昭和19年末または20年1月初頭、浜松 三方原飛行場の準備線。これは出撃シーンではなく、定時の試運転と思われる。戦隊長機24号は、機付が転把を回している最中。 機番は、24、45、44、07、80、16と続くが、このうち、本部小隊の機体は24、45の2機だけで、44以降は「そよかぜ」の機体と思われる。16号については、16号は誰の乗機か を参照。 安藤機45号は、1月9日の戦闘で損傷し配置換えになっている(体当りは別機)ので、この写真が撮影されたのは、どんなに遅くとも1月9日昼以前である。また、本機の迷彩が左右で大きく異なっている点を、正にプラモ感覚で疑問視した本があるが、これは左右の塗装作業者が違っていただけのことであろう。 私がこの写真を初めて見たのは、1964年。叶わぬ夢とは知りながら、一度でよいから、大地を揺るがすこの轟音の中に身を置きたいと願ったのが、今日の原点でもある。 |
浜松飛行場における小林戦隊長機4424号と機付兵たち。 この中には、川崎航空機からの派遣工員も含まれている。 浜松に転進したばかり、昭和19年12月下旬の撮影。 |
←戦隊長機3295号とョ田克己少尉。 昭和19年12月中旬、戦隊が浜松へ移動 する頃の1枚。 ョ田氏と無二の親友だった佐々木少尉 両者は、後に沖縄特攻に散ったが、二人 一緒のときは、いつも冗談ばかり、まるで 漫才でもしているようだったと聞く。 | |
アルバム3 と同じ、47戦隊の2単 71号機。40ミリ砲が厳めしい。 |
場所は不明だが、零式輸送機11型。昭和18年頃。 |
昭和20年5月17日、知覧へ向けて発つ直前の小林戦隊長。 バックの5式戦は知覧到着間もなく、誘導路を滑走中に破損 して、リタイアしてしまった。 |
昭和20年5月17日午後、知覧へ向けて調布飛行場を飛び立つ244戦隊の5式戦。独飛17中隊 隊員が滑走路西側から写したもの。5式戦の胴体には、特攻機が敵艦に突入する光景の絵 が描かれ、操縦者の名前なども記されていた可能性が高い。 |
昭和20年2月下旬、菊池俊吉氏の撮影と思われる写真の一枚。当時、お礼の意味あいで 戦隊員に贈られたもの。この4名のうち、3名が戦没した。 |
昭和20年5月15日夜、赤坂山王ホテルで催された壮行の宴に出席した244戦隊の将校操縦者たち。 (軍服姿のみ)前列右から古賀中尉、市川中尉、生野大尉、竹田大尉、師団副官、小林大尉、藤沢中尉、 中右から平沼、生田、小川 各少尉、川田中尉、後右から芝山大尉、白井大尉、小原中尉、斎藤少尉。 この宴は、小沢専七郎(大日本防空食糧社長)主催によるものだという。因みに「防空食糧」とは、陶製の 専用容器を用いた真空パック保存食品のようである。 |
昭和20年7月、調布特攻諸隊の下士官隊員。前左から2人目 松田伍長(163振)、 後左から4人目 山口伍長(232振)両者は、この後間もなく殉職した。 |