←歩く
表紙へ

台湾のサトウキビ鉄道を訪ねて その10

 五分車から見えた道に沿って車で西に走る。地図で見ると『南紙街』とあるあたりが、母の家(社宅)があった所だ。母の父親が勤めていた製紙会社があった場所は、そのまま現在も製紙会社が存続している(現在は台湾紙業股彬有限公司・新營廠)。
 会社の入り口に到着。そこの駐車場に車を停めてウロウロし始めると、会社の人が数人寄ってきた。楊さんが事情を説明すると、みんな好意的な様子で話し始めた。年配の人は、昔の様子を少しおぼえているらしかった。

 駐車場のすぐそばに、母が子ども時代に魚釣りをしたという池があった。日本で見つけた地図には、だ円形で表してあるが、新しい地図では長方形で真ん中に通路がついている「日」の字型である。現在は1.5メートルほどの盛り土をしてあり、水面もその高さになっている。しかし、母の頃は今の駐車場と同じに平らな地面に池があり、池の周りには柵をめぐらせてあったとのこと。立ち入り禁止なのに、魚を釣りたくてもぐり込んだそうだ。現在は柵はないけれど『ここは業務用の薬剤が入った水だから釣った魚は食べない方がいいよ』みたいなことが看板に書いてある(魚はいるということか)。

 楊さんには車で待っていてもらい、母と歩いてゆく。会社や池のある敷地とは小さな川を挟み、社宅の敷地がある。その位置関係も母の記憶通り。川は現在コンクリートで両岸を固められていて、水草がやたらと伸びていて澱んだ流れだ。でも母の少女時代には護岸などしておらず、自然に草が生えていて流れは速く、深さは泳げるだけあったとのこと。母の家があったところは現在も製紙会社の社宅らしいが、ごく最近建て直したらしく、三階建ての立派な建物が並んでいる。社宅の敷地への正面には立派な門があり、守衛所があるが誰もいなかった。
  母の頭の中では、すでに昔の様子=平屋建ての社宅が並んでいた記憶と、目の前の場所・道路の位置関係が重ね合わされているようだ。当時は手前の方は小さめの家、母が住んでいたのは中くらいの家で、庭がついていたとのこと。奥の方にはもっと大きな家があり、それは管理職の人たちの家だったそうだ。

 少し歩くと、やや古めの3階建てが並んでいた。その向こうに塀があり、ほんの数件、平屋の木造家屋が残っていた。日本家屋のようなたたずまいと見えるが、残念ながら母が住んでいた家とは作りが違うようだ。現在も住んでいる人がいた。母の記憶では、その場所には公園があったという。藤棚があって、それを支える煉瓦づくりの柱があったという。そう話す目の前、木造家屋の端の方に、煉瓦の柱が3本! 日曜大工で作ったような壊れかけた屋根を支えている。もしかしたら、藤棚の柱だったものかもしれない・・・。でも、人の家の敷地ゆえ、それ以上は近づけなかった。

歩くの表紙へ戻る

ののぱりこ表紙へ戻る