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台湾のサトウキビ鉄道を訪ねて その14


(ちょうど柱で一文字目の「東」が隠れてしまった)

 名残を惜しみつつ、その建物から離れた。会社や社宅の方へ戻りながら、何度も駅舎の方を振り返っていて、よーく見るとホーム側の壁に何か文字が見える・・。大きく縦書きで「安全○○」という標語らしいのと、横書きで(右から)「太子宮車站」とある! 母にそれを教えると、本当にうれしそうだ。後で調べると、正確には「東太子宮車站」。地図を見ると、駅から少し離れたところに太子宮がある。
 駅舎だとわかり、大収穫。ゆっくりと母の育った街を歩き尽くした。駐車場に戻ると、楊さんは車の中で寝ていた。   

 ホテルへ戻る道は、母が記憶している通学路をたどってみることにした。今も当時と道筋が同じかわからないけれど、とりあえず行ってもらうことにする。社宅からまっすぐ進み、今見てきた「パルプ駅」を右に見ながら鉄道の踏切を渡り、200メートルほど先のT字路で右折。あとは道なりにまっすぐ、まっすぐ。やがて市街地に入り、母が「まる公園」と読んでいるロータリーに至り、そこを左折すると、朝に散策した神社跡の公園や小学校方面に至る・・はずである。ロータリーまでつながっていれば、母の記憶が正しく、かつ道筋が60年前と変わっていないということになる。大丈夫かな・・と心配しつつ、また楊さんの運転と周囲のバイクのコラボレーションにややドキドキしつつ走ってゆく。
  昔は道幅がもっと狭く、道沿いに商店はあるものの、その後ろは全てサトウキビ畑だったそうだ。おやつにサトウキビをかじったこともあったとか・・。現在は市街地の範囲が広がっていて、建物でどこも満たされている。
 やがて、きのうから見慣れた、ホテル近くの三角形ロータリーにたどり着いた。さらにまっすぐ行けば丸いロータリーなので、母の記憶はバッチリだった。母自身「記憶はあっていたんだ!」とうれしそうだった。
 今日はこれでおしまいとする。15時半頃であったか。楊さんをあちこち連れ歩いて煩わせてしまったが、本当に充実した一日だった。  (終わり・2006年11月訪問)
 

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