お知らせ 2007年

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 プラモ用デカール 07.11.20

 既存の1/48、1/72用デカールに加えて1/32用がライフライクデカールから発売になりましたので、ご紹介します。
 なお、詳細についてはライフライクデカールまで直接お願いいたします。


 府中陸軍燃料廠 07.11.10

 下に同じく、オークション(ebay)に出ていた写真です。
 府中陸軍燃料廠(現航空自衛隊府中基地)を、きわめて低空で東側から撮影しています。ジープらしき車両が複数見えるので、占領直後の昭和20年9月頃と思われます。

 20年9月下旬、沖縄から調布に移駐してきた米陸軍偵察飛行隊の将兵は、府中燃料廠を宿舎としていました。調布飛行場は空襲被害のために満足な建物はないに等しかったからです。

 大東亜戦争末期、燃料廠の裏手に位置する浅間山
(せんげんやま)には、いくつもの秘匿燃料タンクが設置されておりましたが、タンクを設置するためにテラス状に成形された場所の一部は、今も確認できます。

 この浅間山の山腹には本格的な横穴壕が掘られており、燃料廠(燃本と呼んでいた)に動員された山水高女(現桐朋女子学園)の生徒たちは、「壕は、どんな空襲にも耐えられるから心配はない」と説明されていたそうです。




 敗戦後、調布飛行場南地区に集められた皇軍機 07.11.2

 これは、最近米国のオークション(ebay)に出ていた写真です。
 以前に「勇士のアルバムから…特別編」で紹介した写真1、3、4と同じ場所ですが、まだ飛行機の破壊があまり進んでいないので、前者よりも早い時期、つまり MEATBALLS AND DEAD BIRDS の写真と同じ20年9月中〜下旬の撮影かもしれません。

 3式戦(244F)が1機、4式戦(52F)が7機、1式双発高練が2機、99式襲撃機(6F)が2機ぐらい見受けられます。
 手前の地面は筋状に見えますが、飛行場大隊が耕作していた畑の畝です。当時は飛行場の至るところが畑になっていました。
 左手3式戦の手前には、「肥溜め」か縦穴壕があるようです。後方の松林の中に天文台道路が走っており、その向こうに半地下式の兵站宿舎がありました。
 入手した人は、死蔵させずに是非公開してほしいものです。






 電撃スケールモデラー11月号 07.9.26

 電撃スケールモデラー11月号をご紹介します。私も主に航空整備の視点から、244戦隊における3式戦の運用についての拙文を書かせていただきました。

 当サイトを隅々まで読まれている方には特段目新しい内容ではないかもしれませんが、一つの文章として纏まったものは過去になかったと思いますので、ご一読下されば幸いです。



 昭和33年調布飛行場 07.8.18

 古くからの飛行機写真家として知られる戸田保紀さんは、多くの素晴らしい写真をご自身のサイトで公開されていますが、今回、学生時代の昭和33年から34年にかけて調布飛行場民航地区で撮影された写真群を掲載して下さいました(コンテンツの中の民間機のページにあります)。

 小学生の私が飛行場へ遊びに行くようになったのは昭和37年頃で、その時には三ツ矢航空の小さな格納庫も航空宇宙技研飛行場分室も既にありましたが、戸田さんの写真の背景にはまだ写っていません。そのような早い時期の写真は私もあまり見たことがなく、どれも貴重なものです。

 陸上自衛隊のKAL−1の映像も珍しいです。これは連絡飛行で明野から来たもののようですが、陸自は将来返還後の調布を基地とすべく、実績作りのために、よく連絡機を飛来させていたのです。

 航空会社も、
大和航空(後の伊藤忠航空輸送)、富士航空(同日本国内航空)、海洋航空(同東日本航空)、三ツ矢航空(同東邦航空)など、今では存在しない社名ばかり。飛行機もツインビーチ、ダブ、ビーバーなど、我が国ではもう見られないものが多いですが、その中でセスナ170/172シリーズだけは、ほぼ同じスタイルの後輩たちが今日も全世界で活躍しているのですから、たいしたものです。目立ちませんが、彼らこそ真に「名機」と言えるのではないでしょうか。

 今では飛行場自体も周辺も風景は一変してしまい、往事の面影はゼロです。しかし、戸田さんの写真には、背後に東京天文台の崖線や調布水耕農場の出荷場、まだ航空宇宙技研飛行場分室ができる前の旧倉敷飛行機調布工場など、実に懐かしい光景が写し込まれていて、これも嬉しいことです。

 写真を公開して下さった戸田さんには、心からお礼を申し上げます。是非、皆さまも戸田さんのサイトを訪問なさって下さい。

 なお今回、戸田保紀さんから、かつて文林堂(航空ファン)を経営されていた戸田萬之助氏が4年ほど前に亡くなられていたことを教えていただきました。

 故菊池俊吉氏撮影の写真群を私たちが初めて目にしたのは、昭和47年の航空ファンでした。この時の衝撃は、今も憶えています。
 当初、菊池氏は公表を頑なに拒否されたそうですが、戸田氏は日参して説得。この熱意に菊池氏が心を動かされ、これらの貴重な写真がついに日の目を見たという経緯があったことを、忘れてはならないと思います。
 ご冥福をお祈りします。


 南太平洋波高し 07.7.2

 最近、ネットで「南太平洋波高し」という映画を見ました。海軍特攻隊がテーマで、昭和37年の正月映画として東映が制作したものです。
 私の父はその東映に勤務していましたので、家族も映画はお金を払わずに見られる環境にあり、内容は忘れていましたが、この作品も子供時代に見ています。
 前年秋の大泉撮影所の運動会(当時、撮影所の運動会は大イベントで、大変華やかなものだった)に行ったとき、入口に零戦のハリボテが2機飾ってあったのを覚えていますが、あれがこの作品のものだったようです。

 役者も懐かしい顔が次々と出てきて、見ている方の気持ちも昭和30年代に戻っていくようです。小野透(美空ひばりの弟)が整備兵役で出ていて、この人はあまりよい評判を聞かなかったのですが、結構好演していてちょっと見直しました。

 まだ頬が痩けていて別人のような梅宮辰夫が予備学生出身特攻隊員で、度々故障を口実に戻って来るのですが、それを迎える基地では、「明らかに敵前逃亡だ」「攻撃精神に欠けている」と罵られ、同期生たちからさえも卑怯者呼ばわりされます。
 あまりにストレートで、見ているこちらがドキッとしますが、梅宮は「無駄死にはしない」と意に介しません。最近よく見られる、恐る恐る暗いタブーに触れるが如き特攻隊の扱い方とは大違いで、むしろ気持ちがよいです。

 作家高木俊朗も『知覧』のなかで
黒島をはじめ、南西諸島には、体当り攻撃をきらって、故意に途中で不時着した特攻隊員が少なくなかった
と書いていますが、個々の事例の真相は別として、これが当時の特攻基地に纏わる人々に共通の認識であったことは確かだと思います。

 映画のストーリーはかなり荒唐無稽で、特撮は大金をかけた現代のCG等とは比較の対象にすらならず、零戦も実にチャチなものですが、ロケ地の館山飛行場や美しい漁村など、戦時と変わらない本物の風景と相まって、私にはあまり気になりませんでした。

 特攻隊長役の鶴田浩二は、ややくだけ過ぎ。高倉健は潜水艦長という柄ではありませんが、厚木の小園大佐を思わせる司令役の田崎潤や中山昭二らの貫禄は流石で、画面に重みを与えています。昔は、よい脇役がおりました。

 昭和30年代には映画だけではなく、海軍予備学生が主人公の「雲の墓標」が日本テレビで、またタイトルは定かでありませんが「零戦黒雲一家」のテレビ版がNET(現テレビ朝日)で、夕方6時頃から子供向けに放送されていました。洋物では「コンバット」や「頭上の敵機」もありました。
 それが昭和50年代、平成と進むにつれて戦争物は姿を消し、あっても「ホタル」のようなわけの分からない作品になります。

 以前、テレビの演出家が新聞に、「戦争物は作りたいが、戦争賛美になってはいけないから難しい」と書いていました。賛美という言い方は変ですが、過去の戦争の時代をありのままに、肯定的に表現することが何故いけないのか? その根拠は何なのか。

 たぶん、世間の一部からの批判を恐れてのことなのでしょうが、戦争体験者が多数派で、現実の戦争体験が未だ生々しかった昭和30年代には、このような批判はなかったのです。大東亜戦争が遠くなるにつれてこれが違ってきたのは、日教組教育で育った人間が、マスコミや言論界の中核を占めるようになったからかもしれません。

 無反省に売国番組を繰り返すNHKも、家城啓一郎氏(元解説委員長、特操1期生)ら軍隊経験者が現役であった時代には、今日のようなことはなかったと思います。話は逸れますが、NHKは一日も早く解体消滅させ、膨大な資産を国民に還元させるべきです。

 昭和20年代には占領軍の検閲があったので映画も自由ではなかったのですが、30年代に入ってからの単純に娯楽活劇として作られた戦争映画は、とんでもない詭弁を弄したり、戦争賛美ではありませんと弁解に努めながらの、最近の煮え切らない作品よりも、ずっと戦争と軍の実相を表現しているように感じます。昭和30年代の戦争映画は、もう一度見直されてよいのではありませんか。


 軍偵戦記 07.6.16

 雑誌「スケールアヴィエーション」7月号を編集長市村さんから送っていただきました。
 模型の方は門外漢なので何も言えませんが、「銀翼に輝く日の丸だけが最後の希望だった」と題する元軍偵隊員からの聞き書き戦記は、興味深く読みました。

 私は不勉強なもので、軍偵の部隊とは具体的にどんな仕事をしていたのか?…恥ずかしながらよく知りませんでしたが、実に具体的な聞き取りのお陰でよく分かりました。このように体験者たちの生の声を記録することは、非常に重要だと思います。

 たぶん商売上の都合から、
隼、飛燕、零戦など、飛行機という「物」をストーリーの中心とした出版物が巷には多いのですが、それでは顧みられずに漏れ落ちてしまう事柄が多くあるはずです。
 航空戦史研究の観点から言えば、今後は細く深く、部隊史あるいは飛行場史、そして運用、整備、教育、人事など、言わばソフトウェアの記録が主になっていく必要があり、本誌のような企画が更に続くことを期待したいと思います。




 電波受信 07.5.25

 244戦隊が編成し、昭和20年5月はじめから調布飛行場で錬成を重ねていた特攻諸隊は、8月15日夕刻調布を発ち、敵機動部隊攻撃のため南九州への前進を命ぜられていました。
 8月14日、第162振武隊長二宮嘉計中尉は、調布へ来てから何度か遊びに行ったことのある三鷹町の知人宅を暇乞いに訪れたところ、驚くべき話を聞かされたのです。
明日、重大放送がある。どうやら日本は負けたらしいよ
 その情報源は、禁を破って米国の短波放送を聞いている者からだということでした。

 私は二宮氏からこの話を聞いたとき、果たしてあの時代、一民間人が危険を冒してまで外国放送を聞くことなど可能であったのだろうか?…と、疑問に感じたことを覚えています。

 三鷹から遠くない調布町国領には、昭和初期に造られた「
東京YWCA憩いの家」がありました。ここは、大東亜戦時には外務省情報局に接収されており、外国短波放送の受信施設として使われていたのです。
 開戦前に輸入されていた米国製全波受信機(超高級ラジオ)10台を使って米国帰りの二世約40名が24時間態勢で電波をワッチしており、
ポツダム宣言を国内で最初にキャッチしたのもこの施設であっただろうと言われています。
 二宮氏の回想にある敗戦の情報源というのは、おそらくこの施設の関係者だったのではないでしょうか。


 一方、調布飛行場の南東、現調布インターチェンジ傍の保恵学園は、かつて陸軍中央無線電信所の調布受信所でした。昭和14年1月、同中野送信所へ5キロワット送信機の導入に伴って、受信所も市内王子区から移転してきたのです。
 陸軍中央無線電信所は陸軍省の直轄部署で、陸軍中央部と朝鮮、満州、支那、南方等外地派遣各軍との暗号電報送受を主任務とし、陸軍省と送信所、受信所間は有線電信で繋がれ、送受は遠隔操作されていました。

 ただ、調布受信所が終戦まで存在していたものかどうかは疑念があります。
 戦時の飛行場に勤務していた複数の人は、ここを「航空通信隊」と記憶しているのです。また長距離通信の受信所は、本来、周囲に雑音発生源(高圧線、発動機、工場等)のない場所が選ばれているはずですが、昭和19年夏にはこの辺り一帯が飛行機の秘匿場所になっているところから類推すると、既に受信所は他へ移転し、その建物、用地は対空無線隊等に使われていた可能性があると、私は思っています。

 この他、深大寺の東方、神代村柴崎には第13航空通信連隊本部が配置されていましたし、東京天文台の近くには日本無線株式会社大沢受信所が、また天文台自体にも報時用無線施設がありました。

 今まで意識していませんでしたが、こうしてみると、時期的にはズレがあるものの、一辺3キロほどの範囲の中に各種電波関係施設が集まっていたことになり、若干不思議な感じもします。
 しかし、これは偶然ではなく、調布地区(調布町、三鷹町、神代村、多磨村)が
軍用電気通信法に基づく特別地域(無線通信に障害を及ぼす可能性のある設備等の設置が禁止される)に指定されていたことが関係していると思われます。

 電波は眼には見えないものですが、戦争の帰趨、国家の命運を決するような重大な情報が、意外にも自分の身近なところで飛び交っていたのかと想像するとき、感慨を覚えずにはおれません。


 再び新聞記事 07.5.14

 最近の報道によると
終戦直後の日本国内で占領米軍の命令により売春施設が多数、開かれ、日本人「慰安婦」数万人が米軍に性の奉仕をして、その中には強制された女性もいたことが米側にいまになって伝えられ、米議会下院に慰安婦問題で日本を糾弾する決議案を出したマイク・ホンダ議員は4日、議会調査局に調査を依頼した>とのこと。(産経WEBより引用)

 これは衆知のことと思っていたのでこの記事には驚きましたが、アメリカ政府が知らなかったわけがなく、この議員が知らなかっただけでしょう。
 今日、地元でも知っている人はゼロに近いはずですが、実は、このような施設のおそらく第2号(後述記事中、大森では既に開業とあるので)は調布町に開設されました。昭和20年9月22日付読売新聞は、次のように報じています。

調布に慰安所開設(府中電話)
 <
特殊慰安協会では進駐軍のために、都下北多摩郡調布町元日本楽器跡へ慰安所を開設、更にダンスホールも作ることになった

 元日本楽器跡とは、調布町下石原にあった日本楽器東京製作所(木製プロペラを製造、現サレジオ修道院)の工員寮のことで、この場所は現在の調布消防署です。

 これより前の9月17日付「連合軍兵士のため大歓楽境を計画」という記事(要旨)によると、
特殊慰安協会は、大蔵省から五千万円の特殊融資を受け、内務省、外務省、大蔵省、運輸省、東京都、警視庁が指導委員となって資本金一億円で設立された。
 食堂部、キャバレー部、慰安部、遊技部、芸能部、特殊施設部、物産部があり、賭博を除くあらゆる慰安施設を網羅するもので、大森では既に開業している
>とあります。

 この頃の新聞にはこんな記事も出ています。
9月7日付 日と共に減る進駐軍の非行 神奈川県下の例
(要旨)8月30日から9月7日までの進駐軍に関わる事故は、殺人1、暴行4(未遂2)、物品強取143、自動車(自転車を含む)強取103、金銭強取35、武器強取480、傷害3、人員拉致4、単純暴行4、家屋侵入5など。
 このうち殺人は、陸軍士官学校西門で精神病者が歩哨にしつこく絡み、噛みつくなどしたために射殺されたもので、わが憲兵隊との協議で正当防衛と認定された。

同日付 館山では婦女子に対する暴行既遂2件、同未遂2件、掠奪1件

9月14日付 夜の外出は控へよう 増えた米兵の強奪非行
(警視庁への届出では)
京橋区で米兵3名が1300円を強奪 興業銀行行員5名が自動車を止められ、懐中時計5個と総裁用車を強奪される 銀座の鉱山事務所で米兵2名が拳銃強盗、2万3千円と懐中時計を強奪 千代田旅館に米兵2名が拳銃強盗、4800円と時計、煙草ケースを強奪 中央郵便局で米兵3名が拳銃強盗、8100円を強奪 向島で米兵2名が拳銃強盗、450円を強奪 中央郵便局に拳銃を持った米兵7名が侵入、3000円と自転車、時計を強奪 銀座で通行人が米兵8名に180円を奪われる 浜松町で米兵6名が自動車を止め、623円を強奪 芝区大門で米兵3名が320円と腕時計1個を強奪

 おそらくどこの国の軍隊にも問題はあったのだと思いますが、自国のことは棚に上げて日本軍の例だけが取り上げられ糾弾されていることには、怒りを覚えます。
 しかし、ものは考えよう。一部の外国人と国内の売国奴たちが非難すればするほど、逆に大多数の国民の中に眠っていた愛国心を確実に目覚めさせてくれるのですから、あるいは日本の将来にとって悪いことではないのかもしれません。


 空中写真 07.4.26

 終戦間もない時期に撮られた米軍撮影空中写真は大変有用なもので、私も調査に活用しました。今はその多くが国土地理院のサイトで手軽に見られるようになったのですから、本当に有り難いことです。

 20年前にはじめて写真を入手したときには、P38などが調布のエプロンに翼を連ねている光景を期待したのですが、蓋を開けてみたら飛行機は1機も見えず、拍子抜け。整備学生時代に、☆マークを付けたH19やL19、L20などがひしめいている昭和31年頃の空中写真を見ていたので、これは意外でした。
 実は、占領直後に来た飛行部隊は終戦翌年には既に調布を去って飛行場は遊休化していたことを、この写真で初めて知ったのでした(その後の朝鮮戦争をきっかけに再度供用)。

 最近、改めて写真を検索していたところ、大変興味深い画像を発見しました。
 それがこの写真(一部を拡大)。撮影日は昭和22年7月24日、高度1500メートルからです。明らかに飛行機の残骸で、おそらく20機分はあり、全て米軍機と思われます。

 
B17B25C47P38が確認できますが、B17は偵察飛行中隊が輸送機として使っていたものでしょう。既にB17は旧式化していたので入間川へ移動の際には持って行かず、調布で廃棄処分にされたのだと思います。
 切断された主翼なども写っており、この3ヶ月後の写真では残骸は跡形もなく消えていますから、西武鉄道の引込み線路から貨車で搬出するため、この場所で解体されていたものと考えられます。

 戦後ですから、これらの飛行機がリタイアした直接の原因は事故と思われるのですが、もしそうであるとすれば、米軍飛行部隊が調布にいた僅か約10ヶ月の間だけで、多数の事故が発生していたことになります。
 占領間もない20年10月に撮影された写真でも、後方に複数の事故機が写ったものがありますし、東京天文台の近くにP38が墜落した事故もあったと聞きますから、占領当初から事故は多かったのかもしれません。

 しかし一方、調布と同日の立川飛行場の写真には、滑走路脇の草地で廃棄処分を待つ実に多くのC47が並び、また北西端の解体場では既にバラバラにされた飛行機群が認められます。
 これを見ると、不要になった飛行機はわざわざ本国に持ち帰ったりせず、現地(日本)でスクラップにしてしまうのが普通であったようですから、あるいは調布の残骸の多くも、老朽化による廃棄の可能性の方が高いかもしれません。

 どちらにしても、約2キロ四方が写った写真のごく一部分からでも、その見方によっては様々な想像を巡らすこともできるのですから、面白いものです。

 この他、昭和21年2月の厚木飛行場の写真には、飛行場の外へ追いやられた多数の皇軍機が写っています。ですが、未だ原形を留めているのは数機程度で、大半はまるで
紙屑にしか見えません。当時、日本中の飛行場で遍く見られた光景ではありますが、哀れを禁じ得ませんでした。


 新聞記事 07.3.23

 最近、久しぶりに新聞の縮刷版に目を通しました。十何年か前、244戦隊史調査をはじめた頃に、手がかりを求めて入手したものです。

 陸軍航空の戦争末期の戦闘に関する公的な記録はないに等しいですから、新聞、特に読売(当時は読売報知)の詳細な記事には助けられました。これがなければ、あるいは戦隊史自体が成立し得なかったかもしれません。
 「新聞記事と244戦隊」の一覧を見ると分かりますが、244戦隊は実に多くの記事になっています。これはおそらく他に例を見ないことで、私の場合は恵まれていたと思います。

 現代の新聞ではそれほど違いは目立ちませんが、戦争末期は紙不足で1枚(2ページ)だけですから個性も凝縮されていたようで、朝日と読売はまるで違います。
 朝日は国会の議事録とか、上から見下ろしたまるで官報のような内容が多くて無味乾燥、全く面白くありません。その点、読売はサービス精神旺盛で、読者が読みたい記事を提供しているという感じが強くします。

 縮刷版ですから本文はルーペを使わないと読めず、また元の印刷が劣悪なために判読困難な箇所も少なくなくて、読むだけでも一苦労です。
 その中で面白いと感じたのは、零戦の存在が公式に発表(写真は以前から掲載)されたのが、なんと昭和19年11月23日であること。これからも、零戦が有名になったのが戦後の話だと分かります。
 
名称は零式(れいしき)戦闘機だが、荒鷲達からは「ゼロ戦」と呼び親しまれている…とあり、同時に「雷電」も公表されています。
 その他、同年11月26日には「屠龍」が、28日には「彗星」「銀河」の存在が写真とともに公表されています。

 20年4月11日には、前年11月24日、レイテにおける坂口戦隊長戦死の記事とともに写真だけ先ず公表されていた4式戦が「新鋭戦闘機はやて現る」として公表されました。「はやて」の名は、写真が公表されてから朝日新聞が愛称を公募し、その中から陸軍省が選定したものです。

 飛行第22戦隊で4式戦に乗っていた操縦者のアルバムにも「愛機はやて」の文字がありましたから、今日一般的な「疾風」ではなく、「
はやて」と書くのがきっと正しいのでしょう。これだけでも随分と印象が違ってきますから、日本語は面白い。

 新聞に広告は付き物ですが、これも興味深いものがあります。19年9月でも伊豆の温泉付き別荘地の広告が出ていますし、不動産の広告は多いです。疎開による転居で物件取り引きが活発だったこともあるのでしょう。

 戦争末期になると民間の広告は減りますが、その中で終戦まで連日のように出ているのが、不動産業者の土地買い取り。大空襲で何万人もが死に、家を失って焼け野を彷徨っていたその時に、冷徹に将来を見据えて土地を買い漁る商魂…。これには、敬服の一語です。

 事件、事故の具体的報道はありませんが、物資の闇取引が横行しており、取り引きのもつれからブローカー同士の殺人が続発したとか、空襲時の空き巣被害が多発している等の記事を発見すると、何故かホッとしたりもしますから不思議です。


 安部正也少尉の謎 07.2.4/2.14 再度補足

 一昨年から始めた「振武隊編成表」の連載には予想外の反響をいただきました。世間には、特攻作戦に関心を持つ人は多いようです。
 判読困難な箇所も少なくなく、他の資料と照合の必要があることなどから、当初、どこまでできるものか自信がなかったのですが、お陰さまで先頃どうにか完結を迎え、次は「振武隊異動通報」の公開を予定しています。

 巷間、特攻作戦については誤った情報が流布され、しかもそれが正されずに既成事実化している現実もあると思いますが、予断や脚色を排除し、事実を事実として伝えていくために、少しでも影響を与えられれば幸いです。

 テキスト化していると、今までただ漠然と眺めていたときには見逃していた点に気付かされることがあります。その中の一つが、特操1期安部正也少尉のことです。
安部正也少尉の謎へ続く


 99式飛3号 07.1.21

 当サイトも以前からお世話になっている横浜旧軍無線通信資料館の掲示板に米軍が鹵獲した3式戦計器板の写真がリンクされていますが、99式飛3号無線機(受信部)がちゃんと装着されている状態の写真は初めて見ました。

 この無線機は、送信は勿論水晶発信ですが、受信は手動プリセットでしたから、時間の経過で同調がずれる可能性があります。
 出撃の際には、操縦者が乗り込んでエンジンを始動し、水温、滑温が上昇する間に、作戦室から発せられる「本日は晴天なり」や防空情報を聞きながら、操縦者はダイヤルを微調整したのだろうと思います。

 よく、陸軍機(海軍は知りませんが)の無線が使いものにならなかったと、あたかも常識の如く書いた記事を目にすることがあります。
 確かに、そのような記憶証言は少なくはなく、編隊長機だけで僚機には積まなかったとか、特攻機は降ろしていたとかも聞きましたが、特攻機も含めて原則として全機が搭載しており、内地の場合では実用上特段の問題は生じなかったのが事実と考えられます。

 特攻機の場合も僚機や基地と連絡を取って飛んだはずで、暇つぶしにお互いに歌を聞かせながら沖縄へ向かったという生還者の証言もあります。ただ、電波を発すると敵に位置を知られる可能性があるので、大半は最小限の使用に留めていたのであろうと思いますが。


 古波津里英氏逝去 07.1.8

 古波津里英(こはつさとひで)氏が昨年(06年)10月、87歳で逝去されたと、奥さまからご連絡いただきました。ご冥福をお祈り申し上げます。
 04年秋に『飛燕戦闘機隊』をお送りした際にはお礼の電話をいただき、とても元気なお声だったのですが、実はこの数年は病魔と闘われており、大手術を何度も経験されていたようです。

 古波津氏は特操1期生。昭和19年11月初め、同期井出達吉少尉、幹候9期井上忠彦少尉とともに244戦隊に配属され、20年4月7日には調布上空で同期の河野敬
(こうのたかし)少尉とともに体当りを敢行、敵機を撃墜し、この功績により陸軍武功徽章を授与されています。

 体当り当時は2機で飛行場直掩任務に就いており、調布上空4500メートルで哨戒中に、運良くほぼ同高度で敵編隊が侵入してきたものと考えられます。
 落下傘で成城町に降下した古波津少尉は、地元民のリヤカーに乗せられ、調布町国領の多摩川病院院長宅で手当を受けましたが、駆けつけた鶴身少尉
(整備第2小隊長)が「お前、大変なことをやったなぁ」と声をかけたところ、「はぁー?」と、体当りのことは覚えていない様子だったそうです。

 古波津少尉が撃墜したB29の主翼は防空壕に落下し、ここに避難していた住民8名が犠牲になりましたが、古波津氏はそのことに責任を感じ、戦後何度も墓参を希望したものの、悉く遺族に拒否され、叶わなかったとお聞きしました。このことは、終生心残りだったのではないでしょうか。


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