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Meatballs and Dead Birds 04.11.10

 戦後、厚木飛行場に進駐した米陸軍将校 James P. Gallagher氏が撮影した皇軍機の残骸写真は、過去数度にわたって出版されていますが、このほど改めて Meatballs and Dead Birds: A Photo Gallery of Destroyed Japanese Aircraft in World War II のタイトルで発売されました。
 低価格故か、紙質が悪く写真がやや鮮明さを欠くのが残念ではありますが、資料として価値の高いものだと思います。

 ただ、あたかも実物を眼前にしているかのような鮮やかな観察が、実は写真を繰り返し眺めているうちに彼の頭に浮かんだ
空想に過ぎないことは、落下タンクの色を、事実と異なる「黄色」と断じていることでも窺えます。
 相変わらず、彼の主張である「クローバー」の想像図も掲載されていますが、既に筆者も故人となり、新たな写真の発見もない以上、これはあくまで彼の「主張」の域を出ずに終わるでしょう。

 本書の写真の中で調布で撮影されたものは、3式戦4枚、4式戦3枚、5式戦2枚、1式双発高練2枚、100式輸送機1枚、キ−87 8枚、キ−115 2枚です。

 このうち98頁の飛行場北地区、独整のエプロンで52戦隊の4式戦が5機写っている写真では、胴体砲のガス抜き口部分を覆う整流カバーの形状がよく写っていて、皇軍機のハードウェアに疎い私の眼には新鮮に映りました(マニアの皆さんには常識かも知れませんが)。たぶん、この部分が明瞭に写っている写真は、他にないと思います。
 これらの4式戦は、まだ戦隊マークも描かれていないので配備されたばかりの新造機だと思われ、フラップ上面後縁の黄色注意線(歩行禁止ライン)まで、はっきり確認できるのも珍しいと思いました。

 また、この度の244戦隊写真集でも現役時代の英姿が見られる、そよかぜ隊石岡伍長の元乗機43号の写真もあります。私自身は「強者どもが夢のあと…」、寂寥感漂う敗戦後の情景は嫌いではないのですが、やはり前者の逞しい姿の魅力には、およぶべくもありません。人間も飛行機も、生きているうちが華ですね。

本書はこちらからも注文できます→ Meatballs and Dead Birds: A Photographic...


平成16年度244戦隊会 04.10.17

 今年も244戦隊会が開催されました。私が参加させていただくようになって10年以上経ちましたが、今回は家庭の事情で叶わず、初の欠席となりました。また戦隊員諸氏の出席率も悪く、計15名(うち同伴者2名)の参加に留まりました。

 今度の本のことも皆さんに自ら報告すべきでしたが、参加される方にコピーを託してお願いしました。皆さん、喜んでおられたそうです。

 今回は、本書についてもご助言をいただいている、そよかぜ隊の生野
(しょうの)隊長が久々に参加されるとのことで、当方も楽しみにしていたのですが、誠に残念でなりません。

 生野氏は、在知覧時代に5式戦の試験飛行中、試射した胴体砲の弾丸がプロペラに当たって操縦不能となり海上に不時着、数時間漂流した経験を持っておられます。
 救命具を装着していたために沈みはしませんでしたが、偶然通りかかった漁船に助けられた際には、既に意識を失っており、生還は奇跡的だったそうです。

 また、八日市時代の20年7月16日には、敵P51と交戦、僚機戸井
(どい)巌曹長とともに2機を屠ったものの、三重県一志郡で被弾撃墜され、病床で終戦を迎えられています。

 戦後は航空自衛隊に奉職し、F-4ファントム戦闘機のパイロットとしても活躍されました。まさに熱い心を持った空の男です。
 心から尊敬すべき空の大先輩たちとの再会を祈りつつ、次回に望みを繋ぎたいと思います。


少飛会の解散 04.10.3

 
陸軍少年飛行兵出身者の全国組織である「少飛会」が、本年をもって解散となりましたが、このほど発行された会報「翔飛」の最終号を、少飛第11期会会長 関 利雄様からご恵送いただきました。
 皇軍関係団体が次々と姿を消していくのは、やはり寂しいことです。244戦隊とともに帝都防空の双へきであった飛47戦隊も、昨年で戦隊会は解散したと聞きます。

 また、「翔飛」最終号を拝見して、物故者名簿の中に、平成7年の拙著執筆時にご助力をいただき、上梓の際には大変喜んで下さった13期 小嶋五郎氏(飛55戦隊→第20振武隊→第164振武隊)、甲種15期 上原良雄氏のお名前を見つけ、寂しさは倍加しました。ただ、ご冥福をお祈りするのみです。

 時の流れには抗えませんが、陸軍航空の正しい歴史と空の勇士たちの物語は、永久に伝承されなければなりません。そのために、私も微力ながら努力を傾けたいと思っています。

 また、最近は出版商売の悪影響か、出版物もネットも、海軍・零戦系は掃いて捨てるほど出てくるにもかかわらず、大東亜戦争の主体であるはずの陸軍系はごくごく僅かでしかありません。実におかしなことです。
根拠のない海軍賛美、陸軍蔑視の傾向も目立ちますが、これも是正していかねばなりません。

翔飛最終号



NHKはどこの国の放送局なのか? 04.8.15

 下記に紹介した番組を見ました。期待はしていませんでしたが、まさに「看板に偽りあり」。実に後味の悪い番組でした。
 考えてみれば、そもそもこの録音が中国にあったというところが、ポイントかもしれません。初めから結論は出ていたんでしょう。
 実は、以前当方にも協力依頼がありましたが、協力などせずによかったと、心から思っています。

 事前の宣伝もナレーションも、録音盤「2200枚」を繰り返し強調していましたが、肝心の音声は1パーセントも出していない。残り99パーセントに何が記録されていたのか、公にすべきです。

 19年11月17日、護国隊(八紘第4隊)が調布飛行場を出発する際の日本ニュースの映像にも、何故か地名も、これが護国隊の映像であることも表示しません。誠特攻隊員の録音の中の「天皇陛下万歳、大日本帝国万歳」には、そこだけ字幕を出さなかった。なんて姑息なことをするのか。

 
NHKは、いったい何処の国の放送局なのか? 日本国民の浄財で運営していることを完全に忘れ去っているのではありませんか。国民をバカにして無反省な小泉内閣と同罪です。もう、いりません。

 また「朝鮮人がパイロットになるには、日本軍に入らなければならなかった」など、なに言っているんでしょう。当時、民間航空など有名無実。軍隊に入らないとパイロットになれなかったのは、朝鮮人だからではなく、皆同じです。
 少年飛行兵で戦闘操縦者になれるのは、陸軍の中ではエリート中のエリート。むしろ、差別なく優秀な人材を登用していた証拠です。

 この番組の中では、遠藤栄
(しげる)中尉のご遺族が、彼を今も誇りに思っておられると知ったことが、私にとって唯一の救いでした。


八紘第4隊(護国隊)員の肉声 04.8.10

 8月14日(土)午後9時から、NHK総合テレビで「遺された声 〜録音盤が語る太平洋戦争〜」という番組が放送されます。

 この中には昭和19年11月17日朝、八紘第4隊(比島で護国隊と命名)が調布飛行場を出発するニュース映像と、同隊の特攻戦死者が調布で録音し、その後ラジオで放送された肉声が含まれています(ただし、全員分が放送されるのか否かは不明)。
 最近掲載した吉田竹雄曹長の「はがくれ日記」12月18日付にも、この録音が19年12月17日放送されたときのことが記載されていますし、また当HP掲載の「特操4期生と八紘第4隊でも触れています

 昭和19年12月17日付の新聞には、この放送の予告記事と各人の談話の内容が出ていますが、それによると、放送は同日20時からで、録音版32面に声が吹き込まれているのは、隊長 遠藤栄中尉(航士56期、18戦隊)、宮田淳作少尉(航士57期)、西村正英少尉(航士57期)、瀬川正俊少尉(特操1期)、三上正久少尉(特操1期)、牧野顯吉少尉(幹候9期)、黒石川茂伍長(少飛12期、244戦隊)の7名です。

八紘第4隊は本来12名(うち2名が244戦隊)ですが、放送されたのは、その時点で「特攻戦死」と認定されていた7名のみで、他の5名の分は、録音はされていたものの放送されず、原版も敗戦時におそらく処分されてしまったのでしょう。

 それにしても、NHKをはじめとする我が国のマスコミや行政機関が、大東亜戦争を「太平洋戦争」と言い換えるようなごまかしを未だに続けているのは、誠に情けないことですし、それに疑問を持たないようでは、真の歴史は残せないでしょう。

 また最近は、特攻隊についても、「彼らは国や天皇のためではなく、自分の家族や恋人を守るために死んだ…」などという風説が流されていますが、これは全く誤りです。
 彼らは、国のため、天皇陛下のためだからこそ命を捧げたのです。それ以外ないのです。それが良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとか、そんな話ではありません。歴史の事実です。


ョ田克己(よりた かつみ)少尉 04.5.18(同日加筆訂正)

 昭和20年6月6日、第159振武隊員として知覧基地を出撃、特攻戦死された故ョ田克己少尉(戦死後大尉)のご遺族から、少尉のたった一人の妹、ョ田冨美恵様が終生大切に守り続けてこられた遺筆資料をご提供賜りました。本当に嬉しく、有り難いことです。心から感謝申し上げます。
 なお、ョ田冨美恵様は、本年1月18日、惜しくも逝去なされました。ご冥福をお祈りいたします。

 ご提供いただいた資料のうち、特に、昭和19年8月から12月中旬に至るまでの「操縦日誌」は、比島での97戦基本教育から244戦隊での3式戦戦技教育に至る戦闘操縦者教育の実際を詳細に書き綴った、価値ある記録です。
 ざっと目を通しただけでも、一人前の戦闘操縦者が育つまでの教育訓練、また本人の努力が如何に大変なものか分かります。

 先の吉田氏の例以上に、読解・整理・入力等には時間を要すると思いますが、いずれ必ず、HP上で公開させていただきたいと思っています。

 「克己さん」
 彼は、ご遺族から今もなお慕われて続けています。

 もう間もなく、ご命日がやってきますね。

左前からョ田、新垣、斎藤、佐々木各少尉

昭和19年12月、戦隊長機3295号の前で。前左からョ田、新垣(あらがき)、斎藤、佐々木各少尉。新垣安雄少尉は、
20年2月16日、対艦載機戦闘に於いて戦死。佐々木鐵雄少尉はョ田少尉と共に6月6日知覧出撃、特攻戦死。



特攻日誌 04.4.7

 最近、実に数年振りに本を買いました。それが本書。『特攻日誌』土田昭二著、林えいだい編 東方出版 \5000

 終戦時、八日市飛行場にいた特攻隊員の日記が出版された…と、ある方から情報を受け、思い切って購入しました。
 著者は少年飛行兵甲種15期の操縦者で、第303振武隊(双発高練)に所属して大刀洗で終戦を迎えた人です。
 「八日市」ということで期待があったのですが、244戦隊の在八日市期間と、著者が八日市に滞在した時期は5日間しか重なっておらず、僅かに次の事柄が確認できただけでした。

  7月13日=偶然、同期の渡辺伍長
注1に会う。胴体に13個の撃墜マークを描いた5式戦注2も見た。
  7月16日=15、16両日にかけて、5式戦多数が集結した
注3

 注1=渡辺伍長は、そよかぜ隊の所属。したがって13日に着いたのは、そよかぜ隊。
 注2=同日、在八日市は「そよかぜ」一隊のみなので、13個(たぶん撃墜破計)のマークは小原大尉機ではないか。
 注3=みかづき隊は15日夜、小牧に宿泊した記録があるので、みかづきは16日八日市着。15日着はとっぷう隊。



 本書には口絵写真が16頁あります。人物の記念写真がほとんどですが、その中に1枚、八日市飛行場格納庫地区の空撮がありました。航空史的観点からのみいえば、おそらくこれが最も価値あるものでしょう。

 著者である土田氏は、まえがきの中で
私は軍国主義者ではないが、熱烈なる愛国主義者である。国を愛せずして何ぞ妻子を愛することが出来ようや。道徳教育の根幹である教育勅語は、今も私の心に脈々と流れている。現在の私の精神的支えは教育勅語で、それを育んだのは東京陸軍少年飛行兵学校の生徒隊時代にさかのぼることが出来る
と書き、自らが受けた教育に、そして少年飛行兵であったことに、今も誇りを持っておられることが分かります。

 しかし残念なのは、編者が、末尾の「解説」に結論として
個人の幸せを踏みにじって、命までも捧げることを国民に強要した天皇制国家というものの実態を、土田日誌は図らずも余す所なく白日のもとにさらけ出している。それがこの土田日誌の価値であろう
と、断じていることです。「反面教師」としての価値だけだ、と言いたいのでしょうが、このものの考えは、実にさもしく感ぜられます。
 どうして一言「よくやりましたね」と、素直に誉めてあげられないのか。これは多くの、もの言わぬ英霊たちが、一番待ち望んでいる言葉でもあります。

 因みに、4月4日付「東京新聞 武蔵野版」に、元航空審査部の今村 了氏(85)のインタビュー記事が掲載されています。この中で氏は、
少年犯罪などが増加する現代社会を見て、最近、やっと敗戦の意味を知った
戦争以前を全て「悪」として否定する風潮が、日本に根付いていた礼儀や規範意識、国を愛する気持ちを若者から失わせたと思う
と語っておられますが、全く同感です。

 日本を二度とアメリカに刃向かわせまいとする「日本無力化政策」が、半世紀を経て、真の意味で見事に結実、成就したということです。


続 離陸時の黒煙について 04.3.29

 下段の黒煙の件ですが、これは、所謂「ブローバイガス(未燃焼ガス)」に関わるようです。ブローバイガスの再燃焼は、今日では自動車排ガス浄化対策として知られていますが、ハ40の場合は勿論、目的は違うのでしょう。

 私が航空整備を勉強していた頃の知識では、これは全く無縁でしたので(最近は知りませんが)、今までピンと来なかったのです。
 手元にあるモデルアート94年5月号臨時増刊『飛燕/5式戦』の滑油系統図をよく見ましたら(あまりに字が小さく、老眼も重なって見逃していた)、油分離器に到る配管に「
発動機曲軸室空気抜キヨリ」と但し書きがありました。

 「廃油を燃やす」という言葉に惑わされてしまったのですが、クランクケース内のブローバイガスを通常のように大気中に出さず、分離器にかけて含まれている油を液化し、残ったガスを排気熱で燃やしている(捨てている)のだと推測します。ですから「
廃ガスを燃やす」という方が正確でしょう。

 ブローバイガスから分離・液化された油は滑油系に戻され、再利用されていたのでしょうが、それほど、ハ40/DB601のオイル消費が激しかったということかもしれません。
 しかし、上記の推論が当たっているとして、果たしてどれほどの量が回収できたのでしょう。

 なお、本件に関しては、島本知明、小山澄人両氏から情報・資料を頂戴いたしました。お礼を申し上げます。


離陸時の黒煙について 04.3.27

 3式戦は、薄く黒煙を曳きながら離陸していく姿が関係者に印象深く記憶されています。また当時の映画フィルムのなかにも、それが認められるものがあったと思います。この理由を元整備隊員の何人かにお尋ねしたことがありますが、なにも判明しませんでした。

 市販出版物の記述を総合すると、これは、ハ40/DB601エンジンの潤滑油系統の途中に、濾過器とは別に「
油分離器」が設けられており、そこから右排気管まで管が導かれて油の一部が排気熱で燃える仕組みになっているから、のようです。

 事実そうなのでしょうが、油分離器とは、如何なる原理で油の何を分離しているのか? また「
廃油を燃やす…」との記述も見ましたが、廃油=劣化した油という意味なら、潤滑油は運転中(飛行中)、徐々に劣化が進んでいくわけですから、ある時間を経過した潤滑油は、全量が廃油だということになります。
 例え劣化した油でも、不足するよりは充足していた方が遙かによいはずですが、それを敢えて積極的に捨ててしまうことにどんな意味があるのか、理解できません。

 私は、実物の航空エンジンはコンチネンタル145馬力しか知りませんが、私の僅かな知識・経験の中では、上記の疑問が晴れないのです。
 本稿を読まれた中で、本件についてご承知の方がおられましたら、是非ご教示いただきたいものです。結果は、いずれ当HPに反映させていただきます。なお、引用等がある場合には、出典も記して下さい。


四宮中尉 04.3.15

 ドイツの日本機ファン、 Wolfgang Goebel (http://www.traktor-ferdinand.de/)氏が描かれたイラストを紹介します。
 彼は特に四宮徹中尉のファンで、中尉に関する資料を集めているそうです。理由は知りませんが、四宮中尉は特にドイツで知名度が高いと聞いたことがあります。
 数十年の後、遙か離れた異国の人たちにまで思われるなど、生前の彼は想像もしなかったに違いありません。きっと沖縄の海の底で、大きな体を縮めながら、面はゆい思いをしていることでしょう。

 しかし、国に殉じた私たちの先輩が、こうして外国の人たちの心にも宿っているのを知るとき、嬉しく思うと同時に、翻って現代の日本の状況は情けなく思います。
 護国の神となった若者たちを心に宿す日本人を一人でも多く増やすこと、微力ながら、それは当HPの使命でもあります。死者は生者の心の中でのみ、生き続けることができるのですから。

 私は夜、月を見るたび、彼のこの辞世を口ずさみます。天長節の夜、月明かりに照らされながら、ひっそりと知覧基地を飛び立った彼の胸に去来したものは、何だったでしょうか。間もなく、59回目の命日がやってきます。

 天長の 月あび勇む 必勝行







モデルアート3月号 04.1.24

 このたび発売の雑誌『モデルアート 3月号』に244戦隊が特集されています。ファンの立場としても嬉しいことです。
 24号機の初期の迷彩を再現した作品なども初めて見ましたが、これがプロの技というものなのでしょう。当方、模型には疎いので、とにかく驚きました。

 皆さまにも、ご一見をお勧めします。
モデルアート3月号



吉田竹雄曹長 04.1.18

 昭和19年12月27日、体当り攻撃によりB29を撃墜、戦死された故吉田竹雄曹長(戦死後少尉)の甥にあたられる吉田暎治様より、このほど貴重な遺稿資料をご恵贈賜りました。
 解読、精査には時間を要すると思いますが、今後のホームページに反映させていただきます。なお今回の件では、関 利雄様にもご助力を頂戴いたしました。お二方に厚くお礼申し上げます。
旧とっぷう隊時代の吉田軍曹

旧とっぷう隊時代の吉田軍曹。19年春頃と思われる。


東久邇宮稔彦王大将から授与された感状

防衛総司令官 東久邇宮稔彦王大将から授与された感状。



謹賀新年 04.1.1



讀賣ニュース昭和20年1月3日号
 『醜翼B29の本土来襲いかに相次ぐとも、我に鉄桶(てっとう)の制空陣あり。皇土直衛の重任を帯ぶ○○戦闘隊は基地に怨敵邀撃の陣を張り、敵機いつでも来れと腕を撫して待つ。』

この写真は、おそらく昭和20年元旦に浜松飛行場で撮影されたもの


戦隊マーク? 03.12.20

 この97戦は、おそらく昭和17年夏ごろ調布飛行場で撮影されたものですが、防空識別の白帯があり、244戦隊機に間違いないと思われます。
 注目は珍しい尾翼マークですが、「2」をイメージしたデザインと推察されるので、あるいは244戦隊の初期の戦隊マークだったかもしれません。
 しかし、昭和17年秋以降は「○」と漢数字「二」「四」を組み合わせた簡単なデザインになっています。これは、17年秋に第3中隊が追加され、保有機が増加したために、このような凝ったマークでは描くのに手間がかかると敬遠された結果、短期間または一部に描かれただけでだけで終わってしまったとも考えられます。
 一見、飛行第4戦隊のマークにも似ているのですが、明らかに違います。このマークについて何かご存知の方は、情報をお寄せ下さい。
最初の244戦隊マークか?




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