勇士のアルバムから…特別編・駿翼たちの最期
02.7.21

この特集を作成するにあたり、Mr. Jim Kaltenhauser Mr. Dave Pluth そして内田克寛氏に多大なご助力をいただきました。心から感謝申し上げます。有り難うございました。 Thank you very much !


調布飛行場占領の経緯
昭和20年8月22日

全軍武装解除命令下達
8月24日 1800

全ての皇軍機の飛行が禁止される
8月23〜25日

操縦者を優先に復員帰郷開始
8月末

一部警備要員を残して全ての部隊が解散。米艦載機多数が低空威圧飛行。
この頃、米海軍偵察機が撮影した調布飛行場南地区 (下の写真1は、本空撮写真の左上部分にあたる)






第8軍


第1騎兵師団

9月1日
F4Uコルセアの一部が滑走路上でタッチアンドゴーを繰り返す
9月2日および3日
沖縄から先遣隊(おそらく海兵隊)を乗せた輸送機が、F4Uに護衛されて到着
9月4日午前
陸路到着した第8軍 第1騎兵師団 第12騎兵連隊の約1000名が進駐
9月8日
第1騎兵師団は当初任務を完了して都内へ移動。代わって歩兵師団部隊が進駐
9月28日
歩兵部隊に代わって偵察飛行中隊2個隊が空路進駐(駐留人員総数は500名)
21年初頭
飛行場西地区に調布水耕農場建設開始
21年1月末
偵察飛行中隊は入間川飛行場へ移動。以後、飛行場は遊休化し、水耕農場として使用される



以上のように、占領軍と一口に言っても短期間にメンバーは入れ替わっており、他部隊の行状は互いには知り得ない。当サイトでその可能性を以前から指摘している、占領軍兵士による飛行機への落書き等も、後続あるいは他部隊の者たちには知る由もなく、まして「クローバー機」撮影者のような他基地からの訪問者にとっては、尚更だったはずである。





写真1 昭和20年秋、調布飛行場南地区エプロンにて。99式襲撃機が少なくとも10機、3式戦が3機、4式戦、1式双発高練が
各1機、総数では約20機が写っている。
中央付近の襲撃機の尾翼には、飛行第6戦隊のマークが見える。後方松林の下を天文台道路(右へ行くと.甲州街道に出る)
が走っており、その向こう側が兵站宿舎(現調布中学校)。




写真2 これは、沖縄での皇軍機処分。真っ二つにされた4式戦、吊り上げられようとする100偵、右端に独飛23中隊マークの
描かれた95式1型中練の尾翼が見える。写真1〜3の撮影者の所属部隊は、調布の前には沖縄に駐屯していたのだろう。
100偵の尾翼に描かれたマークは、飛行第106戦隊のものと思われる。




写真3 調布飛行場南地区エプロンで撮影された52戦隊の4式戦。後方は6戦隊襲撃機。松林の下が天文台道路。




写真4 写真1、3と同じ場所で52戦隊の4式戦と襲撃機。右端に6戦隊マークの一部が見える。




写真5 調布西地区にあった100式輸送機。尾翼マークは、第1航空軍司令部飛行班では?
左後方にA-26事故機の残骸が見える。




写真6 調布西地区の100偵。後方にも3機。本機は児玉の16Fsのマークを付けているが、児玉
飛行場は陸軍抗戦派の拠点だったので、あるいはこの動きとの関連で飛来したのかも。
調布西地区の司偵特攻隊でも一時、混乱があり、8月20日には100偵1機が行方不明となった。




写真7 やはり調布西地区の100偵改練習機。手前はP-51等の米軍機用増槽。後方の3式戦は、
かつて板垣軍曹機だった14号かもしれない。地面の溝は、飛行場外周の排水路。




写真8 これも同じく、高練と後ろが95式1型(主翼が折れている)。1航軍、1総軍など、
何れかの司令部飛行班の機体だろう。左手後方の鉄塔は西武鉄道線路のもの。




写真9 調布飛行場西地区で撮影された97式重爆。重要会議に出席する軍高官を、
大陸か南方から乗せてきたのかもしれない。




写真10 上に同じ。終戦直後には、各地域の軍高官が東京に緊急招集されたため、
各司令部飛行班の輸送機が調布飛行場に続々飛来した。




写真11 調布飛行場西地区で写された第10飛行師団司令部飛行班の1式双発高練。




写真12 244戦隊が完整状態の5式戦を数機、調布に待機させていた、その1機。
本機は、キー87と共に米国へ持ち帰る候補として、破壊せず残していたものらしい。




写真13 多磨霊園近くの有蓋掩体における5式戦とキ−115。
これは、占領後しばらく経ってから、ここへ遺棄されたもの。
後方松林の手前を西武鉄道線路が走っている。




写真14 かつて生野大尉の2番機に使われていた43号機。本機は小林戦隊長機ではない
右後方の07号機にも電光マークが描かれている。これは調布飛行場北東地区。




写真15 天文台下の射朶に集められた3式戦とキ−115。水田に落とされて逆立ちしている機体も。
機番は66、58、15、41が確認できる。まだ意図的破壊は受けておらず、占領後比較的早い段階である。
手前のコンクリート路面は、野川に架かる橋。右後方、崖の中腹に開いた穴は、古代の横穴墓。




写真16 昭和21年末、名古屋方面のくず鉄業者のもとに
集められた皇軍機残骸の山。
写真17 左に同じ。屋根より高く積み上げられ、鍋、ヤカンに
生まれ変わる日を待っている。


アルバム目次へ