■ 安部正也少尉の謎 11.5.19改訂
エピソード
安部正也少尉については、おおよそ次のようなエピソードが伝えられています。
第24振武隊の安部正也少尉は、昭和20年4月29日夜、月明の知覧飛行場を2式双襲(屠龍)で出撃したが、黒島に不時着した。
既に黒島には、4月8日(注)に不時着し、その際に火傷を負っていた第29振武隊柴田信也少尉が島民に介抱されており、安部少尉は彼と面会した。
安部少尉は本土への帰還と柴田少尉の治療に必要な医薬品の空輸を計画し、島民の若者を説得して手漕ぎの小舟で出航した。そして30時間後の夕刻、本土の海岸にたどり着き、更に翌日の夕刻、知覧の富屋食堂に現れた。
その後、再び知覧基地から出撃した安部少尉は、柴田少尉の記憶では5月4日、黒島上空で約束の医薬品を投下した後、沖縄方面で戦死を遂げた。柴田少尉はその医薬品のお陰で回復し、8月初め、陸軍の輸送潜水艇により帰還した。
注 編成表では8日だが、柴田少尉自身の手記では10日、29振武隊山田伍長手記では12日、「特攻の町知覧」では13日となっている。
安部少尉の行動は記録されていない
ところが、この安部少尉の行動は、編成表にも異動通報にも何故か一切記録されていません。
しかし、安部少尉の帰還は当時の知覧では有名な話で、244戦隊員も耳にしています。244戦隊からは阿部正軍曹が5月4日に出撃していますから、もしや我が戦隊の「あべ」では?と、気になったということです。
また、この話は当時の鹿児島日々新聞でも報道されていますから、安部少尉の帰還は動かぬ事実と判断されます。
では、安部少尉が知覧に帰還したのは、いつのことだったのでしょうか。柴田少尉は安部少尉の二度目の出撃を5月4日と記憶しており、これに基づいて今日の特攻戦没者名簿は、この日を命日としています。
しかし、これでは30日未明の不時着から再出撃まで、まる4日しか経過しておらず、時間的にあり得ません。
これは想像ですが、5月4日朝知覧を出撃した24振武隊後発の3機が黒島を通過したのを安部少尉が視認し、この話を聞いた柴田少尉が、もっと後の医薬品投下と混同したのではないでしょうか (臥せっていた柴田少尉自身は爆音を聞いたのみで飛行機は目視していない)。
当時、黒島からの定期船は運休しており、島から本土への連絡手段はないに等しかったそうです。そのために柴田少尉の生存も司令部には情報が入っておらず、編成表によると「5月19日、3攻集(第3攻撃集団=知覧)ヨリ電報」で、初めて把握されています。
5月19日まで黒島からの情報がなかったということは、安部少尉の帰還もそれ以前ではありません。つまり、安部少尉が5月19日に知覧に帰還し、この際、柴田少尉の生存情報をもたらした可能性が高いのです。
再出撃はしていない
帰還した安部少尉のその後の行動を想像してみると、富屋食堂に現れた彼が憔悴して別人のようだったという証言からも、入室(注)あるいは休養等を要したはずで、代機を受領に何れかの基地へ向かったとしても、それは回復後のことでしょう。そして再度知覧に前進して出撃となるのは、早くとも5月下旬以降のことだと思われます。
しかし、この点については情報がありません。新聞記事も知覧に帰還したまでのことしか書かれておらず、再出撃や医薬品投下には触れていません。
特攻機の出撃は6航軍にとって作戦上最重要の事項ですから、安部少尉に関して編成表、異動通報ともにその記載がないのは、再出撃の事実がなかったことを示していると考えられます。
注 基地の医務室で静養すること
特攻戦死者として扱われなかった篠原少尉
安部少尉と同期の同僚、篠原親治郎少尉と三浦秀逸少尉は、5月4日朝、片柳經曹長を長機とする3機編隊で知覧を出撃し、3機は敵艦隊に突入しました (この3機は4月29日夜にも出撃したが、その際には発動機不調のために帰投したといわれる)。
このうち三浦少尉は敵艦の高射砲弾によって撃墜されましたが、意識を失って漂流していた少尉は敵艦に救助され、捕虜となって敗戦後に帰還したのです。その直前まで3機が一緒だったことは、
「知覧を発進してから途中まで、篠原少尉と無線で雑談したり、朝鮮で覚えた民謡のアリランを歌いながら飛んだ (篠原少尉は京城生まれ、京城帝大卒)」「3機編隊の真ん中で高射砲弾が炸裂した…」
等の三浦少尉の戦後の証言から明かであり、篠原少尉が「特攻戦死」を遂げたことは確実です。
ところが、篠原少尉は編成表では特攻戦死とは扱われておらず、戦後に復員局が作成した特攻戦没者名簿にも加えられていません。何故でしょうか?
編成表を見ると、篠原少尉の摘要欄に「在黒島」の記載があります。前述の通り、彼は突入していますので、これは明らかに誤りです。実際に「在黒島」であったのは安部少尉ですから、これは安部少尉の情報が、何故か篠原少尉の欄に記入されてしまったものと考えられます。
しかし当時は、これが単なる誤記載なのか否かを確認する手段がありませんから、安部少尉が黒島から帰還した事実とも重なって、篠原少尉の「在黒島」情報は否定されずに生き続けたと思われます。それが証拠には、異動通報第2號 (6月18日作製)には6月13日現在の在黒島人員として「篠原少尉、柴田少尉」の名が記載されているのです。
黒島には6月10日、万世から出撃した第66振武隊の中村憲太郎少尉が不時着して、陸軍軍人は再び2名になっており (他に海軍が3名)、異動通報の記載は中村少尉と篠原少尉を取り違えたのかとも思われたのですが、実は6月12日には、同隊の福佐少尉の報告から、中村少尉は「川辺郡坊ノ津ノ海面二海没ト判定」との誤情報が伝えられ、18日、更に出撃未帰還と訂正されて、この時点では未だ中村少尉の生存情報は入っていません。
連絡手段がないはずの黒島から、いったい誰が篠原少尉の生存情報を伝えてきたのか?、あるいは先の誤記載からの推測に過ぎないのでしょうか。
医薬品投下をしたのは特攻機ではない 07.2.14
安部少尉の再出撃がなかったとすれば、黒島に医薬品を届けたのは誰であったのか?ということになりますが、これはおそらく、安部少尉から報告を受けた司令部が偵察機を飛ばしたか、海軍に依頼して水上機で運んだかの何れかであろうと思います。
そもそも、特攻機の飛行コースや高度は、天候、編組、偵察情報などから出撃毎に司令部が決定したはずで、必ずしも黒島を通るとは限りません。
また、投下のためには超低空に降下して速度を落とし、何度も旋回する必要が生じます。これは失速に繋がる、ただでさえ危険な行為ですから、増して重い爆弾を抱えた出撃途中の特攻機に、副次目的のためのこのような行動が許されたとは到底思えません。
特攻機が戦友のために薬を投下し、約束を果たして死地に赴いた…美談ではありますが、客観的にはまずあり得ないことです。
補足 国本康文著『陸軍潜航輸送艇隊出撃す』に引用されている柴田元少尉の手記には次の記述があります。
突然夕暮れ空の山をバックに司令部偵察機が1機低空で翼を振りながら二、三度、村の上を行きつ戻りつした後、大きな荷物を落とすと去って行ってしまった。敵の制空権下を夕闇をついて来たものだろう。
村人が拾って届けてくれ開けてみるとタバコ・薬から包帯までぎっしり詰っていた。ようやく我々がここに不時着していることが判ったらしい。同時にそれは、あの少尉(安部)と克己(安永克己)君が無事に着いた事を意味する。
この記述から、柴田氏は医薬品を投下したのは司令部偵察機と記憶しており、出撃途中の安部機が投下したとする説は、事情を知らない第三者の想像でしかなかったことになります。07.2.14記
なお、本件では矢原俊明さんにご協力いただきました。矢原さん有り難うございました。
安部少尉はどうなったのか?
安部少尉は、公的には4月29日特攻戦死とされ、戸籍上もそうなっていると思いますが、前述のように戦死はしていない可能性が極めて高いと考えられます。一方、生存情報もなく、いったいどうしてしまったのでしょうか。
前年の比島では、公式には特攻戦死とされた靖国隊長出丸一男中尉が、実は不時着生還しており、その後の消息が実際には不明のままという例もありますが、内地で、しかも将校の消息、生死が定かでないというのは尋常ではありません。
私の頭をよぎるのは、第59振武隊林一男少尉のことです。不時着した孤島から小舟を使い自力で帰還した特攻隊員は、実は安部少尉の他に何人もおり、その一人が林少尉です。
林少尉は5月28日出撃して口之永良部島に不時着した後、自力で帰還し、都城東飛行場で第21突撃隊(集成振武隊)に編入されていましたが、敗戦直後の8月18日、拳銃自決を遂げています。
因みに、林少尉の帰還も新聞に報じられており、その存在が世間に知られぬよう不時着帰還者たちが監禁されたのだ…という「振武寮伝説」の怪しさが分かります。
安部少尉の場合は分からないのですが、あるいは自決、不慮死等であっても、名誉のために「特攻戦死」を取り消さずに処理をしたという可能性はあり得ると思います。
私が知っている例でも、本当は事故(不慮死)であるのに、進級など死後の処遇を考慮した温情から、書類上は戦死あるいは殉職の扱いになっている戦没者もおります。
2式双襲
編成表および異動通報には、20年7月までに消息が判明した不時着者、事故者ほぼ全員についての記載がある中で、前述のように、安部少尉の件だけが見あたらないのは何故なのか…。
ここからは全くの推理でしかありませんが、私は、あるいは彼の乗っていた飛行機「2式双襲」に関係があるのかもしれないと考えました。つまり、双発機ということです。
洋上で発動機に不具合が生じた場合、単発では通常、不時着以外にありませんから、基地への帰投よりも直近の島へ降りるのが妥当な判断です。
勿論、安部機の不具合の程度やその発生地点、高度も不明な上での話ですが、一般論としては、双発の場合は片発になっても飛行は可能であり、爆弾を捨てて身軽になれば、黒島付近から基地まで戻ることは可能であったと思われます。
また、夜間であっても基地の方探が位置を測定し、無線で誘導してくれますから、帰投は可能です。しかも当夜は月明かりで視程は良好だったはずであり、事実、24振武の同僚3機は、知覧に戻ったようです。
にも拘わらず、安部少尉が基地への帰投ではなく黒島への不時着を選択した点に司令部が疑念を抱き、少尉を追及した可能性はあり得ると思います。
そのために、彼だけは他の特攻隊員たちからは隔離され、誰もその消息を知らないという結果に至ったのかもしれません。
特攻の神聖視
安部少尉の件は、謎と表現する以外にありません。しかし一般に、戦場での行方不明や生死の誤認等は珍しいこととは思えず、戦死公報が出て戸籍も抹消された後で生存が確認された例も、多く存在したことでしょう。ただ、それが今日、誰の注目も集めていないだけです。
ところが特攻作戦に限って、同様の事例がとんでもない悪事でもあるかのように強調されるのには、違和感を覚えます。当人や家族にとって大問題なのは当然ですが、雲の上から客観的に観察している者などいないのですから、これは仕方のないことではないですか。
振武寮の件でも、不時着帰還者に対する侮辱的言動や写経、軍人勅諭書き写し等が、6航軍上層部の非人間的冷酷さの現れであるとして非難されています。
しかし理由が何であれ、天皇陛下から賜った兵器(飛行機)を失った上、任務を達成し得ずに帰還した軍人、特に将校が結果責任を問われるのは自然であり、当人たちもそれは覚悟していたはずです。特攻作戦だからといって、何も例外ではありません。
例えば、地上戦で任務を遂行し得ず戦場から独断で離脱、後退してきた将兵がいた場合、後方の指揮官は彼らに対し、果たして何の責任も問わないのでしょうか。このようなときには、敵前逃亡や命令違反の疑いがかけられるのが普通ではないかと思うのですが。
その点、航空の特殊性もあるとは思いますが、特攻不時着帰還者たちが6航軍から特段の処罰を受けた形跡は認められず、むしろ穏便に処理されたと認識した方が妥当であろうと感じます。彼らにも20年6月10日の定時進級が適用され、陸士57期は中尉に、56期は大尉にと、他の同期と差別なく進級してもおります。
今日、特攻は、あまりに神聖視あるいは特別視され過ぎており、そのことが事実を見誤る誘因にもなっているように、私には思えてなりません。
出典 『常陸教導飛行師団特攻記録 天と海』『特攻の町知覧』『空のかなたに』『陸軍特別攻撃隊』