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竹中隆雄中尉 06.12.21 「陸軍特攻」へ移動しました


只一筋に征く 06.11.30

 このたび、「只一筋に征く―陸軍特別攻撃隊の真実」という本が出版されました。当方もごく一部分ですが、協力させていただきました。本書は写真集形式ですから誰にも読みやすく、陸軍特攻に関する入門書としては最適だと思います。
 本書には下記の人たちの写真、遺書、エピソードなどが紹介されています。

西尾常三郎少佐(富嶽隊)/小林雄一軍曹・鯉渕夏夫兵長(常陸教導飛行師団)/今田善基少尉(飛66戦隊)/石川一彦少尉・込茶章少尉(62振武)/上川幟伍長(29振武)/穴澤利夫少尉(20振武)/倉元利雄少尉(60振武)/大塚要少尉(433振武)/坂内隆夫少尉(54振武)/荒木幸雄伍長・高橋峯好伍長・千田孝正伍長(72振武)/藤井一中尉(45振武)/枝幹二少尉・渡辺静少尉(165振武)/高村統一郎少尉(112振武)/高野正治少尉(113振武)/渋谷健一大尉・井上清軍曹・岸田盛夫伍長(64振武)/安倍正也少尉(24振武)/勝又勝雄少尉(78振武)/光山文博少尉(51振武)/上原良司少尉(56振武)/南部吉雄少尉(49振武)/中島豊蔵軍曹(48振武)/河井秀男伍長(53振武)/宮川三郎軍曹(104振武)/荒木春雄少尉(51振武)/宇佐美輝夫伍長(180振武)/伊舎堂用久大尉・安原正文少尉(誠17)等

 なお、少し気になったのは、特攻機の不時着地が「鬼界ヶ島(現喜界島)」となっていること。一般に鬼界ヶ島は硫黄島(鹿児島県鹿児島郡三島村)の別名で、海軍飛行場のあった喜界島(きかいじま=鹿児島県大島郡喜界町)とは200キロ以上離れています。
 また「屠龍」と説明されている写真は、100式司偵3型です。もっともこれは、写真を提供した防衛庁防衛研究所の説明が、そもそも間違っているようです。

 愛国心が高まった昭和30年代は戦記がブームで、少年雑誌にも毎号、戦記読み物が掲載され、航空雑誌にも必ず陸海軍航空機の特集がありましたが、陸海はバランスがとれていて、今のような海軍一辺倒では決してありませんでした。大東亜戦争が遠くなり、皇軍の実像を知る人たちが世の中から消えるのに反比例して、出版物等は海軍海軍海軍…になったのですから、これは実におかしなことです。

 海軍に「零戦・大和」という象徴的存在があったことは大きいのですが、これも世間に喧伝されたのは戦後の話ですから、出版商売の誰かの策略が功を奏したのかとも思ってしまいます。
 ともかく、これからも本書のような出版物が一冊でも多く出現することを期待したいと思います。




ETV特集 06.10.24 「陸軍特攻」へ移動しました


244戦隊会解散 06.10.19

 先日、靖国神社において最後の244戦隊慰霊祭が行われ、ついに戦隊会も解散の運びとなりました。出席者は19名(うち夫人5名)で、最近では盛会でした。そよかぜ隊長生野氏と久しぶりにお会いして、P51を撃墜した時のお話などを伺えたことも、私には収穫でした。
 この1年の物故者は、小熊勉(整備3小隊)、大野増三(作戦室、本部副官)、井沢二三(戦隊長当番)、土居節(特操1期)、高橋芳治(整備隊本部)の各氏で、物故者数も過去最多でした。この中には、昨年は元気に参加されていた方が2名もおります。

 ところで、第1回目の戦隊会は昭和21年、調布町小島の小林氏宅に東京近郊の元隊員が集まって開かれ、大変に盛り上がったそうなのですが、当時のことで、「軍人たちが集まって気勢を上げている」との密告が警察に寄せられて私服刑事が張り込む事態におよび、そのために、この回だけで中断せざるを得ませんでした。
 次は昭和26年、数名の遺族も参加して靖国神社で行われた慰霊祭でした。その際、遺族代表として挨拶に立った鈴木正一伍長の父上は途中で絶句し、言葉にならなかったと聞きます。

 その後、再開されたのは昭和40年頃で、テレビ番組「あゝ戦友」に芥川比呂志氏が出演し、スタジオで戦友たちとのご対面が演出されたのもこの頃でした。それ以降は毎年開催され、故梅村氏(元244戦隊中隊長)が経営されていた箱根の旅館や調布飛行場を会場としたこともありました。

 私が呼んでいただけるようになったのは、平成6年、故三谷氏(整備隊長)の葬儀で、それまでは手紙や電話のやり取りが多かった戦隊会の皆さんにお会いしてからです。
 戦時のことは黙して語らないといわれていた三谷氏が最初に応援して下さったのに、三谷氏には本をお見せすることができず、その葬儀がきっかけで私が戦隊の皆さんと深くお付き合いするようになったのですから、運命としか言いようがありません。
 その頃は毎回30名ほど、戦後50年の慰霊祭では50名が参集され、賑やかでした。それから既に12年も経つわけですが、お世話になった多くの方が既に鬼籍に入られました。この時の流れの早さは、夢のような感じさえします。

 私が関わる以前の話ですが、ある人のところへ来た研究家かライターか知りませんが、あまりに熱心なので「紹介するから戦隊会に出席したら?」と誘ったところ、その人物は「私の主義ではありません」と言下に断ったそうです。この人のように、私の前には誰も深く関わろうとしなかったのは何故なのか今もって謎ですが、これもまた運命なのかもしれません。

 今回が最後ということで皆さんやや興奮気味だったようで、生粋の戦闘機乗りといえる戦闘分科出身者と他機種からの転科操縦者との口角泡を飛ばす白熱した議論もありました。60年以上前の話をこれほど熱く語れるのは羨ましい限りですが、これも実戦を経験して死線を越えた人たちならでは、なのでしょう。
 我々素人の傍観者には、戦闘機を自由に操れたことだけでも凄いと感じてしまいますが、戦闘分科出身者の矜持は比類のないもので、同じ戦闘操縦者でありながら、両者の間に横たわる溝の深さを今更ながら思い知らされました。

 平成7年の戦隊史上梓から11年を経て、その間に得られた情報・資料は膨大なものになりました。そこで、それらを取り入れた改訂作業を開始したことを皆さんにご報告するとともに、将来の上梓をお約束しました。ただ、早くも中断している状態ですので、完成はいつのことか見当もつきませんが、皆さんがお元気なうちにお見せできればよいなぁ…とは思っています。

 ある方が「コレのお陰でうちの戦隊がすっかり有名になっちゃったよ」といわれました。私は「取材」という言葉は大嫌いで一度も使ったことがありませんが、出版とか研究とか何の肩書きも大義名分もなかった私のような一ファンを、244戦隊の皆さんが「戦友」として認め、広い心で受け入れて下さったことに、いま改めて感謝するとともに、これからも皆さんの意志を継いでいくことを、お約束したいと思います。


続報 06.8.24

 8月2日掲載の件につきまして、このほど文藝春秋の小林氏から次のようなメールならびにお手紙を頂戴し、事情が判明しましたので、内容を転載させていただきます。
 文藝春秋社ならびに小林氏には、迅速かつ真摯な対応をとっていただき、感謝を申し上げます。

小林氏からのメール(要旨)

 このたび、知り合いより櫻井さまのホームページに、私が担当いたしました渡辺洋二著『液冷戦闘機飛燕 日独合体の銀翼』のカヴァーに関するご指摘があるとのことで拝見させていただきました。

 今回の本のカヴァーは、渡辺さんからお預かりした小林戦隊長の写真紙焼きをデザイナーに渡し、着色を依頼したもので、そのようにして出来上がったものだとばかり思っておりました。

 ところが今回のご指摘をいただいてデザイナーに確認したところ、その紙焼きに一部不鮮明な部分があったため、ウェブ上で見つけた写真を「どうせ同じものだから」と借用し、作成したとのことでした。

 まったく気づかなかったこととはいえ、結果として櫻井さまの写真を不正使用したことの責任は私と文藝春秋にございます。櫻井さまには大変失礼いたしました。

文藝春秋出版局 小林昇


『液冷戦闘機飛燕』 06.8.2

 最近、文春文庫から出された『液冷戦闘機飛燕 日独合体の銀翼』という本があります。本書の内容は十数年前に出された朝日ソノラマ版を「加筆訂正」したものだそうです。

 私が前の版を読んだのは、戦隊史に関わりだした頃だったと思います。今回の「改訂版」は、未だざっと見ただけで記述は何も変わっていないように感じるのですが、どうなのでしょう。
 私は新旧二冊を比べながら読む根気など持ち合わせていないので、いったいどこが変更されているのか、既に新旧を読まれてご承知の方は教えて下さい。そこだけ読みますので。

 ところで今日の本題は、中身ではありません。表紙です。
 実は、本書の表紙カバーに使われている3式戦の写真は、当サイトに掲載している写真を着色加工し、URLの部分を白く消して
無断転載したものだと判断しています。
 URLは無断転載予防のために入れていたのですが、目障りではいけないと小さくしたのが不味かったですね。こんな姑息なことをされるとは夢にも思っていなかったので…。

 この写真は、小林戦隊長のアルバムに貼られていたもののコピーが昔から出回っており、雑誌「丸」が販売していたことさえある、知られたものです。
 しかし、この原プリントは印画仕上げが「ハイキー」で、トーンが飛び気味なのです。したがってこれを複写した画像は、更にトーンが失われて空は真っ白、胴体と空のトーンの分離も怪しいものになってしまいます。「世界の傑作機・飛燕」などをお持ちの方はよく分かると思います(同書64頁)。
しかし、私がサイトや本に使ったのは、同一ネガから焼かれたものでも、研究家も出版社も知らない他の戦隊員(故人)から提供された別のプリントです。
 このプリントは戦隊長アルバムのものとは違って、トーン、グラデーションが表出したよい仕上がりなのです。ですから、機体は勿論のこと、青空は青空らしく、そこに浮かぶ雲も再現されているわけです。本書のカバー写真にも、青空に白雲がぽっかりと浮かんでいますね。

 これは、最近喧しい権利がどうとかいう問題とは違う話です。ですが、出典を隠すのは明らかにマナーに反する行為であり、非礼だと思います。


「月光の夏」の真実 06.7.7 「陸軍特攻」へ移動しました


航空管制 06.6.15

 財団法人航空交通管制協会の渡邊哲也さんから、機関誌「航空管制」をご送付いただきました。
 昭和31年に開設された航空局調布空港事務所が50年の幕を閉じてこのたび閉鎖となり、東京都に全面移管されたことから、本号では米軍管理時代の昭和38年から調布管制塔に勤務された管制官OBの思い出も掲載されています。

 この中に、日大のN-62がダウンウインド・レグでエンストして、当時使われていなかった補助滑走路10/28に不時着したことが出ていますが、これは初めて知りました。昔はこの程度の事故は報道もされなかったと思いますが、今だったらすぐにテレビのヘリが大挙来襲して騒動になるところでしょう。

 米軍飛行クラブ。私もこれは覚えています。既に部隊は撤退して閑散としたエプロンにセスナ150と古ぼけたスチンソンL-5が2機ずつおりました。
 教官は日本の人だったようでしたが、とにかく朝から夕まで休みなく離着陸を繰り返していました。L-5はファイナルアプローチで、パンパンパンとバックファイヤーの乾いた音を響かせていたのが印象にあります。
 その他にも低翼単発双尾翼のエアロクーペとか真っ赤なエアロンカとか、古い軽飛行機もよく見かけたのですが、これらは立川の米軍飛行クラブから来ていたようです。

 この頃は、金網一つ隔てた向こうは豊かなアメリカそのもの。まるで別世界でしたが、憧れを感じる一方で日本の中の外国への反発とが、子供であった私の心にも共存していた時代でした。




振武寮の虚構 06.6.8 「陸軍特攻」へ移動しました


日本遊覧航空と映画 06.5.16

 もう覚えている人も少ないでしょうが、昔、羽田空港に「日本遊覧航空」がありました。羽田−伊豆大島、八丈島路線と東京上空の遊覧飛行を運航していた会社でした。
 最初は、設立者青木春男氏(元立川飛行機テストパイロット)の名を冠して「青木航空」と名乗っていました。設立発起人にも名を連ね、運航部長を務めたのが、惜しくも昭和29年にツインビーチの事故で亡くなった244戦隊のエース市川忠一氏です。

 この会社のダブやヘロンは、オーバーホールのために調布の伊藤忠航空整備に来ていました。大東亜戦中の航空審査部のB17や占領直後の米陸軍のB17を除いては、ヘロンはたぶん、調布飛行場に降りた唯一の4発機だったでしょう。
 ダブとヘロンは当時既に珍しかった水冷エンジンなので空冷とは明らかに音質が違い、静かで滑らかな爆音だった印象があります。
 私は子供だったし日本遊覧航空を利用したことなどありません。ところが今もこの会社に、実に懐かしく親しみを感じてしまうのは、明らかに映画の影響なのです。
 
 「天と地を駆ける男」と「紅の翼」。どちらも石原裕次郎の映画ですが、2本とも日本遊覧航空が全面協力で、完全に会社の宣伝になっていました。むしろ、同社があってはじめてこの2本が成立し得たのだと思います。

 前身の青木航空は元来、財界のバックなどとは無縁の元陸軍の飛行機野郎たちが、空へのカムバックだけを願って設立し、みごと航空機使用事業免許第1号、不定期運送事業免許第2号を獲得した異色の会社でしたが、この2本の映画への肩入れぶりにも、同社の出自と心意気が反映されているように感じられます。
 なので航空考証は完璧。映画を楽しみながら航空の勉強になりました。特に「天と地を駆ける男」で二谷英明扮する日系人教官のATCやナビゲーションのリアルさには、航空従事者の卵だった時代に見て、正直感動を覚えたほどです。

 この作品は裕次郎とともに「ダブ」が主役といってもよいのですが、このダブを操縦していたのが、かつて比島航空戦を隼で戦い、244戦隊では5式戦を飛ばしていた吉原氏だったことも、ずいぶん後になって知りました。

 昔、日本遊覧航空のパンフレットが家にありました。定かではありませんが、ダブの一日貸し切り料金が10万円、セスナ170/172が3万円位だったような記憶があります。
 因みに、身内が撮影所に勤務していた関係でスターのギャラの一覧も見たことがありますが、裕次郎が一本100万円、美空ひばりが200万円、藤村有弘などの脇役クラスが20〜30万円だったようです。
 経済的価値がもう一つピンと来ませんが、それからすると、ダブが一日使えて10万円は安いかもしれませんね。

 日活の航空映画は他に、テキサン(SNJ)が零戦に扮した「零戦黒雲一家」、調布飛行場を舞台に裕次郎とセスナ170Bが活躍する「何か面白い
(おもろいことないか」もありましたし、また東宝では、日本遊覧航空協力のもとで藤沢飛行場が舞台の「紅の空」という作品もありました。
 日本では航空映画と言える作品自体が少ないのですが、飛行機野郎たちの会社、日本遊覧航空が生んだ「天と地を駆ける男」と「紅の翼」は、本物の航空映画であったと思います。


マスターモデラーズ 06.3.23

 このたび発売の模型雑誌『マスターモデラーズVol.33』に、小林戦隊長乗機が特集されています。是非ご高覧下さい。
 ポーランドの人が作った飛燕の芸の細かさには驚きです。全ての点検口、給油口までが開くとか、ここまでしなくても…と感じてしまうほど。
 私は「マルサン」で育った世代ですから、お年玉を貰うと真っ先に近くの文房具店にプラモデルを買いに行ったくらいで、小学校から中学にかけてプラモは数え切れないほど作りましたが、玩具の延長であったあの頃のイメージとは全く違いますね。「芸術作品」と言ってよいと思います。

 最近の飛行機模型事情には全く疎いのですが、以前はネット上でも散見された「クローバー飛燕」とか「黄色の落下タンク」を見かけなくなったのは、喜ばしいことです。
 かつて陸軍少年飛行兵15期生であった画家の渡部利休さんが、ある人物が米国の出版物の記述を受け売りして黄色の落下タンク説などを流布したことに、怒りを顕わにされていたことを思い出します。
 因みに渡部さんは、中学時代に知り合いのパイロットに誘われてムーランルージュの慰問興行を見物に調布飛行場を訪れ、3式戦に触ったことが、少年飛行兵志願のきっかけになったそうです。

 以前、ある掲示板で、黄色タンクが確かに存在したとする書き込みを読んだ覚えがありますが、これは、あったとしても特殊な例外でしょう。
 メーカーや航空廠での試験飛行では、飛行場内か否かは分かりませんが、所定の場所でタンクの投下試験も実施したはずですから、危害防止と後の回収をし易くする目的で目立つ色に塗っていた可能性はあるかもしれません。
 しかし、実施部隊ではないです。それなら、わざわざ大変な労力をかけて迷彩塗装を施していた意味がありませんね。

**************:
 ところで、昔の航空雑誌は、一冊の半分が模型関連の内容でした。毎号、プラモではなくてソリッドモデルやラジコン、Uコンの製作記が連載されていて、子供の身では作れなくとも、それらを読むだけでも楽しかったものです。
 あの頃の航空雑誌は、現役航空人から旧軍経験者、そして小学生までと、実に幅広い読者を抱えていて、その誰もが楽しめる内容であったと思います。

 子供が翼の下で遊べた調布飛行場は、やや例外ではあったでしょうが、昭和30年代には、庶民が飛行機の乗客になるのは難しかった反面、飛行機そのものは身近に感じられる存在であったと思います。でも、今は逆です。
 あの楽しかった航空雑誌にも、牧歌的な飛行場風景にも、きっともう二度と会えないのでしょう。

 確か昭和45〜46年頃、友だちと羽田空港の管制塔にアポなしで行って、見学させてもらったことがあります。警備のチェックとか、そんなものは一切ありませんでした。
 真っ暗なIFRルームでのものすごい緊張感と、逆にその上のVFRルームのノンビリした明るさとの対比が印象に残っていますが、既にもうハイジャック事件も起きていたのに、まだあんなに無防備だったんだ…と、いま書いていて思い出しました。


有蓋掩体の保存 06.3.7

 大東亜戦時には約30基を数えた調布飛行場の有蓋掩体(半地下式掩体)は、現在4基を残すだけです。
 そのうち2基は、上段写真のように三鷹市大沢の旧飛行場用地(都有地)にあるのですが、掩体の保存を働きかけてきた人たちの努力が実って、1基を東京都が永久保存することになったそうです。
 しかし、劣化が激しいために中空のままでは強度が保てず、中に樹脂の詰め物をするという話です。

 この掩体の保存運動には私も誘われたことがありますが、今更ただのコンクリートの塊に対してエネルギーを注ぐ気持ちにはなれず、参加したことはありません。

 現在大沢総合グラウンドとなっている場所には、かつて下段の写真のように3基の有蓋掩体がありました。
 何の邪魔にもならず保存するなら絶好の場所でしたが、昭和50年、飛行場が都に返還されると同時に、誰の話題に登ることもなくあっさりと壊されてしまいました。その場所は、今も草地のままです。

 当時は、世間的にも戦跡云々などという動きは一切なく、むしろ人目を避ける少年非行の温床になるとか、ゴミ捨て場と化すなどの理由で、早く壊せというPTAや住民の声もあったと思います。
 今回保存の対象となった苗甫
びょうほ内の掩体は、昭和50年当時既にボロボロだったのを知っていますが、あの3基の掩体は長らく米軍に管理されていて水耕農場の物置にも使われていたらしく、小さい方の開口部にはガラス窓も付けられていました。なので、状態も非常によかったのです。

 あの場所であれば、コンクリートの塊という単なる物体を越えて、「古戦場」という形で戦争の記憶を後世に残すこともでき得たと思いますが、いまさら言っても始まりません。

 最近は、「戦跡考古学」なる言葉があります。しかし、戦跡などほとんど姿を消してしまってからこれが提唱されたのは、不可思議な感じです。もう明らかに手遅れでしょう。
 もしかしたら、文化財関係の予算獲得の新たな名目として編み出されたのでは?と思ったりもするのですが、これは穿ちすぎでしょうか。
昭和32年頃撮影の空中写真



掩体A、Bは現存。引込線の外側(右上)は昭和30年東京都に返還された。




掩体Dは、戦時のままに土が被っており、Eは営門のすぐ横にあった。
当時滑走路以外の土地は、調布水耕農場土壌部の畑になっていた。



黒木少尉の微笑 06.2.1 「陸軍特攻」へ移動しました


上原少尉 06.1.12 「陸軍特攻」へ移動しました


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