このたび、「只一筋に征く―陸軍特別攻撃隊の真実」という本が出版されました。当方もごく一部分ですが、協力させていただきました。本書は写真集形式ですから誰にも読みやすく、陸軍特攻に関する入門書としては最適だと思います。 本書には下記の人たちの写真、遺書、エピソードなどが紹介されています。 ★西尾常三郎少佐(富嶽隊)/小林雄一軍曹・鯉渕夏夫兵長(常陸教導飛行師団)/今田善基少尉(飛66戦隊)/石川一彦少尉・込茶章少尉(62振武)/上川幟伍長(29振武)/穴澤利夫少尉(20振武)/倉元利雄少尉(60振武)/大塚要少尉(433振武)/坂内隆夫少尉(54振武)/荒木幸雄伍長・高橋峯好伍長・千田孝正伍長(72振武)/藤井一中尉(45振武)/枝幹二少尉・渡辺静少尉(165振武)/高村統一郎少尉(112振武)/高野正治少尉(113振武)/渋谷健一大尉・井上清軍曹・岸田盛夫伍長(64振武)/安倍正也少尉(24振武)/勝又勝雄少尉(78振武)/光山文博少尉(51振武)/上原良司少尉(56振武)/南部吉雄少尉(49振武)/中島豊蔵軍曹(48振武)/河井秀男伍長(53振武)/宮川三郎軍曹(104振武)/荒木春雄少尉(51振武)/宇佐美輝夫伍長(180振武)/伊舎堂用久大尉・安原正文少尉(誠17)等 なお、少し気になったのは、特攻機の不時着地が「鬼界ヶ島(現喜界島)」となっていること。一般に鬼界ヶ島は硫黄島(鹿児島県鹿児島郡三島村)の別名で、海軍飛行場のあった喜界島(きかいじま=鹿児島県大島郡喜界町)とは200キロ以上離れています。 また「屠龍」と説明されている写真は、100式司偵3型です。もっともこれは、写真を提供した防衛庁防衛研究所の説明が、そもそも間違っているようです。 愛国心が高まった昭和30年代は戦記がブームで、少年雑誌にも毎号、戦記読み物が掲載され、航空雑誌にも必ず陸海軍航空機の特集がありましたが、陸海はバランスがとれていて、今のような海軍一辺倒では決してありませんでした。大東亜戦争が遠くなり、皇軍の実像を知る人たちが世の中から消えるのに反比例して、出版物等は海軍海軍海軍…になったのですから、これは実におかしなことです。 海軍に「零戦・大和」という象徴的存在があったことは大きいのですが、これも世間に喧伝されたのは戦後の話ですから、出版商売の誰かの策略が功を奏したのかとも思ってしまいます。 ともかく、これからも本書のような出版物が一冊でも多く出現することを期待したいと思います。 | |
■ 航空管制 06.6.15 財団法人航空交通管制協会の渡邊哲也さんから、機関誌「航空管制」をご送付いただきました。 昭和31年に開設された航空局調布空港事務所が50年の幕を閉じてこのたび閉鎖となり、東京都に全面移管されたことから、本号では米軍管理時代の昭和38年から調布管制塔に勤務された管制官OBの思い出も掲載されています。 この中に、日大のN-62がダウンウインド・レグでエンストして、当時使われていなかった補助滑走路10/28に不時着したことが出ていますが、これは初めて知りました。昔はこの程度の事故は報道もされなかったと思いますが、今だったらすぐにテレビのヘリが大挙来襲して騒動になるところでしょう。 米軍飛行クラブ。私もこれは覚えています。既に部隊は撤退して閑散としたエプロンにセスナ150と古ぼけたスチンソンL-5が2機ずつおりました。 教官は日本の人だったようでしたが、とにかく朝から夕まで休みなく離着陸を繰り返していました。L-5はファイナルアプローチで、パンパンパンとバックファイヤーの乾いた音を響かせていたのが印象にあります。 その他にも低翼単発双尾翼のエアロクーペとか真っ赤なエアロンカとか、古い軽飛行機もよく見かけたのですが、これらは立川の米軍飛行クラブから来ていたようです。 この頃は、金網一つ隔てた向こうは豊かなアメリカそのもの。まるで別世界でしたが、憧れを感じる一方で日本の中の外国への反発とが、子供であった私の心にも共存していた時代でした。 | |
↓昭和32年頃撮影の空中写真 | |
掩体A、Bは現存。引込線の外側(右上)は昭和30年東京都に返還された。 | |
掩体Dは、戦時のままに土が被っており、Eは営門のすぐ横にあった。 当時滑走路以外の土地は、調布水耕農場土壌部の畑になっていた。 |