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戦争映画 05.12.19

 戦艦大和をテーマにした映画が公開されます。しかし、仮に内容がどんなに素晴らしいものであったとしても、薬物犯罪で有罪になった者(原作者は彼の姉)が、制作者として堂々と名を掲げていることに、違和感を感ずるのは私だけでしょうか。
 ヤクザ映画ならいざ知らず、この人物はいくらなんでも相応しくないと思うのが、日本人のまともな感覚だと思います。もし私が遺族の立場であったなら、許さないと思いますよ。

 昭和30年代は映画産業全盛で、私の身内にも東映、大映、日活にそれぞれ勤務していた者がおりました。当時も多くの戦争映画が作られましたが、もしあの時代であったら世間の非難を浴びたであろう…というよりも、こんなことはあり得なかっだろうと思います。

 この作品については知りませんが、過去の戦争映画では、陸軍ものでは兵隊への暴力シーンが軍の日常として登場するのに対し、海軍ものでは見かけないような印象があります。

 小林照彦氏が軽爆中隊長であった当時、演習のために一ヶ月軍艦に乗せられて家に帰ってきた際、
俺は、ああいうのは嫌だ。陸軍でよかった…
と、夫人に呟いたと聞きました。彼は、水兵を棒で殴るひどい体罰を目の当たりにして、ショックを受けたのです。

 船という密室の出来事は外には漏れないし、その船もほとんどは海の底に沈みました。まさに死人に口なしで、今日実相が伝えられていないのだと思います。大和も決して例外ではないはずです。


大詔奉戴日 05.12.4

 12月8日は、64回目の大東亜戦争開戦記念日。昔は大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)と言いました。

 50周年の時ですから、1991年だったと思いますが、真珠湾攻撃に関するドキュメンタリー番組がいくつか放送されました。
 その一つで、真珠湾攻撃隊の零戦パイロットだった大多和さんという方が、
真珠湾の敵艦隊が見えたときは、武者震いがして、よくぞ男に生まれけりという気持ちだった」と語っていました。
 私は、これは正直な感想だろうと思いましたし、これをそのまま取り入れた制作者には敬意を持ちました。

 ところが、数日後の新聞に投書が載りました。
「今から人殺しに行くのに、不謹慎だ。戦争とは悲惨で残酷なものなのに、こんな番組を流すべきではない…」
 その後テレビでは、まともな戦争ドキュメントにはお目にかかっていないような気がします。

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 最近ブームの昭和30年代は、何故か言われませんが、国民大衆の間に戦後最も愛国心が高揚した時代でもありました。

 何年か前の国旗国歌法制化の際、戦争の象徴である日の丸は忌まわしいものだとか、東京国立市の小学校では、戦後一度も国旗を掲げず君が代も歌わないことが誇りだった…とか、信じがたいことが新聞に書かれていて、目を疑いました。戦争が今よりもずーっと身近に感ぜられた昭和30年代には、日の丸・君が代アレルギーなどなかったからです。

 昭和30年代の祝日に戻って東京の住宅街を歩いてみて下さい。家々の門ごとに掲げられた日の丸が、嫌でも目に飛び込んでくるはずです。その鮮やかさは、今も私の目に焼き付いていますが、皆さん忘れてしまったのでしょうかね。もちろん我が家でも日の丸を掲げていました。

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 最近のマスコミから流される「戦争体験者」たちの証言は、ことごとく同じトーンです。目を潤ませながら、「悲惨で残酷な戦争は二度と起こしてはいけません…」。
 これには、大いに違和感を感じます。私の子供時代の周囲の大人たちは、当然皆「戦争体験者」でしたが、このようなトーンの話は皆無だったからです。

 私の記憶に強く残っているのは、「日本は何故アメリカなんかに負けたんだ」「今度やるときは絶対に勝つぞ」といった元気のよい言葉たちだけです。もちろん、「もう一度戦争…」などと真に思っていた人はいないでしょうが、あまりに落差が大きいのです。

 つまり、戦争から10年ほどしか経ていない時代には、大東亜戦争自体の否定ではなく、国民は負け戦であったことこそを問題にしていたというのが、私の実感です。

 出版物、映画などでも戦争ものが全盛。源田実が週間文春に、高木俊朗が週刊朝日に戦記を連載していて、小学生だった私は、こんな大人向けの週刊誌を親にせがんで買ってもらいました。

 テレビでも「嗚呼、戦友」という番組が毎週流されていて、芥川比呂志と244戦隊の戦友たちのご対面もありました。
 土曜の午後には、入間基地のF-86やC-46の前で音楽隊が演奏する自衛隊PR番組もありましたし、NHK教育テレビでは、自衛隊幕僚長たちが顔を揃えての机上演習さえも放送されました。でも、これらの放送が国民の批判を浴びたとは聞いたことがありません。
 戦争関連の番組が、民放でさえ夜8~9時という高視聴率の時間帯に放送されていたことも、今とは全く違います。

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 国民の間に軍事アレルギーや日の丸・君が代アレルギーが真に存在したのなら、戦争に近い時代ほど強くなければおかしいのですが、事実は全く逆です。
 これらは、戦争や軍の実相を知る人たちが世の中から姿を消すとともに、それを待っていたかのように、一部の者たちが作り出した虚構だと思います。

 「きけわだつみのこえ」が、全体の中ではごく僅かでしかない反戦、厭戦的な文書だけを選んで、学徒兵(インテリ)=反戦平和主義者という、誤ったイメージを意図的に作り上げて広め、未だにこれを信じている人も多いようです。
 またこの頃は、「特攻隊は国のためではなく、愛する家族、恋人のために死んだ」などという「
」を広めようという動きも感じられます。
 英霊たちは、国のため陛下のためならばこそ死なねばならなかったし、死ぬこともできたのに、彼らに対してこんな侮辱はありません。

 間もなく生き証人たちは姿を消し、大東亜戦争は、出版物や映像でしか知ることができなくなります。そして、実相とはかけ離れた戦争像や軍隊像だけが、「歴史」として後世に残されるのでしょうか。


消える調布タワー 05.11.25

 調布タワーが消えるそうです。といっても、管制塔の建物がなくなるわけではありません。管制業務がTower(飛行場管制)からRadio(管制通信)に移行されるということです。

 地元の一部には、安全が脅かされる…と反対する声があるようですが、タワーがあろうとなかろうと、VFRでは本来、パイロットの目視確認によって飛行しているのだから、これは素人考えといってもよいだろう、というのが私の素人考えです。

 もともと調布飛行場は歴史的経緯から、国管理の2種空港に準じた扱いがされてきたため、管制もタワーでしたが、地方管理の3種空港は皆、ジェット旅客機が就航する空港でも、レディオで何十年間も運営されてきているのです。

 今の調布飛行場に昔の面影はゼロで、私はたまに車で通り抜けるだけですが、「調布タワー」というコールサインが消えることには、若干の感慨を持ちます。

 このコールサインに初めて馴染んだのは、昭和44年。下にも書いた航空級通信士を受ける参考になるのでは…と考えて、エアバンドのモニターを始めたときでした。

 エアバンドのモニターは今では珍しくなく、多種の高性能受信機が売られていますが、当時国内向けには「品川無線」の一機種だけで、価格も2万円近くでしたから手が出ず、秋葉原で輸出用ラジオのバッタ品(倒産処分品)を7000円ぐらいで手に入れました。

 当時は「飛行クラブ」が盛況で調布の離着陸は極めて多く、日没の早い冬の夕刻には着陸機が集中して、田無、登戸、読売ランドには各々2~3機がホールドして順番待ちをすることも珍しくありませんでした。しびれを切らしたパイロットが、管制官や他機とケンカをすることさえありました。

 夕刻になってロストポジションのアマチュア機が助けを求め、教官機が日没後も上空に残って横田アプローチと遭難機との間で通訳をし、無事、遭難機を入間飛行場へ着陸させたのも、鮮明な記憶です。既に暗闇ですから、照明のない調布では、自動車のライトで滑走路を照らして、教官機を着陸させました。
 その他にも、日没前に10機ほどが降りそこない、同様に車のライトを使って着陸させた事件もあったと聞きました。これがもし今だったら、きっと問題になったことでしょう。

 雷雲や強風で管制官が退去してしまうオンボロ管制塔と共に調布飛行場の名物といわれていた、中村管制官の実に歯切れのよい英語も、未だ耳に残っています。
“Cessna tree zero tree ait, this is Chofu tower, go ahead”


真空管の記憶 05.10.30

 私が完全に絶滅したと思っていた真空管が、最近、趣味のオーディオの世界で復活してきていることを知りました。
 私は、エレクトロニクスの勉強をしていたときに実習で作った5級スーパーラジオがきっかけで、真空管式アンプ製作を趣味にしていましたが、広告の中に、その頃にお馴染みだった5極出力管6BQ5(ろくびーきゅうご)の名を見つけ、昔を懐かしく思い出しました。

 同じ頃に航空級無線通信士の国家試験を受けたのですが、あの時代は極端なパイロット不足だったため、全日空が採用した英国人パイロットたちも試験会場に大勢来ていて、それも皆、家族連れだったのにはビックリでした。

 当時は、郵政省が外国の無線従事者資格の書き換えを認めていなかったために、日本国内で乗務する外国人パイロットは、日本の無線従事者免許をあらためて取得する必要があったのです。
 彼らとは部屋が違っていたので分かりませんが、電気通信術の「アルファ、ブラボー」はともかく「朝日のア、いろはのイ、上野のウ…」なんて、外人さんたちに言わせたのでしょうかね。

 当時の日本はまた、あからさまな保護貿易をやっていました。軽飛行機でも、低翼単発のパイパーは、国産のFA200を脅かすというので、代替のない高翼のセスナに比べて遙かに高い差別的な税金をかけていたと思います。
 しかし、数多く使われていたセスナも、VHF無線機は米国のコンパクトな純正品ではなく、確か「斉藤理化学研究所」という会社の、結構大きな無線機が計器板に付けられていました。
 飛行機そのものは国内で製造していないから仕方ないが、代替のある装備品には国産を使えという行政指導の結果だったのでしょう。

 この無線機は当時最新のシンセサイザー(オールチャンネル)ではなく、水晶制御の6チャンネル程度のものでしたが、中を見てみると真空管と半導体併用のハイブリッド回路で、変調器には自作アンプでも愛用していた東芝6BQ5Hi-Fi用が使われており、高信頼管の登場を期待していた私は落胆した覚えがあります。
 高信頼管というのは、元々航空機搭載用に開発された耐久性と信頼性を格段に高めた球で、一般受信管(6BQ5が、当時確か3~400円)よりも10倍ほど高価な、マニアには垂涎の真空管でした。

 30年以上前の思い出話でとりとめがありませんが、最近では、CDに駆逐されてしまったかに見えたレコードも見直されてきたようです。人も物も、その評価は時代とともに変わるもので、今日の評価と将来のそれは、必ずしも一致しません。
 既にその兆しは見えていますが、昔の、否、本来の日本、ひいては大東亜戦争と皇軍に対する評価も、将来きっと変りますし、そうあるべきだと思います。今日、ないがしろにされている英霊たちが国民から敬愛される存在になるのも、決して遠い日のことではないような気がします。


平成17年度244戦隊会 05.10.22

 秋の例大祭で賑わう靖国神社において、今年度の244戦隊慰霊祭が行われました。私も昨秋の上梓を英霊に報告しましたが、出席の皆さんも喜んで下さって、嬉しく思いました。

 返送された出欠葉書には「体調不良」という言葉が目立ちましたが、今回の出席隊員でも最年少が79歳、最年長が88歳ですから、致し方ないことなのでしょう。生き証人である皆さんのご長寿を、ただ祈るばかりです。
 この1年間の物故者は、小林千恵子氏、伊藤 薫氏(特操1期)、茶園 力氏(特操4期)、井熊春司氏(戦隊本部功績係)の4名でした。

 なお、菊池俊吉氏撮影写真の中で、一見プロペラ交換を思わせる光景や、本来禁じられていた、飛行機を手押しで前進させる(動翼に触れてはならない)様子など、大いに違和感があり、やはり実態を写したものではないとの意見がありました。


飛行第47戦隊 05.10.1

 故刈谷正意さんの薫陶を受け、郷土史の視点から飛行第47戦隊と成増飛行場について調査研究されている山下徹さんから、ビデオ作品「成増陸軍飛行場の記憶」をご恵贈いただきました。

 このビデオは、山下さんが全国各地の47戦隊隊員各位を訪ね歩いてインタビューした模様を撮影したもので、今年8月に完成し、板橋区内で上映会も催されています。

 冒頭、刈谷さんが登場されたのには懐かしさを感じましたが、刈谷さんを含めて整備隊2名、操縦者7名、それに当時を知る地元旧家の人たちの回想が淡々と収録されていて、自分自身が話を聞いているような錯覚を覚えました。実に貴重な記録です。
 私には、「殺人機といわれた二単に乗っていたときは常に緊張状態だったが、機種改変になって、4式戦は鼻歌を歌いながらでも乗れた…」という操縦者の実感も印象に残りました。

 そして最後には、47戦隊(旧独飛47中隊)、第100飛行団、各特別攻撃隊の英霊約100名の氏名が静かに流れます。これを見て、私は思わず手を合わせました。

 244戦隊と並び帝都防空の双璧であった47戦隊の記録が残されることは、誠に喜ばしいことですし、山下さんの調査研究が進み、将来、47戦隊史の上梓へと昇華されることをを祈りたいと思います。


報道特集 05.9.26

 軽薄な小泉賛美の大合唱に吐き気を催し、近頃テレビはほとんど見ませんが、たまたまスイッチを入れたところ、「飛行第5戦隊云々」と出ていたので、そのまま最後まで見ました。5戦隊は、昭和20年3月11日、航号戦策(によって、一時清洲から調布に移動したこともあります。

 これはTBSの「報道特集」という番組で、昭和20年5月29日に大井川上空で体当り戦死した河田少尉が実は朝鮮人で、その遺骨が今年になるまで韓国の遺族に引き渡されなかったのは何故か?という話。

 どうして敗戦前に遺骨が朝鮮の遺族に届けられなかったのか?…を、追求していましたが、飛行隊長馬場保英氏(若々しいのにびっくり)をはじめ、何人かの元5戦隊員にインタビューをしていながら、その点を聞かなかったのでしょうか。おかしいですね。

 そして、
B29体当り撃墜という「日本人でもできない殊勲」を挙げたのが、実は朝鮮人だと知れるのを恐れて遺骨を引き渡さなかったのだ…という、とんでもない結論を韓国の人に言わせていましたが、何とか口実をつけて陸軍を、更には日本国を貶めようという番組の意図を感じました。当時、体当り攻撃は珍しいものではなかったのに。

 戦死者の遺骨は、部隊葬の際に遺族に引き渡されるのが普通ですが、遠方で来られない場合などは隊員が遺族の元に持参します。また敗戦後の場合には、同方面へ復員帰郷する隊員が遺族に届けました。
 5戦隊も事情は同じだと思いますが、河田少尉の場合は朝鮮ですから、隊員が朝鮮まで行かねばなりません。しかし戦争末期の交通事情、それに海も渡らねばならないのですから、帰りのことも考慮すれば、難しかったでしょう。また敗戦後であれば、もう内地から朝鮮には渡れません。

 因みに、20年7~8月には、東京から八日市まで、および八日市から知覧までの移動に、それぞれ鉄路で約1週間を要した例があります。
 河田少尉の遺骨が届かなかったのは、彼が朝鮮人だからではなくて、遠すぎたのと敗戦が重なったという事情からでしょう。でも、「
結論先にありき」だから、自分らが望む結論にとって都合の悪い話は無視したのだと思います。

 それに、昨夏のNHK番組と同様、朝鮮人が何故日本軍人になったのか、さも不思議なことのように言っていましたが、当時は日本だったのですから、何も不思議はないです。
 特操に志願し、厳しい訓練に耐えて操縦徽章を受けたのは、軍人になろうという強い意志を持っていた証であり、体当りはその究極の発露です。あの時代には、それは悪いことでは全くありません。後の朴大統領は陸軍士官学校57期生だったし、彼を暗殺した側近も特別幹部候補生でしたよ。

 最後に蛇足ですが、河田少尉が乗っていた「屠龍」との説明で出てきた写真は、100式司偵でした。

 航号戦策は、大空襲に備えた臨時防空戦力増強策。5月25日大空襲の後には、飛行第4戦隊が調布へ来た。


言葉の問題 05.9.5

 だいぶ前の話ですが、ある大新聞のコラムに、最近の若者が一人称に「自分は…」というのを聞くと、旧陸軍を連想して嫌な気分になる…という内容が書かれたと記憶します。
 陸軍=嫌な…という書き手の連想は先入観そのもので、これ自体おかしいとは思いましたが、元陸軍人たちから寄せられた反響は、曰く
自分は…は、軍隊用語ではない
軍人教育の中にはない言葉で、私たちは使っていない
ということ。これには、書き手も驚いたようです。

 そうなのです。以下はあくまで私の理解ですから正確でないかもしれませんが、陸軍では下士官・兵の場合、上級者に対して、あるいはややあらたまった会話の場合、「○○兵長は」または「○○は」などと姓を名乗り、将校の場合には「わたくしは」が原則だったと思います。

 ところが、現実には「自分は…」も、使われていました。いつ頃から、どの程度の広がりだったかは判然としませんが、使われていたことは確かなのです。しかし、「軍人教育の中にはない言葉」なので、教育隊等では聞かれなかったのかもしれません。

 想像ですが、下士官・兵の場合に姓を名乗るのが原則とはいっても、連続した会話の中でその都度自分の姓を口にするのはギクシャクして疲れます。そこで、将校の「わたくしは」に対応する下士官・兵用の言葉として、あらたまった感じで品格のある「自分は…」が編み出されたのではないでしょうか。

 もう一つ重要なことは、帝国陸軍の持つ二面性です。軍は建前と実態の乖離甚だしいところだと、私は感じます。表から見るとあるものが裏から見るとない。またその逆。
 端的にいえば「
嘘の多い社会」なのですが、その嘘がまた実に上手く使い分けられていた社会でもあります。
 ここが面白いところでもあり、真実の見極めを難しくする要因でもあります。「自分は…」の件も、象徴的な一つの例であるように思います。

 ですから、当時の軍の文書だからといって100パーセント真に受けることは疑問で、実は実態を反映していなかったり、あるいは指示等が実際には履行されていない可能性は少なくないと考えます。
 『飛燕戦闘機隊』で指摘をした、十干が丙以前の3式戦胴体内燃料タンク未撤去の件も、あるいはその類だったのか、とも思います。

 言葉は正確に越したことはないのですが、確認のしようがない例も多く、あまり拘ると文章自体が書けなくなってしまう弊害もあり、悩むところです。
 しかし、歴史的事実をあつかう以上、タイムマシンに乗ってその時代に立ち戻ってものを見、表現する姿勢は絶対に必要です。

 昨夏のNHK番組のように、無反省に相変わらずの「大本営発表」を続けている今日の自分らの行いなどは一切棚に上げて、大東亜戦争の時代を冷ややかに見下す態度では、真の理解には永久に至らないでしょう。
 例えば、特攻作戦を今日の価値観から批判することは容易です。が、あの時代としては自然な発想であり(陸軍内部には戦術的疑念からの反対はあったが)、もしも戦局に利していたなら、賞賛されていたに違いないのです。

 よく、「憲法第9条のお陰で平和が守られてきた」などと語る人がマスコミに登場しますが、この60年、
日本が軍事力で守られていなかった日は、一日としてありません。言葉の遊びです。
 最近では、戦争という言葉さえ使いたくないらしく、必ず「平和○○」と枕詞が付きます。戦争を平和と言い換え、「鶴」を折っていれば、それで世界から核兵器は姿を消し、戦争は起こらなくなるのでしょうか???


戦争遺跡ガイドブック 05.8.15

 武蔵野、三鷹地区の戦跡ガイドブックが新たに発行されましたので紹介します。
 内容は、大別すると中島飛行機武蔵製作所、同三鷹研究所、調布飛行場にまつわる歴史と、現存する戦跡が取り上げられています。

 このうち、三鷹研究所と調布飛行場についての執筆は、かつての研究所用地にあるICU(国際基督教大学)高校で教諭をされている高柳さんで、巨人中島知久平が晩年を過ごした「泰山荘」や天文台東側の高射砲第112連隊駐屯地(陣地)についても詳しく書かれています。
 本書は正確且つ客観的で、またサイズはコンパクトながら空中写真・図版も多用され、平易に読みやすくまとめられています。

  『戦争の記憶を武蔵野にたずねて』 牛田守彦・高柳昌久著
  ぶんしん出版発行 ISBN4-89390-100-1 定価¥800

本書の注文はファックスで、0422-60-2200「ぶんしん出版」まで、書名、送付先住所、氏名、電話番号および冊数を明記のうえでお願いします。
 価格は1冊¥800、送料税込みで¥1000となります。支払は本到着後、同封の振込先へお願いします。
 なお、啓文堂三鷹店(コラル)、啓文堂吉祥寺店(ユザワヤ地下)、弘栄堂書店(吉祥寺ロンロン2階)では、店頭でも購入可とのことです。




銀座と戦争 05.8.13

 やや遅くなってしまいましたが、菊池徳子さんから写真展のお知らせをいただきましたので、掲載します。

         
炎につつまれてから60年-「銀座と戦争」写真展
   8月11日(木)~8月16日(火)午後5時まで  銀座松坂屋 7階催事場 入場無料


特攻隊と共に 05.8.4

 本を一冊紹介します。「特攻隊と共に―陸軍航空隊の誘導掩護任務
 本書は、下士学91期の大志万房雄
(おおしまん ふさお)氏が生前に書き残された戦時体験記を、お孫さんが補足、編集されたものです。

 個人の記憶に基づく記述ですので、思い違いや語句の誤りなどは散見されますが、率直かつ簡潔に書かれていて、好感が持てます。

 本書の場合は、お孫さんのお陰で世に出たわけですが、どんなに貴重な体験(記憶)も資料も、死蔵されている限り「無」に等しいものです。人の目に触れて初めて、「情報」としての価値が生まれます。

 人にも物にも寿命がありますから、何もせずとも、これらは時間の経過とともに消え去る運命にあります。だから、せめてその前に公にして、情報としての命を与えるべきなのです。

 古文書の中に、原典はとうの昔に失われて写しだけが現存している例が多いことでも分かりますが、唯一最良の保存方法は、出版やインターネットによって、大量のコピーを作ることだと、私は思います。


タイトル写真 05.7.21

 5年振りにタイトル写真を変更しました。当サイトは、既に販売中止となっているHP作成ソフトの、それも無料お試し版で作成しているため、デザイン的に凝ったページは作れず、画像を入れ替えるぐらいしかできないのです。
 が、その代わりシンプルでトラブルもなく使いやすいので、このソフトのためにだけ、古いパソコンも残してあります(お試し版なのでバックアップディスクがない)。

 ややこじつけですが、トラブルが少ないといえば、この写真の5式戦を想い起こします。
 5式戦に対する評価は、私の印象では操縦者によって二分されるような気がします。高く評価するのは、他機種から3式戦に乗り換えていたグループで、最初から3式戦で育った人たちからは、5式戦に対して前者のような「絶賛」などは聞いた記憶はありませんし、むしろ「3式の方が好きだ」といいます。

 整備隊員でも、5式戦が初めて調布に来たときには、「なんと不格好な飛行機だ」と思ったそうで、様々な問題があったとはいうものの、長期間3式戦に携わった人たちの本機への愛情は、比類のないものです。

 蛇足ですが、私の経験では、ある程度以上の実績(実戦経験とでも表現した方がよいかも)を持つ操縦者で、飛行機のことを悪くいう人はおりません。もし、飛行機に責任を転嫁する人がいたら、その人は操縦者として未熟なままで終わった人だと思って構わないかもしれません。

 さて、5式戦が買われた理由はもう一つ、登場した時期が戦局に合致していたことも大きかったでしょう。
 3式戦は多くが高々度対爆戦闘でしたが、5式戦の時期には小型機来襲が恒常化しており、対戦闘機には小回りの効く5式戦が有効であったのです。これが3式戦であれば、巴戦には入れずに逃げるしかなかったのですから。

 3式戦を使い続けた他戦隊の操縦者からは、相手が戦闘機であれば、戦隊長は絶対に戦闘には入らなかったと聞きました。勿論、戦闘は数の勝負なので、その戦隊が通常1個飛行隊(12機)以下しか戦力が揃わなかった事情もありますが、飛行機が3式戦であったことも、おそらく影響していたであろうと思います。

 因みに、戦隊では3式戦のことをキ61(
きのろくじゅういち)とは呼びませんでしたが、5式戦の場合には、キ100(きのひゃく)、人によっては一〇〇式戦(ひゃくしきせん)とも呼んでいます。これは語感がよかったせいもあるのかもしれません。

 さてこの写真は、昭和20年5月17日午後2時、244戦隊が知覧へ向け調布飛行場を飛び立った際に、調布飛行場西地区の独飛17中隊整備隊員が、滑走路北端から航空カメラで撮影したものです。
 この写真自体は以前から出版物に使われてきていますが、極端に拡大されてトーンが飛び、向きも変えられていたために、大いに違和感がありました。

 でもこうしてみると、初夏の空気までもが写っているように感じられ、頭上を航過するハ112 1500馬力の低い唸りが聞こえてきそうなよい写真だということが分かります。
 なお、本件には山下徹氏のお力添えをいただきました。山下さん有り難うございました。


昭和32年6月4日 05.6.1

 6月4日は、小林照彦氏のご命日です。当日、小林氏は本来搭乗予定の部下の体調不良のため、代わりをかって出て事故に遭われたと仄聞しています。

 それから13年を経た昭和45年、未亡人千恵子さんがご主人との思い出を綴られた「ひこうぐも」を上梓されました。
 本書は好評で、短期間に7000部以上が売れたそうですが、間もなく版元の倒産にともなって、図らずも絶版となってしまいました。

 本書の内容は、あくまで夫婦の愛情物語というべきものですが、小林照彦氏の日誌が各所に引用されていることから、244戦隊史に準ずるものであるかのように誤解されたきらいがあります。

 かつて、私は一ファンとして、これほど名を馳せ、魅力的な244戦隊史を何故、名のある航空史家が取り上げないのか不可解でなりませんでしたが、あるいは、少なからず本書の存在が影響していたのかもしれません。
 彼らが手をつけなかった結果として、後年、私のような者に出番が回ってきたのですから、世の中は分からないものです。

 実は一昨年、小林千恵子さんから「ひこうぐも」復刻のご相談がありました。既に30年以上経って、お子さんたちの手元にもないことから、自費出版で孫たちに残したいと思われたそうです。

 出版当時ほとんど無名であった小林照彦氏は、本書がきっかけとなって今日では海外にまで知られる存在になりましたし、本書を読みたいが手に入らなかった…と言われる方が何人もいることを承知していましたので、自費出版では惜しいと、私は思いました。

 そこで、ご本人に内密のまま商業的出版の可否を打診し、写真主体の構成であれば可能との結果を得て、ご本人に報告しました。その節には、アートボックス(大日本絵画)社には大変親身な対応をしていただき、感謝しています。

 思いがけない話に、小林さんはとても喜んでおられたのですが、結局、本件は日の目を見ることなく、小林さんも亡くなられてしまいました。
 あくまでも結果論ですが、「ひこうぐも」の復刻がならなかった代わりに、昨年の「飛燕戦闘機隊」の上梓が叶ったという気もして、今となっては複雑な思いにもとらわれます。

 小林ご夫妻のご冥福をお祈りしつつ、「ひこうぐも」のあとがきから引用させていただきます。後段の部分は、私も全く同感です。

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 夫の事故は、浜松基地内で離陸直後に生じた墜落事故でした。
 射撃訓練のため、標的にする吹き流しをつけた曳的機T33ジェット練習機によるもので、前方席に天野三佐、後方席に夫は同乗しておりました。

 事故原因はエンジンの故障ということです。離陸一分後、高度三十三米の事故発生に対するパイロットの処置として最大限の努力がなされ、技術的にも立派だったことを伝え聞きました。

 あれから早くも十二年の月日が経ちました。
 その間にも親しかった人たちが、思いがけない事故で殉職されました。
 夫に続いて二週間後には中村三佐が夜間飛行訓練中に、また、ライリイ大尉も二年あとの春、入間川畔に機と運命をともにしました。

 いまや、まさに躍進を続ける航空界の華々しさの蔭には、幾多の尊い犠牲が数多くありました。その一つ一つは原因も、経過も違いますが、結果だけはただ一つ、厳粛な死という現実となって存在するのです。

 けれども生命の無ということは精神の無とは異なっていることを、十数年経ったいまも、強く感じております。
 亡き人々から受け継がれたものが、いつどこで開花するかはわかりません。
 或いは目立たぬ間に、日常の無事の中で開花は始まっているかも知れません。(後略)


244戦隊史頒布について訂正 05.5.10

 
下記5月4日付でお知らせした頒布の件ですが、早くもお申し込みが残部数に達しましたので、下記要領を取り消し、勝手ながら本日午後0時で締め切らせていただきました。以後のお申し込みにはお応えできませんので、ご了承下さい。
 本日までにお申し込み下さった方には、当方からご連絡いたします。


244戦隊史頒布について 05.5.4

 皆さま、いつもご支援を賜り、有り難うございます。
 さて、平成7年に上梓しました『陸軍飛行第244戦隊史』は一般への頒布分を既に完売し、関係者への贈呈用として僅かを残すだけになっておりましたが、このたび、これらもご希望の方に頒布することにいたしました。

 ただ、どれほどのご要望があるものか見当が付きませんので、期限を切り、その時点で申し込みが残部数を超えていた場合には、抽選とさせていただきます。
 また、何分にも10年前の本ですので今日では修正すべき部分がいくつかありますが、その点はご承知下さい。(以下削除 
5.10


特別攻撃隊の記録(陸軍編)について 05.4.13

 特別攻撃隊の記録 (陸軍編) 押尾一彦著/光人社刊 を読みました。私の僅かな経験に照らしても、これほどの写真蒐集に費やされた年月と執念は、甚大なものと想像します。
 しかしながら、それに比して、その成果を世間に公開し後世に残す手段である本書の執筆、編集には、何故かエネルギーは消費されなかったように感ぜられてなりません。

 私が最も気になるのは、本文の中で第160振武隊について
一切触れていないこと。著者は同隊の存在および行動経過を知っているにも拘わらず、何故無視したのか不可解であり、遺憾です。
 私が彼らを敬愛しているから特に思うのかも知れませんが、いま生きている者に忘れられたら、彼らの存在は永遠になきものになってしまいます。死者は決して声を発せられないのですから。

 次に、巻末の名簿を「
隊員名簿」と題していますが、これは特攻戦死と認定された者だけの名簿ですから、「特攻戦没者名簿」とせねばなりません。
 私は、後世への資料として生死を問わず全員を掲載すべきだと考えますが、死者だけと限定するにしても、殉職や通常戦死とされ、「特攻戦死」と扱われなかった人たちもいるのです。当時の制度や事情がどうあれ、今日では差別なく載せるべきでしょう。

 また、本書には著者の執筆動機や所感などは一切書かれていないので、著者が特攻作戦や英霊に対してどんな思いを抱いているのか伝わってきませんが、本文中に「散華」という言葉がやたらと連発されていることには、私は違和感を覚えました。
*************************************
 その他の明かな誤記を指摘します(誤植を除く)。

21頁 護国隊の写真説明で「フィリピンに到着後云々」は誤り。これは調布の戦隊本部中庭(だから12名全員が写っている)。
85および88頁 「3月(中略)調布飛行場に移駐云々」は、2月初頭が正しい。
85および88頁 「3月10日、(中略)遠州灘沖に出撃したが、(中略)調布に帰還した」は「19日」「浜松」の誤り。
145頁 165振武隊の項、「故障の原因は、移動によりアルコールキャブレターからガソリンキャブレターへの交換、調整不良云々」とあるが、三式戦にアルコール燃料は使えない。たとえ当事者の言であっても誤り。
195頁 平野俊雪少尉 特操1期幹候9期、角谷隆正少尉 幹候9期特操1期


B-29対日本陸軍戦闘機を読んで 05.4.6

 遅ればせながら『B-29対日本陸軍戦闘機』(高木晃治・ヘンリー境田著 大日本絵画発行)を読みました。
 本書は本土防空戦の入門編としては、簡潔に纏まっていると思いました。また、原文の誤りや説明不足を訳者が一つ一つ補足訂正していることには、好感が持てます。
 以下、気がついた主な点を挙げます。

1.37頁
 
昭和19年12月3日、来襲したB29編隊長機「42-24656」に攻撃をかけたのが小林大尉であると断定していますが、どうしてこんなことが言えるのでしょう? 小林氏の当日の日誌には、

敵機大規模ニ関東地区ニ来襲ス。邀撃ノ為離陸セルモ一撃ノ下ニ撃墜サル。発動機ニ受弾ス。予備機ニ依リ離陸セルモ高々度ニ上レズ、銚子沖合ニ待機セルモ敵ヲ捕捉スルニ至ラズ

 とあるだけで、相手を特定できるような記述は何もありません。また、「撃墜」と書いているのは彼流のオーバーな表現で、戦隊長になっての初陣でもあり、高揚して勇ましい言葉を使ったのだと思います。

 実は以前に、当該B29の機長と小林夫人を対面させようと執拗に働きかけ、美談としてマスコミに売り込んだ者がおり、これが成功した結果が本書にも反映されてしまったのです。
 仮に、機長の記憶する機種が事実、3式戦だったとしても、当日は244戦隊全力、18戦隊残置隊、航空審査部、常陸教導飛行師団の総計40機近い3式戦が上がっているのです。確かなのは、小林大尉も約40機の中の1機だったということだけ。
 本件は
事実無根といって過言ではありません。

2.73頁
 
1月27日、富士宮上空でB29を撃墜したのは、みかづき隊第2小隊の3名(市川、鈴木、木原)であることは、当時の報道をはじめ、鈴木伍長日誌、『244戦隊史』等で明白であるにもかかわらず、

「ウェアウルフ」(42-63423)も、おそらく月光に撃墜されたものと思われる
として、事実を無視し、その代わりに、大月付近で「タンパー」(42-24623)を攻撃したのが
市川忠一中尉だったかもしれない>更に<市川中尉はタンパーの撃墜を報告したかもしれないが…
と想像で書いているだけです。
当時はまだ少尉)

 当日、第2小隊は斥候として浜松上空で待機しており、「立川に転進せよ」との無線を受けて帝都に向かう途中に当該機と遭遇、撃墜したもので、燃料欠乏のために富士飛行場に着陸し、補給の後、そのまま浜松へ着陸しましたので、大月付近で交戦はしていません。

 両著者は『244戦隊史』を上梓直後に読まれていて、本書にもあちこちに引用して下さっています。名誉なことだと思いますが、本件に関しては、このような事実に反する記述になっているのが、不可解です。

3.97頁
 
4月7日、古波津少尉の体当りによって調布町国領に撃墜されたB29「Mrs.Tittymouse」(42-65212)の機首に描かれていた女性裸体画の写真が掲載されています。
 同写真に写っている16個の出撃マークとこの裸体画は、当時残骸を見物に訪れた人たちに強い印象を残し、私も話に聞いていたのですが、これが今日、写真によっても裏付けられたのには感慨を覚えます。

 本機の搭乗員のうち、機体から脱出、落下傘降下に成功した1名が、付近住民によって殺害されるという事件がありましたが、敵兵に対する民衆の反感は強く、畑中に意図的に放置された敵兵の遺骸を棒で叩くために、多くが列をなしていたそうです。
 一方、体当り生還した古波津少尉は、当該B29の主翼が落下した防空壕内で死亡した住民8名の墓参を戦後も繰り返し要望したが、遺族の許しが得られず、遂に実現しなかったと聞き及びます。

本書はこちらから注文できます→ B‐29対日本陸軍戦闘機オスプレイ軍用機シリーズ


小林千恵子氏逝去 05.2.17

 故小林照彦氏の未亡人、小林千恵子氏がこのたび逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


体当り記念日 05.1.27

 こんど、「ハセガワ」から飛燕のプラモデルが発売されるそうです。当方は門外漢なので製品については分かりません。
 しかしながら、この箱絵にはビックリ。なんと小林戦隊長が
2番機(僚機)で飛んでいます。これでは部下の指図に従って飛んでいることになります。

 絵描きさんは知らないのでしょうが、こんなことは有り得ません。どんなときでも編隊の先頭を飛ぶからこそ、「長機」なのです。もしこれが絵ではなく写真であれば、小林戦隊長が乗っているのは3295号ではなく、向こうに見える飛行機だということになってしまいます。

 1月27日は奇しくも60回目の「体当り記念日」。「オレが真っ先に突っ込むぞ!」という意気込みの表れとして、彼は244戦隊の慣例を破り愛機に派手な塗装を施したのに、絵の中の3295号はおとなしく、しかも天蓋を閉めているので戦闘態勢でもなく、とても体当りなどしそうにありません。

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 この日、244戦隊における体当り攻撃は7機におよび、前年12月3日に続いて小林部隊はその名を天下に轟かせました。
 これは、いかにも戦隊ぐるみ対空特攻隊と化したかの感がありますが、実は、体当り攻撃には、戦闘操縦者の本流である戦闘分科出身者(当初から戦闘機コースに選ばれた者)たちから強い抵抗がありました。
 戦闘分科出身者は戦闘技術に長けているため、もともと体当り戦法には疑念を抱いていたのに対し、小林大尉は軽爆中隊長からの転科で戦闘機の経験は極めて浅く、当人も自身の戦闘技倆に照らして体当りを推奨せざるを得ない立場にあったと考えられます。

 ただ、通常攻撃(射撃)にしても、敵機にぶつかる寸前まで接近しなければ射撃は有効ではなく、体当りになるか否かはまさに紙一重です。
 市川大尉は常々、「とにかく占位(最良の攻撃位置につくこと)がすべて。ぶつかるつもりでやれ。ぶつかるッ!と思った瞬間、
操縦桿を押さえるのだ」と部下に語っていました。
 「操縦桿を押さえる」というのは、速度が付くに連れて飛行機の機首は自然に上がり気味になるため、機首を下げて最後まで照準を外すな…という意味で、
衝突を回避するようでは弾は当たらないと言っているのです。

 小林戦隊長の体当りも、「当たっても構わない」という意思はあっても、意図的なものではありませんでした。直上方攻撃の反転時期・降下角を誤った結果、ぶつかってしまったというのが正確でしょう。はじめから体当りを意図していたなら、直上方などという難しく不確実な方法ではなく、四宮中尉などと同様、すれ違いざまの前方攻撃をかけているはずだからです。

 それはともかく、気の毒だったのは、僚機安藤喜良伍長だと私は思います。体当りによって空中分解した戦隊長機を眼前にした彼は、戦隊長は死んだと思ったに違いありません。
 前年末、戦隊長僚機を同期の石岡伍長から引き継いだ際、二人で「戦隊長殿にもしものことがあったら、生きては帰れんぞ」と語り合っています。僚機の第一任務は長機を護ることで、相手が戦隊長であれば、なおのことです。

 戦隊長体当りの後、彼はひとり死に場所を求めるが如く、体当り目標を必死に探したはずです。
 それが見つかったのは、約15分後。帝都上空で敵機に後方から接近して遂に体当りに成功、壮烈な最期を遂げました。
 後方からの接近は、B29の火網に捕捉される時間が非常に長いため、
自殺行為に等しく、通常はタブーなのですが、敢えてそれを実行したところに、彼の悲壮な決意が感じられるのです。

 244戦隊について他の戦隊の幹部の方に、
何故こんなに大勢(部下を)殺してしまったのか…? うちの戦隊では考えられないことだ。そうか、転科だからか!
と言われ、はッとした経験があります。

 戦闘技術とは、たとえ他機種で何千時間の経験があったとしても、一朝一夕に習得できるものではありません。
 高度な技術は、教官・助教からそれぞれの教え子に口伝で伝えられていくのが普通で、小林戦隊長のような大尉になってからの転科では、真の意味で教育し鍛えてくれる教官もおらず、逆に即、教える立場にならざるを得ないのですから、彼自身も孤独な人知れぬ苦労があったと思います。

 「244戦隊の基礎を築いた村岡飛行隊長の功績をもっと評価すべし」との声は、彼に教育された操縦者たちから何度も聞いていますし、今度の本に村岡氏の写真がなかったのは残念だったとの感想もありました(ただし、写真の選定は私がしたわけではありません)。
 村岡氏の念願通り彼が244戦隊長に就任していたなら、果たしてどんな結果になっていただろうか…と、私自身も強く思うところです。


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