昭和20年8月22日 |
全軍武装解除命令下達 |
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8月24日 1800 |
全ての皇軍機の飛行が禁止される |
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8月23〜25日 |
操縦者を優先に復員帰郷開始 |
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8月末 |
一部警備要員を残して全ての部隊が解散。米艦載機多数が低空威圧飛行。 |
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9月1日 |
F4Uコルセアの一部が滑走路上でタッチアンドゴーを繰り返す |
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9月2日および3日 |
沖縄から先遣隊(おそらく海兵隊)を乗せた輸送機が、F4Uに護衛されて到着 |
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9月4日午前 |
陸路到着した第8軍 第1騎兵師団 第12騎兵連隊の約1000名が進駐 |
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9月8日 |
第1騎兵師団は当初任務を完了して都内へ移動。代わって歩兵師団部隊が進駐 |
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9月28日 |
歩兵部隊に代わって偵察飛行中隊2個隊が空路進駐(駐留人員総数は500名) |
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21年初頭 |
飛行場西地区に調布水耕農場建設開始 |
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21年1月末 |
偵察飛行中隊は入間川飛行場へ移動。以後、飛行場は遊休化し、水耕農場として使用される |
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写真1
昭和20年秋、調布飛行場南地区エプロンにて。99式襲撃機が少なくとも10機、3式戦が3機、4式戦、1式双発高練が 各1機、総数では約20機が写っている。 中央付近の襲撃機の尾翼には、飛行第6戦隊のマークが見える。後方松林の下を天文台道路(右へ行くと.甲州街道に出る) が走っており、その向こう側が兵站宿舎(現調布中学校)。 |
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写真2 これは、沖縄での皇軍機処分。真っ二つにされた4式戦、吊り上げられようとする100偵、右端に独飛23中隊マークの 描かれた95式1型中練の尾翼が見える。写真1〜3の撮影者の所属部隊は、調布の前には沖縄に駐屯していたのだろう。 100偵の尾翼に描かれたマークは、飛行第106戦隊のものと思われる。 |
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写真3 調布飛行場南地区エプロンで撮影された52戦隊の4式戦。後方は6戦隊襲撃機。松林の下が天文台道路。 |
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写真4 写真1、3と同じ場所で52戦隊の4式戦と襲撃機。右端に6戦隊マークの一部が見える。 |
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写真5 調布西地区にあった100式輸送機。尾翼マークは、第1航空軍司令部飛行班では? 左後方にA-26事故機の残骸が見える。 |
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写真6
調布西地区の100偵。後方にも3機。本機は児玉の16Fsのマークを付けているが、児玉 飛行場は陸軍抗戦派の拠点だったので、あるいはこの動きとの関連で飛来したのかも。 調布西地区の司偵特攻隊でも一時、混乱があり、8月20日には100偵1機が行方不明となった。 |
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写真7
やはり調布西地区の100偵改練習機。手前はP-51等の米軍機用増槽。後方の3式戦は、 かつて板垣軍曹機だった14号かもしれない。地面の溝は、飛行場外周の排水路。 |
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写真8
これも同じく、高練と後ろが95式1型(主翼が折れている)。1航軍、1総軍など、 何れかの司令部飛行班の機体だろう。左手後方の鉄塔は西武鉄道線路のもの。 |
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写真9
調布飛行場西地区で撮影された97式重爆。重要会議に出席する軍高官を、 大陸か南方から乗せてきたのかもしれない。 |
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写真10
上に同じ。終戦直後には、各地域の軍高官が東京に緊急招集されたため、 各司令部飛行班の輸送機が調布飛行場に続々飛来した。 |
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写真11 調布飛行場西地区で写された第10飛行師団司令部飛行班の1式双発高練。 |
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写真12 244戦隊が完整状態の5式戦を数機、調布に待機させていた、その1機。 本機は、キー87と共に米国へ持ち帰る候補として、破壊せず残していたものらしい。 |
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写真13 多磨霊園近くの有蓋掩体における5式戦とキ−115。 これは、占領後しばらく経ってから、ここへ遺棄されたもの。 後方松林の手前を西武鉄道線路が走っている。 |
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写真14 かつて生野大尉の2番機に使われていた43号機。本機は小林戦隊長機ではない。 右後方の07号機にも電光マークが描かれている。これは調布飛行場北東地区。 |
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写真15 天文台下の射朶に集められた3式戦とキ−115。水田に落とされて逆立ちしている機体も。 機番は66、58、15、41が確認できる。まだ意図的破壊は受けておらず、占領後比較的早い段階である。 手前のコンクリート路面は、野川に架かる橋。右後方、崖の中腹に開いた穴は、古代の横穴墓。 |
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写真16 昭和21年末、名古屋方面のくず鉄業者のもとに 集められた皇軍機残骸の山。 |
写真17 左に同じ。屋根より高く積み上げられ、鍋、ヤカンに 生まれ変わる日を待っている。 |