました。
しかし、諸葛亮は法を曲げるわけにはいかない、と処刑を決断するのです。
このシーンは、三国志演義の中でも最も泣けるシーンの一つです。
最後に。
劉備は臨終に際してこういう言葉を残したそうです。
「馬謖は口ほどの力はない。重大事は任せられぬぞ」
長年の放浪で、劉備の人を見る目は相当な物になっていたようですね。
確かに、人を見る目がなければ、あの乱世を生き抜けなかったのでしょうね。
さてさて、次回はやっぱり未定です。
そろそろ孫家に関連した人でもいこうかな、と思います。
という事で、諸葛瑾の予定です(決めるの速っ!!)