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Blue Oscer について 03.11.2/11.12

下記10月18日付で紹介した雑誌 「AEROPLANE」の村岡英夫氏インタビュー記事に関して補足いたします。
記事中の1式戦カラー側面図(暗緑色)の説明として
"According to Muraoka, the unit's
Ki-43s were never painted blue overall, as some sources have claimed. "
という文章が出ています。これは村岡氏が
"Blue Oscer"の存否を問われて、自身の記憶として答えたものです。

しかし、つい最近開催された20戦隊会の席で隊員各位に確認したところ、数名の方から、「
上面を青く塗った1式戦は確かにあった」との回答が得られたため、前言を訂正したいとのご意向です。

飛行第20戦隊は、台湾沖航空戦終了後の19年10月21日、主力16機が比島へ進出し、第4飛行師団指揮下に入りました。この際下命されたのが輸送船団掩護(目視による対潜哨戒)という特殊任務でした。
これは、1500qにわたる海域を、日の出から日没まで常に監視するもので、戦隊の保有戦力から勘案して、2機の1式戦を交代で常時在空させる必要がありました。この、たった2機で長時間(4時間程度)の洋上飛行という危険を多少でも軽減するため、迷彩効果を高めようと、応急に上面を青く塗ったものと考えられます。

従来、この青塗装機は台湾で運用されたと書かれてきたようですが、比島へ進出した16機は12月15日までに全て消耗してしまい、戦隊は一部人員のみが12月22日、台湾に帰還しましたので、台湾に青塗装機が存在した可能性は極めて低いと推察されます。


数十年振りに戦隊歌の歌詞を訂正 03.10.20

トップページに掲載しています新旧244戦隊歌の歌詞のうち、下段の新戦隊歌の歌詞が戦後数十年もの間、間違って歌われていたことが分かりました。

便宜上「小林部隊の歌」としている新戦隊歌は、昭和20年1〜2月、浜松・調布を訪れた川崎日蓄(コロムビアレコード)慰問団の一員だった古関裕而氏が、川崎航空機の技術者として頻繁に戦隊を訪れていた南郷茂宏氏の詞に曲を付け、20年2月末頃、大格で開催された発表会(B29撃墜破100機記念式典?)において披露したものです。

全戦隊員を集めた発表会では、女性プロ歌手(渡辺はま子ではないが、氏名不詳)が、一節一節繰り返しながら丁寧に歌唱指導をし、戦隊員に覚えさせたのです。「飛燕戦闘機隊々歌」と題されたこの曲のレコードも製作されており、裏面には「つばくろ音頭」という曲が録音されていました。

そのときの歌詞は現トップページの通りですが、1番の「
輝く空の梓弓」が、何故か「栄えある空の近衛兵」と、今まで誤って歌われていたことに、一人の方が突然気付かれたのです。これを当方も若干の調査で確認しました。
教育班担当であった芥川比呂志少尉に引率された整備隊の新兵さんたちは、この歌を大声で歌いながら木銃を担いで、天文台、多磨霊園、人見ヶ原、多摩川原などを行軍させられていたのです。

おそらく、戦後十数年たって結成された現戦隊会で配られた歌詞カードが間違っており、誰も気付かぬまま毎年コピーされて年月を経てしまったのでしょう。気付かれたからよかったですが、本件は、誤った情報でも長年継続し続けると、いわば「事実化」してしまう一例のように思います。

私の聞き書き経験でも、地理的、物理的にその人が目撃し得ないにも拘わらず、「確かにこの目で見た」と主張される例がいくつもあります。これは、機密保持による情報不足のなかで伝聞や新聞記事から得た情報が、記憶の中で自身の体験と同一化(錯覚)してしまったものですが、人間の記憶は確かでもあり不確かでもあり、不思議なものです。


平成15年度244戦隊会開催 03.10.18

去る10月16日、平成15年度の244戦隊会が開催されました。出席は同伴者を含めて20名、昨年1年の物故者は、松本敏男氏(下記参照)と梅村七郎氏のお二人でした。

箱根の老舗旅館「環翠楼」のご主人としても知られた梅村(旧姓渡辺)氏は航士53期生。244戦隊第1中隊長(つばくろ隊)から63戦隊第3中隊長(1式戦)へ転出。その後、同戦隊はニューギニアへ派遣され、激戦の後ほぼ壊滅したものの、梅村氏は幸運にも内地へ帰還されました。

そして目達原の第11錬成飛行隊第2区隊長に就任、特操2期生たちに3式戦未修教育を実施中の20年7月28日早朝、敵艦載機の奇襲攻撃により被弾、片脚切断の重傷を負われたのです。
教え子の2期生の多くは特攻用員となり、梅村氏にとって思い出深い調布飛行場にも33名が転出、うち18名が沖縄の空に散りました。教え子たちから慕われていた隊長だけに、彼らのことを終生、想い続けておられたことでしょう。

次に、戦隊会長村岡英夫氏の長時間インタビューが、英国の雑誌「AEROPLANE」最新号に、6ページにわたって掲載されましたので、最初のページのみ紹介いたします。また、村岡氏が以前に上梓され、既に絶版となっていた『特攻 隼戦闘隊』も、このほど光人社から復刻されています。

AEROPLANE October 2003

AEROPLANE October 2003より



写真発見 03.10.13

インターネットを始めてみて、もしネットという手段が存在しなければ、生涯、決してめぐり会えなかったであろう写真たちを目にする機会にしばしば恵まれます。本当に嬉しいことです。

昨年も、終戦後の調布飛行場で撮影された写真2枚を確認することができ、勇士のアルバムから…特別編として発表することができました。
今回は
U.S. Army Air Corp 504th bomb group, Tinian に掲載されている1945年12月、東京で撮影された写真の中に、調布飛行場西地区で写されたものが3枚確認できましたので、転載させていただきます。

244戦隊本部所属と推定される52号機

菊池氏写真に写っている52号と同一機と推定される3式戦。下の52号は20年2月末当時、戦隊長僚機であったと
考えられるが、上写真の機体も尾翼を赤く塗っていることから、同じく戦隊本部所属の可能性が極めて高い。迷彩は、
特攻機転用の際に塗り直された(大半の機体が化粧直しされている)ものと思われる。


20年2月末、菊池氏が撮影した52号機

20年2月末、戦隊長機に続いてタクシーダウンする52号機。


100式輸送機

各総軍、航空軍で高官輸送に使われた100式輸送機。


双発高練が2機、100式輸送機が4機

双発高練が2機、100式輸送機が4機(一部97重爆かも)。手前の高練には
うっすらと第10飛行師団司令部のマークが見える。
遠方に見える鉄塔は、西武線と平行する国鉄送電幹線の鉄塔。



続 終戦時の旧満州で撮影された日本機の写真について 更に補足 03.4.8

下の104戦隊写真について吾孫子邦生氏からいただいた追加情報です。
元104戦隊操縦者に確認したところ、昭和20年8月19日、新京に進出したのは本部、飛行隊第1隊、第2隊であるが、本部(識別色=白)は高練1機のみで4式戦はいなかったので、写真で白っぽく見える識別色は第1隊の黄色に間違いない。また、
マークを描いた機体は、第1隊長草野大尉機と推定されるとのことです。


松本敏男氏逝去 03.2.27

244戦隊みかづき隊の操縦者だった松本敏男氏が、去る1月2日逝去されたと、奥様からお知らせいただきました。私は平成7年の慰霊祭で一度お会いしただけでしたが、この数年は病気がちで過ごされていたようです。

松本氏は、「学鷲
(がくわし)」と呼ばれた特別操縦見習士官1期生で、昭和19年8月、244戦隊に配属されました。小林時代には、みかづき隊 第3小隊長藤沢中尉の僚機として活躍。昭和20年2月16日の艦載機初来襲時には、千葉県上空でF6F群と交戦、作動油系統に被弾して下志津飛行場に胴体着陸し、負傷されています(藤沢中尉も利根川原に不時着)。

松本氏と同期の伊藤賀夫氏(第19振武隊)も長い闘病の末、昨年鬼籍に入られるなど、訃報続きですが、只々ご冥福をお祈りするのみです。


続 終戦時の旧満州で撮影された日本機の写真について 補足 03.2.27

下の写真について、104戦隊にお詳しい吾孫子邦生氏から情報をいただきました。それによりますと、終戦時新京に配置されていたのは、104戦隊飛行隊第1隊(中隊色=黄)、第2隊(同=赤)の二つしかないので、翼端の標識は白ではなく、であろうとのことです。
なお、104戦隊飛行隊は20年7月に改編されているため、中隊色もそれ以前とは異なるそうです。


続 終戦時の旧満州で撮影された日本機の写真 03.1.28/03.2.27

これらの写真は、昨年紹介したBf108タイフーンと同様、終戦直後の新京飛行場において撮影されたものです。ロシアの雑誌 (Frontline Illustration, No. 6/2001)に掲載され、一部の出版物には転載されたことがありますが、一般にはあまり知られていない貴重な映像ですので紹介いたします ( via Mr. Martin Ferkl Mr. Joern Leckscheid )

終戦後の新京飛行場

写真1 飛行第104戦隊の4式戦。1機目は旧型の乙で、空中線支柱は白く塗られている


終戦後の新京飛行場

写真2 上と同じ並びだが、2機目の日の丸後方にマークが見える。


終戦後の新京飛行場

写真3 写真1,2の反対方向から撮影したもの。各4式戦の主翼端が中隊色(上記参照)で塗られているのが分かる。



重なる訃報に思う 03.1.8

日置氏の訃報を報じたばかりですが、今度は第162振武隊 飯田幸八郎氏が昨年11月13日、逝去されていたとの知らせをご子息よりいただきました。心からご冥福をお祈りいたします。
飯田氏は、いわゆる学徒出陣組の特操2期生。同期の方3人で拙宅へお出で下さり、調布飛行場へご案内したことがあります。まだ仮泊所給水塔が健在で、その前で写真を撮りましたが、これは私にとっても忘れがたい思い出となりました。

僅か十数年の調査活動ですが、その間だけでも多くの出会いと永遠の別れがありました。この作業自体が既に一つの歴史となってしまったわけですが、時の流れのあまりの速さに、我ながら愕然としている昨今です。
しかし翻って考えれば、現代、普遍的常識の如く扱われている価値観や歴史観も、近い将来、必ず変化するということであろうと思いますし、またそれを期待したいものです。


日置信一氏 逝去 03.1.6

終戦時の調布飛行場最先任将校(少佐)で、第164振武隊長を務められた日置(旧姓芝山)信一氏が、昨年12月29日、逝去されました。享年82歳でした。

天号(沖縄)および決号(本土)作戦での特攻隊長は、陸士/航士57期が大半でした。当時、大尉であった53期生を航空に転科、戦闘操縦要員とし、しかも特攻隊長に任命することは異例で、将校操縦者の甚だしい不足を示すものですが、第159〜164振武隊は244戦隊の別働隊という性格があり、航空総軍直轄、第30戦闘飛行集団の虎の子としての期待も大きかったので、おそらくその表れでもあったのでしょう。244戦隊長が同期の小林氏なのですから、その異例さが分かります。

日置氏は、故三谷氏(53期で入校)とは同郷、中学でも同級でしたが、同じ調布飛行場に配置されていたことを戦後何十年振りに再会して、はじめて知ったそうです。同期で同部隊にいたのに、顔を合わせる機会が全くなかったという例は他にも聞きますが、当時の状況ではそれも珍しくなかったのです。

歴史の証人がまた一人この世を去ってしまわれました。謹んでご冥福をお祈りいたします。


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