第159および160振武隊
16.4.3

159振武隊長高島少尉機

第159振武隊長高島少尉とともに沖縄の海に消えた4424号。20年5月初旬
上写真の拡大画像



 第159および160振武隊は、昭和20年4月26日、小林戦隊長命で下達された「飛二四四作命第六三八号」により編成された特別攻撃隊である。両隊とも、隊長は小林大尉の明野時代の教え子である陸士57期生(航空転科) が任ぜられ、使用機は244戦隊の3式戦各6機だった。

 両隊は約1ヶ月の錬成訓練ののち、5月28日0800、調布を発って、明野、伊丹、芦屋を経由し、159振武隊は6月1日、160振武隊は6月4日知覧基地に着いた。

 当初、6月5日午後出撃の予定であったが、天候悪化のため延期となり、翌6月6日1330、両隊は母隊である244戦隊の直掩を受けて知覧を出撃し、16時頃、慶良間付近の敵艦船群に突入した。これは無線傍受によって確認されたと言われる。

 出撃前、佐々木鐵雄、ョ田克己両少尉は、同期の親友古波津里英少尉を飛燕の翼上に呼び寄せ、堅く手を握り微笑みながら「後をよろしく…」と言い残し た。親友たちの翼に最期まで護られながら飛ぶことができた彼らは、数ある特別攻撃隊の中でも、あるいは幸運な連中であったかもしれない。

 それに先立ち、佐々木少尉は244戦隊の準備線を不意に訪れ、居合わせた整備兵のポケットに「俺はもういらないから…」と、航空糧食(主に菓子類)を無理やり詰め込んで去っていった。長らく調布飛行場で世話になった整備兵たちへの感謝の印であったのだろうか。


第159振武隊
 高島俊三少尉
陸士57期 (広島陸軍幼年学校)
岡山県倉敷市出身


 ョ田克己少尉
特操1期 (拓殖大学)
大阪市出身


 松原 新 少尉
特操2期 (国士舘専門学校)
神奈川県三浦市出身


 伊川要三軍曹
予下士9期 (熊本航空機乗員養成所)
兵庫県安積町出身


 西野岩根伍長
少飛甲種15期
徳島県那賀川町出身

別掲 西野伍長遺書へ
 磯部十四男伍長
少飛甲種15期
静岡県浜松市出身

磯部伍長のみ6.11戦死

第160振武隊
 豊嶋光顯少尉
陸士57期 (姫路中学)


鳥取県赤崎町出身



 佐々木鐵雄少尉
特操1期 (中央大学)


長崎県勝本町出身



 新井利郎少尉
特操2期 (山梨高等工業学校)


群馬県出身



 松谷 巌 伍長
少飛甲種14期


東京都出身


20.5.25空襲により王子付近で不慮死
 荒木秀夫伍長
少飛甲種15期


茨城県岩瀬町出身


20.6.4知覧到着直前、万世飛行場沖に不時着。戦死
 中川忠男伍長
少飛甲種15期


東京都出身


20.6.11知覧発進するも宝島に不時着。帰還?


高島少尉と豊嶋少尉

 高島俊三少尉は、豊嶋光顕、渋田一信両少尉とともに、昭和20年3 月30日、特攻要員として飛行第244戦隊に着隊、そよかぜ隊に配属された。高島少尉は、調布で広幼時代からの親友であった横手興太郎、生田伸両少尉、広 幼の先輩である藤沢浩三中尉と再会し、旧交を温めた。6月6日出撃の際には、餞として藤沢中尉が直掩の指揮を執ったといわれる。

 高島少尉はヤンチャ坊主の風情があり、裕福な実家からの仕送りを受けて、十二社では、しばしば豪遊をしていた。
 高島少尉には可愛がっていた若い芸妓がいた。同期の天野完郎少尉は、彼から自分の死後、彼女の面倒を見て欲しいと頼まれたが、天野少尉自身は大映女優との交際が進行中だったために断り、特操のK少尉を紹介したという。

 高島少尉の両親は、少尉が芦屋から出した手紙を受け取り、慌てて倉敷から駆け付けたが、彼は既に知覧に向けて飛び立った後であり、最期の面会は叶わなかった。 
 6月6日、知覧発進の直前、高島少尉はたまたま言葉を交わした見送りの傷痍軍人馬場行雄に、自身の軍刀と図嚢を実家へ送るよう依頼した。図嚢には、下掲の写真と
前途のある若桜を死の道づれにするのは誠に忍びず、父上より呉々も懇ろににお詫びして下さるようお願い申し上げます。この写真を焼き増しして右の住所に送って下さい。 俊三
 と書かれた便箋が入っていた。

 豊嶋光顕少尉は、おとなしく生真面目な学究肌で、高島少尉とは対照的に夜遊びもほとんどしなかった。同期生たちにも強い印象は残していない。

 一緒に244戦隊に赴任した渋田一信少尉によれば、彼はいつも分厚い研究ノートを手放さなかった。ノートには、明野時代は対B29攻撃法について、調布では、九州から沖縄まで敵の待ち伏せを受けやすい島伝いを避けての洋上航法について、考察が書き連ねてあった。
 豊嶋少尉は、伊丹から芦屋へ向かう途中、姫路の実家上空を航過し、家族は総出でそれを見送ったとのことである。


159振武隊

芦屋飛行場における第159振武隊。後列左から松原 新少尉22歳、高島俊三少尉21歳、ョ田克己少尉24歳
前列左から磯部十四男伍長20歳、伊川要三軍曹22歳、西野岩根伍長19歳。



中川伍長について 14.11.20

 6月11日に知覧を発進した磯部十四男、中川忠男両伍長について、振武隊異動通報には事故、不時着、帰還などは一切記録されていない。したがって、現存する異動通報が作成された7月末までの時点では、中川伍長も特攻戦死と認識されていたのである。
 だが、中川伍長は宝島に不時着しており、突入してはいなかった。

 5月28日、知覧を出撃した第213振武隊長
小林信昭少尉(特操1期)は、宝島に不時着した。彼は6月11日に不時着した中川伍長とその後の行動を共にし、島に立ち寄った海軍兵らが応急に漁船を改造した帆船(彼らが乗ってきた2隻の大発は飛行艇に撃沈された)に乗り、7月14日夜(以下いずれも夜間)、子宝島へ、7月21日悪石島へ、8月5日諏訪之瀬島へ、8月6日、中之島へ、更に9日、口之島へ移動した。 
 宝島には海軍の電探が配置されていたので、小林少尉の生存情報は6航軍司令部に打電され、6月18日付
異動通報第2号に「宝島ニ生存」と記載されているが、中川伍長の記載はない。おそらく、その時点では未だ両者が合流できていなかったものと推察される。

 小林少尉らは8月17日口永良部へ移動する予定だったが、中川伍長が病気になったため延期となり、23日、中川伍長を残して出港した。
 

(中川は)島で天水を飲み赤痢になった。血便が出て5分おきに便所に通っ たが赤痢と判明すると島民は近づかなかった。薬品もない島である。食事はなし便所通いで衰弱し出した。細菌は熱に弱いことを思い出し腹のみ天日に当てるよ うにしてフンドシ一本で日の出から日没まで腹を焼いた。熱さと苦しさで何度も中止しようかと思ったが、ねがえりもせず終日続けた。腹の内臓が乾ききってカラ ンコロンと音がするように思えた。中川伍長は午後とうとう音を上げて中止してしまったので又元に戻ってしまった。何度も激励して続けさせようとしたのだ が…。島に残ったがどうなったことであろうか」(小林少尉手記=特操1期生史)

 小林少尉らは8月30日朝、串木野に上陸して本土への帰還を果たし、31日、6航軍司令部へ申告の後、9月1日除隊復員となった。

 実は、8月2日付で、6航軍司令官より航空総軍司令官宛に感状授与の上申がなされており、この中には中川伍長も含まれていたのである。
 しかし、7日に至り、中之島から中川伍長生存の報告が司令部に届き、下記のように感状授与の上申が取り消された。中之島には陸軍の気象隊約20名が配置されていたので、ここから電報が発せられたのであろう。

靖振第三四○号 昭和二十年八月十日(起案八月九日)
発信者 第六航空軍司令官 航空総軍司令官殿
感状授與上申者削除ニ関スル件
八月二日附靖振第ニ八一號ニ依リ感状授与上申者中左ノ者ヲ削除相成度
追テ本人ハ宝島ニ不時着八月七日中ノ島ニ収容セラレアルニ付為念申添フ
第百六十振武隊伍長中川忠男


新聞記事になった第159、160振武隊

昭和20年6月21日付読売新聞
神鷲と人形 B29遊撃から沖縄へ 体当りのお供幾度 敵畏怖の日本戦闘機に「緑さん」 【前線某基地にて宮本報道班員】

緑さん人形 のエピソードに続いて…

 B29遊撃に畏くも感状上聞に達する偉勲をたてたあの基地からも沖縄の敵艦船を砕く振武特別攻撃隊が何時も飛び立ち、B29の醜翼を屠った同じ翼で沖の海に揺めく黒船の胴腹を抉っている。片翼生還の四宮中尉も、その先頭を切った神鷲の一人だ。

 沖縄の戦局が重大化を伝へられる或日、見慣れた飛燕を駆って後方からこの基地に着いた隊−高島少尉、豊嶋少尉、ョ田少尉、佐々木少尉、西野伍長、中川伍長、磯部伍長の面々は、飛行場に降りると直ぐ前の邀撃基地で手を取って指導を受けた部隊長が来ているのを発見して「ワーッ」と歓声を挙げた。

 「此所にいらっしゃったのですか」「待っていたぞ」特攻機直衛グラマン邀撃の外にコ部隊長はこの基地で特攻隊指導の大任を仰せ付かったところであった。
 自らB29に体当りを敢行した部隊長の、あの激しい熱意が此所でまたもう一つ上の部隊長の心を打って、その大役に任ぜられたのである。「必ず死ぬと決った人達であるから、必ず勝つやうにしてやらなければならない」これが部隊長が特攻指導についた日隊長に云った言葉だった。

 高島少尉、豊島少尉らの特攻隊が着いた次の日、記者がもう一つ上の部隊長と話をしている所ヘ部隊長が高島少尉を連れて来て
「部隊長殿、お示しになった航路は高島少尉らの飛行機の脚からいふと出来ないことは勿論ありませんが、ちょっとギリギリだと思ふのです。技倆のふも考慮して、この辺からかういう角度で目的(沖縄南部)へ廻り込んだらと考へるのですが…」

 地図を開き、青鉛筆で引いた航法計画を指しながら部隊長が熱心にいふ。上の部隊長も定規を取り寄せて、先に下令した航路と部隊長の航路を比較し更に敵状や気象を判断した上で「よし変へて良からう」とキッパリ即断した。部隊長はホッとして高島隊長を振り返った。その瞬間、高島特攻隊長の眼の閃き…また翌日部隊長から回天、敬天の名を貰って出撃した二特攻隊はそのまま全機突入の戦果を挙げてB29体当り戦隊の伝統を辱めなかった。

 前の基地から「敵艦にぶっつかる時は一緒に…」と佐々木、ョ田両少尉が供ふて来たさっきのお人形さん(これには今は大尉に特進したかつての高山少尉や丹下少尉の魂もこもっている)は特攻機に積み込まれた。

 出撃の寸前、佐々木、ョ田両少尉の遺言で
「これは部隊長の許へ記念に残して行かう。部隊長殿の三角兵舎があまり殺風景だから」
 と、今雨に濡れそぼる三角兵舎の低い屋根の下で可愛がってくれた振武特攻隊の神鷲たちのなきあとを守ることになったのである。しかも青葉の攻勢にちなんで「緑さん」といふ名前をつけ、淋しいこのお人形さんを慰めている。

 この部隊長以下新鋭戦闘機隊も、その精神において危険において特攻隊の神鷲と殆ど変りはない。しか し、かつて自分の乗った飛行機で自分と同じ隊に育った戦友を特攻隊として送り、それを直掩して沖縄の空まで飛ぶ、この友達の苦衷は測り難い。あるひは「緑 さん」が一番よく知っているかもしれない。別れるときは身を切られるやうだといふ言葉も、未だその人たちの心をよく知っているとは思へない。

 最後に、この戦闘機隊こそ「日本に恐るべき戦闘機現はる」と敵に告白させている「日本の希望」であるが、その報道は他日を期そう。




新聞記事 兄在す久遠の大空へ


昭和20年6月29日付徳島新聞
兄在す久遠の大空へ 某基地 高木報道班員

西野伍長の
愛機『飛燕』の胴体には『西野伍長』と
大書きし真二つになって沈む空母の画がその上に
描いてあった
。黄色の鉢巻を風になびかせつゝ
飛んだ兄曹長に劣らぬ勇ましい武者振であった。
西野伍長はにっこり笑って、決然として沖縄の空に
飛びたっていったのである。 (一部抜粋)
終戦後の芦屋飛行場で撮影された3式戦について


知覧出撃の回想

 戦死した特攻隊員の体験や突入直前の心情を知ることは叶わないが、生還した隊員の回想によって、その一端を類推することはできる。そこで、以下の貴重な体験記を引用させていただくことにした。
 古寺 潔氏 「陸軍特別攻撃隊 第54振武隊の回顧」より。特操目達原会編『背振の雲』所載(原文は縦書き、漢数字はアラビア数字に直した)

5月23日夕刻、芦屋から知覧基地に到着

  三角兵舎は、次の特攻作戦に備え各基地より前進してきた隊員が、すでに心の整理を終えひたすら出撃命令を待つ、しばし憩いの場所である。私達の前進してき た23日の各棟は、特攻隊員で兵舎中央の通路すら通行することが困難な状態であった。出撃命令が何時あるか全く分からない。出撃命令が出ると数時間後には 出撃することになる。

 私達は翌24日の午後、西部第123部隊(第40教育飛行隊)を去って以来、6ヶ月振りに知覧の町に出て懐かしい思い出の地を歩き、町の中央を流れる小川にかかる橋の欄干に体を托し、当時を語り合っていたその時、基地への帰還命令があり、急ぎ基地に帰った。


出撃命令下達

 第54振武隊は明早朝、嘉手納沖の敵艦隊を攻撃すべし。成功を祈る。
 現在時刻は20時。重爆撃機に搭乗した我が陸軍空挺部隊(義烈空挺隊)は、まもなく沖縄に強行着陸し、敵の飛行機および飛行場施設を破壊するので、明朝特攻機を邀撃する敵戦闘機は少数機と思うが、敵戦闘機を避けるため、南西諸島沿いの斜路を避けて飛行せよ。

 我が戦闘機は、徳之島上空まで特攻機を護衛する。各攻撃隊は、ほぼ同時刻に沖縄に到達できるよう、各攻撃隊の速度に合わせて出撃時刻を決定する。
 各特攻機は、第1旋回を終えると直ちに進路を沖縄にとり、飛行せよ。海上に出てからの各機の間隔は、4キロメートル以上とする…

 25日を迎えた午前3時、起床の声と共に隊員達は新しい衣装を身につけ、日の丸の鉢巻を飛行帽の上から、しっかと締め、遺留品は落下傘袋に入れて送り先 の紙片を置き、不時着時の食料として配られた乾パンを持って、夜も明け切らぬ木立の中を飛行場入り口の指揮所へと歩いた。

 基地上空は、既に5式戦の護衛機が轟々たる爆音を轟かせて旋回し、特攻機の出撃を見守っている。地上には、昨夜来整備兵が徹夜で整備し、爆弾の装着を終えた特攻機が離陸方向に向かって所狭しと幾列にも並び、整備兵の試運転も始まり、隊員の搭乗を待っている。
 4時30分、第1攻撃隊が先ず離陸、続いて第2、第3攻撃隊と次々に離陸。第1旋回を終えた特攻機は南の空へ消えていった。

 この日最後の攻撃隊は、3式戦斗機の第54振武隊であったが、出撃時刻の6時30分までには未だ時間がある。全員集合し、まず皇居遙拝、続いて各自故郷に向って別れを告げた後、葛西隊長より
「第54振武隊編成以来全員よく団結し、今日の出撃を迎えることができた。小川少尉の不慮の事故により全員揃っての出撃のできないことの無念さはあるが、各自立派にその任務を全とうせよ」
という最後の言葉が終わると、突入後は全員揃って靖国の森に帰って来ようと互いに呼びかけ、翼下に大型爆弾を抱く愛機に向って歩こうとしたその時、見送り に来ていた一人のワンピース姿の中年のご婦人が近寄り、、腕に抱きかかえていた花束を私たちに渡されたが、このご婦人が平成4年4月22日、89歳で亡く なられた鳥浜トメさんであった。(中略)

 私たちは、いただいた花を分け合い、愛機の操縦席に飾り出撃の時刻を待った。出撃準備の完了した整備兵は、突入時の無線信号と搭載機関砲弾が100発であることを伝え、特攻機から降り地上の人となった。
 私のすぐ隣では、別の攻撃隊に所属する同期生の田宮少尉が白い布に書かれた戒名を背につけ、整備兵の円陣の中で炭坑節を踊っていたが、間もなく離陸し南の空に消えて行った。
 かくして所狭しと並んでいた特攻機は第54振武隊の11機を残し、すでにその姿はなく、いよいよ私達の出撃時刻の6時30分が迫った。


6時30分出撃

 第1攻撃隊の出撃から2時間を経過し、この間、間断なく出撃した特攻機は東支那海上空を一路沖縄目指し飛んで行ったのである。1番機の葛西隊長に続き、次々に離陸。大地を離れ、ついに孤独となった。もはや何の呼びかけも語らいもない、ただ一人の死出の旅であった。

 操縦席に飾った花は、ガスレバーを全開し上昇する機体の速度上昇に伴い、操縦席に入り込む風は強くなり、花弁は離脱して操縦席の中を乱舞して次々と機外に飛び去り、間もなく知覧基地周辺にひらひらと舞い降り、最後の別れを告げたことと思う。
 かくして2時間余り続いた25日の特攻機の出撃も、私達の第54振武隊の出撃をもって終ったのである。

 第1旋回を終えて進路を沖縄にとり、開聞岳に空から別れを告げ、海上での実弾射撃で思い出の多い枕崎上空を通過して海上に出たとき、梅雨期を迎えている南西諸島方向は雲が低くたれ、種子島や屋久島は雨雲に覆われ、その姿を見ることができなかった。

 海上に出てからの各機の間隔は4キロメートル以上と指示されており、次々に離陸した僚機は、そのまま沖縄目指して飛行しており、しかも雨雲で視界が遮ら れているため、僚機の機影は全く視界になく只一機の飛行であったが、突然、左はるか前方の雲の切れ間に、先に離陸した僚機らしい2機の戦闘機が突然視界に 現れたが、再び雨雲に遮られ消えて行った。

 時折、視界に入って来た南西諸島の無人の小島の出現も絶え、間もなく離陸してから40分を過ぎようとしている。海上ではところどころで雨が降っており、進路上でも時折雨水が風防ガラスを激しく流れる。
 その時、3式戦闘機の1機が突然に近寄り、操縦席の中から手を振っている。よく見ると高井少尉で、しばらく平行飛行をしたが、やがて遠くへ去って行き、再び孤独な飛行が続いた。

 もうしばらくで奄美大島付近であろう。人生の終焉まであと暫しとなった。1秒の過ぎ去るのさえも惜しい。幼い頃からの記憶が泉のように湧き出る。楽しかったこと、苦しかったこと、悲しかったことが走馬燈のように浮かび消え去っていく。
 父母に対する感謝、過去に犯したであろう数々の罪悪に対する懺悔、不幸な戦争に参加しなければならない世代に生まれた宿命に対する苦悩等、自分の人生を振り返っての最後の心の整理であったが、このような苦悩は、特攻隊員の全てに通ずる苦悩であったことと思う。


無念の帰還

 3式戦闘機の場合、1時間を過ぎると突入準備となる。多少余裕のある燃料補給はしているが、沖縄往復の燃料としては到底足りる量ではない。早く突入するか、引き返すかの決断が迫られる。

 この天候で果たして沖縄まで飛行できるのか、進路上は雨雲が一段と低く垂れ、激しく雨が降っている。到底不可能と判断した私は、次回の成功を期して引き返す決心をしたのである。その時、先発の僚機と思われる3式戦闘機2機が相次いで知覧方向へ引き返して行った。

 私が知覧基地に帰還した時は、既に8時30分を過ぎていた。この日帰還した特攻機は、第54振武隊の5機を含め、20数機であった。(後略)



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