特操4期生と八紘第4隊 02.12.5

 昭和19年11月1日午前、まだ学生気分の抜けきらない見習士官たちの一団が244戦隊に配属された。熊谷飛行学校軽井沢分教所野辺山分遣隊で滑空機初級訓練を終えたばかりの特操4期生25名である。この中には、後年内閣総理大臣となった竹下登の顔もあった。

 彼等は、調布飛行場戦闘指揮所前のエプロンに整列して、戦隊長 藤田隆少佐に着隊を申告した。地下の指揮所から出てきた藤田戦隊長は、地面に石灰でB29の形を描かせ、これを使って指図をしていたが、小柄、小太りで顔色は青白く不健康な印象であり、これが、かつて飛行第11戦隊第3中隊長としてノモンハン戦で勇名を馳せた戦闘機乗りとは、到底思えなかった。

 25名は4個班に分けられ、1ヶ月の戦隊勤務期間中、各飛行隊と整備隊を1週間ずつ実地体験する予定であったが、折しも始まったB29による帝都空襲のために教育どころではなくなり、これは計画倒れに終わった。当時、244戦隊にはタ弾
(ただん)攻撃班が編成されており、整備隊の見学では、タ弾の説明を受けた。

 空襲のお陰というべきか、彼等はあまり干渉されない、軍隊としては比較的自由な日々を送ることができたのだが、ある日、飛行場の近くでワサビ漬が買えるという噂が広まり、天文台下の店へ三々五々出掛けていった。結局、全員がワサビ漬を買ってきてしまったために、居室には酒粕の臭いが充満。これが、丹下充之少尉
(20.1.9 体当り戦死)ら、特操1期の先輩たちに発覚して、全員気合いを入れられる羽目になってしまった。丹下少尉は、がっしりした体つきで、赤ら顔にニキビ痕が印象的だったという。

 彼らは毎日、修養録を書くよう命ぜられており、つばくろ隊では四宮徹中尉から講評を受けた。はがくれ隊長となっていた四宮中尉が、起床時
(午前6時)前からエプロンに立ち、新雪を頂いて朝日に輝く富士を遠望していた姿は、神々しくさえあった。

 この頃の四宮中尉の日記

11月26日(日)
敵三機、各単機ニテ帝都進入。隊長トシテノ統御法、味フベキモノアリ
夜、特別操縦見習士官(第四期)ノ日誌ヲ見ル。先輩トシテ今マデ殆ド指導ヲ與エザリシヲ恥ズ

11月28日(火)
出丸中尉、靖国隊長トシテ逝ク。夜、特別操縦見習士官ニ話ス

出丸中尉は四宮中尉と同じ熊本市出身の同期(出丸は陸士)で、244戦隊出身


八紘第4隊

 11月17日朝、特別攻撃隊八紘(はっこう)第4隊の1式戦が、歓呼の声に送られて快晴の調布飛行場を出発したが、これを見送って居室に戻った4期生たちを驚かせる出来事があった。出発したと思っていた八紘隊員のうち3名が、4期生たちの部屋で休んでいたのである。3名は、機体故障のために出発できなかったのだった。
 その中の1人、幹候9期の牧野顕吉少尉
(47戦隊出身)は特に落胆し、自責の念にかられている様子で、「あのとき突っ込んでいればよかった…」と呟いた。
 その後、3名はひっそりと調布を発って本隊を追い、牧野少尉は12月7日、オルモック湾上の敵艦船に突入し、戦死を遂げた。

 八紘第4隊
(比島で護国隊と命名)出発の模様は、12月15日封切りの日本ニュース第237号「特攻 護国隊」で公開されている。参謀総長代理 真田穰一郎少将が隊員たちに陛下のお言葉を伝え、それを受けて隊長 遠藤栄(のぼる)中尉が謝辞を述べる場面では音声も記録されているが、これは、対艦特攻で戦死した隊員の、現存する、おそらく唯一の肉声であろう。

 牧野少尉たちがこの世を去ってから10日後の12月17日夜、彼ら7隊員の最期の声が、ラジオで日本全国に放送された。これは出発前日、宿舎としていた日本郵船飛田給錬成場で開かれた壮行会の席で録音されたものである。
 牧野少尉は富山県の出身だが、北国に憧れて小樽商科専門学校に学んでいた。この放送で、牧野少尉は好きな江差追分を朗々と唄い、多くの国民に感銘を与えたという。

 約1ヶ月の戦隊勤務を終えた特操4期生は、その後、伊那、所沢を経て中国大陸へ転じ、実戦参加の機会を得ぬまま唐山で終戦を迎えた。ごく僅かな期間ではあったが、244戦隊での体験は、彼らにとって忘れがたい記憶となった。

 本稿は、主に茶園力氏の手記および回想、ならびに小川伊三郎氏の回想を参考に記述しました


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