Yakkoのページ この地球の上で&四季の台所  2002年

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四季の台所  12月
Yakko

20cmも雪が積もると同じ寒さの中でも冬がきたと思えてくる。朝起きてカーテンをひいた時、一番に目にはいる白一面の風景は冬ならではの感動の一瞬だ。雪が積もったよ、の一声で起き出す子ども達もかわいらしい。

 今年は少しだけれど、干し柿も干したし、白菜漬けと固大根のたくあんも漬けた。引越し祝いだと友人からは新米を20kgもらってある。たとえ、雪でおやおやまで自転車で買い物に行けなくなっても、歩いて3分くらいの所にはスーパーもあるので、リスみたいに冬篭りの食料を貯めこむこともないのだけれど、あると嬉しい。今年の雪は多いかな、どうだろう。

 雪があっても冬の寒さはきらい、ではあるけれど、12月はクリスマスやお正月を控え、楽しもうと思えば楽しめる。うちでは子ども達とリース作りをしたようと材料一式広げたら、いつの間にか、ドリーム・キャッチャー作りになってしまった。ドリーム・キャチャーというのは、アメリカ先住民に伝わる、悪い夢は網にひっかけ、良い夢だけを通すというお守りのこと。子どもがしだれ柳の枝で作ったリースが幾つかあったので、前から作ろうとの約束を彼女たちは思い出したのだ。ラフィアを土台のリースに巻きつけていく。そこに麻紐を円の中心に向かって編みこんでいって網を作る。網にはビーズを編み込んだり、羽をたらしたり、宝物で飾ってあげる。下の子は拾ってきたキーホルダーの小さなウサギの毛皮をつけた。上の子は後日学校の小鳥小屋の周りから拾ってきた羽を飾った。ここでのポイントは買ったものではなく、拾ったもの、もらったもの。拾ったものは、精霊からの贈り物。実際、山を歩いていると、きれいなキジの羽なんかを拾うこともある。あれは贈り物だと思う。山や荒野に住んでいないので、今回は道端や鳥小屋で拾ったものでよしとしよう。上の子はすっかりはまって、マスコットサイズの小さなドリーム・キャッチャーを量産していた。来年公開の映画「ドリーム・キャッチャー」は網をすり抜けた悪夢のような話らしいけど、夢が壊れるような映画は見たくないな。あくまでも良い夢を見るためのお守り。

 台所には台所にふさわしいリースやオーナメントもちゃんと作った。赤とうがらしをリース土台に細い針金で留めたものや、レモンのスライスを糸で下げて窓辺につるしたもの。

赤とうがらしは強く力をいれると破けるのでご注意。レモンは冬の乾燥した空気の中2,3日で乾燥してドライ・レモンになる。ステンドグラス風のオーナメントやきらきらしたオーナメントと組み合わせるとなかなかステキ。

 ジョン・レノン風に、世界には悲しいことがたくさんあるけれど心豊かな楽しく暖かい冬を迎えよう。

(2002年12月)

四季の台所  2002年11月
Yakko

 以前に、私の夢として広くて明るい台所を持つこと、その台所の大きな透明ガラス窓からは木々たちの四季の移ろいがよく見える・・・なんて書いたことがある。今年の夏に終の住処として引っ越した家は、夢の実現とはいかなかった。台所スペースは6畳で食器棚、冷蔵庫、椅子、テーブルを置くともうきっちりといっぱい。窓は磨りガラスで透明にすると外から丸見え。でも、居間とつながっているので、子ども達と一緒にいられるからそれはそれで嬉しい。

 透明窓ガラスの外に広がる風景は、実のなる木々や家庭菜園の豆やら野菜、ハーブ、花々だったりするのが理想であったが、夢は夢。いま、ここ、をどう夢に近づけるかだ。

 引っ越す前の、居間に面した南側の小さな庭は、松、つつじ、岩、池の純日本風のレイアウトと空き地は草ぼうぼう状態。まずは池と岩とつつじの撤去を知り合いの庭師安藤さんにお願いした。この安藤さん、「女鳥羽川の自然を考える会」のメンバーでトラックには<自然を愛する庭師>と書いてある。松の木もばっさりとお願いしたけれど、そこは自然を愛する庭師のこととて、頭の方を切って伸びないようにし、枯れた枝を払って風通しよく仕上げ、「これで松の木は元気になる」とおっしゃる。松の木は先住者だから尊重することにした。イングリッシュ・ガーディンかカントリー風がいいんだけどといったけど安藤さん、「俺がやると演歌調になるなぁ。」でも素材が松、岩、つつじ、オモトじゃしょうがないね。

 池がなくなって平らになったところに枝豆をまいた。でも塗装屋さんに足場を組まれて枝豆はつぶされ、たいした収穫にはならなかった。

 秋に向かうことだし、畑にする計画は止める。今までプランターに植わっていた花を地面に下ろし、枝を払った時の松の枝を花壇の淵にすることにした。実のなる木は大きくなるので、ブルーベリー、カシス、ブラックベリー、ラズベリーの潅木類に限定することにして苗を植える。真夏の引越しだったので、前の家から持ってきたラベンダー、ラムズイヤーは移植に失敗。いちご、レモンバーム、オレガノはなんとか活着し、やれやれ。

 居間の前に桃の木があるので、木の下にレンガを敷き詰めることを思いつく。自転車で1回に10枚づつ運ぶこと12回、120枚のレンガを敷き詰めて1坪ほどのグッドなスペースができあがったので、お次は亡夫が集めた板を使って、ガーディン・テーブルも作る。小学生の娘とぶきっちょな私の仕事なので、のこぎり跡が曲がっていようが、釘が曲がっていようが、完成しただけでよしとしよう。パッチワークのテーブルクロスをかけて、陽だまりでお茶をする楽しみができた。

今の季節、やっぱりアップル・パイがいいかななどと考え始めたが、12月にアメリカの言語学者ノーム・チョムスキーのドキュメント映画「チョムスキー9・11」と湾岸戦争の証言ドキュメント「劣化ウラン弾の恐怖」の上映会をするかもしれないので、ゆっくりお茶を飲む時間をとれるかどうか・・・いや、お茶を飲む時間ぐらいはとるくらいの余裕でしていきたいものだと思う。

(2002年11月)

この地球の上で  **アフガニスタン料理その2**

Yakko

 アフガニスタン伝統音楽松本公演は、無事終わった。
 民族音楽はなかなか馴染みがないので、チケットの売れ行きは20数年ぶりのアフガニスタン音楽といえども飛ぶようにとはいかなかったけれど、参加してくれた方たちにはとても好評だった。
 HPで聴いてこのすばらしい音楽をどこに行ったら聴けますかとか、日本を発つときには見送りに行きたいなどとメールもいろいろいただいた。

 私は実はこの日、ほとんど厨房にいてコンサートを聴かなかった。(2週間前に赤坂の国際交流基金の会場ではしっかり聴いてきた。)
 ミュージシャン達にアフガニスタンカレー、コールマを作って食べさせてあげようと思ったのだ。
 <シャマーレ・アフガニスタン>の代表の大月さんが作った有機無農薬米を一俵供出してもらっていたが、彼らは日本のご飯を食べないというのでコールマをさらさらに作ったら食べてくれるかなと思った。
 レシピによると玉葱を色づくまで炒めて、肉(もちろんイスラム教徒だから羊肉か鶏肉か牛肉)トマト、クミン、カルダモン、コリアンダー、シナモン、クローブなどのスパイス、イエローピースハーフなどの豆と煮込む・・・なるほどインドカレーからチリを抜いたものを作ればいいのだと一人で納得して作った。
 なにしろ見たことも食べたことも無いものを作るのだからちょっと緊張する。
 味見をしてもらうとおいしいといってくれたが、よく訊くとスパイスをこんなに使っちゃいけないらしい。こしょうとチリだけでいいという。
 しかもさらさらカレーでご飯をさらさらという目論見も外れて、ジャポニカ米はついに食べてくれなかった。
 結局彼らはカレーと食パンを食べていた。(願わくば、食パンではなくナンがあればよかったのだろうけど。)
 そして私は翌日の交流会のために、タイの食材店にタイ米を買いに走ったのだった。

 翌日の交流会では、アミール・ジャンが自ら腕をふるってくれた。メニューは本当のアフガニスタン料理はこれ!というもの。

 まずは玉葱を炒める、いや炒めるというより、油で煮るといった方が正しい。なにしろ玉葱が半分浸るほどの油を注ぎいれ、時々かき混ぜる。鶏肉とトマトとチリとこしょうと塩を入れてよーく煮込む。
 お次はパラオ(炊き込みご飯)。これまたたっぷりの油で玉葱を炒める。人参も入れる。やはり炒めるというより煮ているというほうがいいような。焦げてるよといっても大丈夫、という返事。
 彼らの油の使い方を見ていると、ペシャワール会が緊急援助としてなぜ小麦粉と油を送ったかよくわかった。レーズンとインディカ米をいれ、お湯を注いで煮る。
 ヨーグルトに水を入れ、みじん切りのきゅうりと塩を入れたラッシーも出来上がる。

 ホスピタリィ精神豊かなアミール・ジャンは手伝いましょうかといっても手伝わせず、盛り付けまで全部一人でこなしていた。なにしろこのアミール・ジャン氏、日本に招かれてきたゲストのはずなのに、ウエルカム、ウエルカムの連発なのだから。

 さて、本格的アフガン料理はあれだけ油を使っているにもかかわらず、本当においしかった。やはり、いつの日にかアフガニスタンに行こう。

(2002年10月)

この地球の上で  **アフガニスタン音楽・来日公演
Yakko

 お盆が過ぎたら、朝晩は秋風がそよぎるようになった。詩人山尾三省風にいうと、「秋が真実に巡ってきている。」冬より体がのびのびとする夏の方が好きな私は、なんだか嬉しいような寂しいような。それにしても今年も暑い夏だった。(地球温暖化の話題は今回はやめておこう。)くわえて、町内PTAの役員に当たった年だったので夏の子どもの行事、青山様、スイカ割り、花火大会、プール当番等をこなし、その合間に引越しの用意。行事が終了するのを待って引越し。そして、引越しのかた付けもそこそこに9月7日のアミール・ジャンと彼のミュージック・ファミリーによるアフガニスタン伝統音楽・松本公演の準備にかかっている。

 CD<シャマーレ・アフガニスタン>の収益でアフガニスタン支援をするということで始まった<シャマーレ・アフガニスタン>プロジェクト。そのCDの演奏者アミール・ジャンが国際交流基金の招聘で8月14日に来日した。山梨県白州町『ダンス白州2002』での公演をかわぎりに東京・国際交流基金フォーラム、沖縄、広島、高松、大阪、岡山、高山、松本と全国を巡る予定だ。今回の日本公演の収益金はすべて現地NGO(D・H・S・A・)との協力でカブールに音楽学校を再建支援するのに使われる。

 長きにわたる内戦の間にアフガニスタンのミュージシャン達は世界各地に難民として祖国を去った。アミール・ジャンも20年前にパキスタンに避難している。その後のタリバン政権下でも音楽は禁止され、音楽を流すだけで6ヶ月の拘禁刑に処されたという。今ではアフガニスタン国内に音楽が流れるようになったもののインドやイランの音楽が中心だという。

 「文明の十字路」としてのアフガニスタンでは日本の三味線の源流ともいわれる弦楽器ルバーブなどがいつも祭りや結婚式で奏でられ、人々は音楽を楽しんでいたことだろう。マザリシャリフでは国中からミュージシャンと観客が集まり40日間にわたって延々と続く音楽の祭典も行われていたというのだから。再びそんな日が戻ってくる日を夢見ながら、

ミュージシャン達の生活基盤の確立と後継者を育てていくための音楽学校再建を実現するために、今回の来日公演に多くの人が参加されることを願っている。

 スケジュールの都合がつけば、コンサートの翌日の9月8日お昼からアフガニスタン料理を教えてもらいながら、一緒に食べながら、交流会を持てるかもしれないので興味ある方はご連絡ください。食材の準備の都合上、要予約です。

お申し込み 0263−48−4904  

           090−8493−7293 (山口)

(2002年8月)

四季の台所  7月 七夕

Yakko
☆☆☆☆☆
 7月7日、突然子供たちが「七夕様はどうするの?」と聞いてきた。母親は、ひな祭りも端午の節句も七夕もいつも一月遅れの旧の暦でやってきたので、カレンダーどおりの3月3日、5月5日、7月7日には、とまどってしまう。3月3日には桃はまだ咲かないし、5月5日に玄関の脇に下げるヨモギも伸びていないし、7月7日には星々の巡りも旧暦とはまた違っているはずだ。でも子供たちには‘世間一般’が強く働いているし、楽しいことは早くしたいので、母の意見には納得してくれない。
 ササの葉を用意する時間がなかったのでお願いごとの短冊は、庭にはえているピイピイの木につりさげることにした。お供えは引越しの片づけで封を切ってないリブレフラワー(玄米粉)を見つけたので、ほうとうの代わりにこれでお団子を作ることにした。
 松本地方以外でも食べるところがあるかどうか知らないが、松本生まれでない人に七夕様のお供えにほうとう(幅広のうどん)をあんこときなこで和えたものを上げるというと、たいていウェーという顔をする。塩味で食べるものを甘くして食べるということに抵抗感があるのは、日本では塩味で食するおかゆを欧米の人々は甘みをつけて食すると知った時に、私もウェーッだったのでよくわかる。
 子どもの頃、8月7日のお昼は大皿にでーんと盛られたあんこときなこで和えたほうとうと決まっていて、それで育った私はおいしいと思った。冷蔵庫にしまわれて冷たくなった残り物のほうとうもおいしかった。
 今回リブレフラワーで作ったお団子は、時間がなかったので、おやおやの出来合いのあんこで和えた。上新粉と同様に熱湯でかいた粉を蒸して、こねて団子にしてみたが、挽き方が細かい粉のせいだろうか、お湯が多かったせいだろうか、柔らかめのお団子になったがそれはそれでおいしかった。まだ袋に半分残っているリブレフラワー、おいしい食べ方があったら教えてください。
 軒下では、今年も子どもが学校で作ってきた七夕人形が風に揺れている。厄を風で運び去ってくれるという七夕人形、願いごとを天に届けてくれるという短冊。
 いまだアメリカはアフガニスタンを空爆していて市民48人が死亡、117人が負傷、その5日後には新政権の副大統領が暗殺される、というような悲しいことが一日も早くなくなりますように。パレスチナ、イスラエルに平和が訪れますように。アフリカの飢餓やエイズがなくなりますように。原発事故が起こりませんように。・・・・etc.をすべて書いていったら七夕様が困ってしまうので心の中だけで祈ることにした。
 ところで、今年の旧暦7月7日は8月15日。たまには、ゆっくり星空を眺めながら、織姫星ヴェガと彦星アルタイルを探してみよう。

☆☆☆☆☆

(2002年7月)

四季の台所  6月
引越しの準備は、まず台所の保存食を食べるところから・・・
  

Yakko

6月の台所は、梅干作り、ラッキョウ漬け、ヌカ床の手入れと忙しく季節が動いていることだろう。うちでは、梅干がたまっているので、今年はお休みにすることにしていたら、知り合いから梅が届いてしまった。それで急遽梅シロップを作ることにした。ラッキョウ漬けの方は、kenが2年前に畑で作ったラッキョウを塩漬けにしたものが台所の隅っこに鎮座しているのを知りつつも、開けるのが怖くて見て見ぬふりをしていたのだが、必要にせまられ、ついにふたを開け、かじってみたところがパリパリと食べられる。頭もヒゲ根も切り取らずに塩漬けしてあったのがよかったかもしれない。きれいにして、たくさんある柿酢に洗糖を煮とかして、漬け直した。なんだか、少し嬉しくなった。

 季節の台所仕事は、これでなんとかこなしたことにしよう。

 さて、まだまだ忙しい。というのは、瓦は大雪の度に落ち、サッシは閉まらなくなり、押入れの床は抜け、と崩壊への道をたどるこの家からついに引っ越す決心をしたからだ。

 23年間も住んでいると、いろんなものが溜まっている。スリムになって引っ越そう、引越しのコツはいらないものを処分することだと何年も見て見ぬふりをしていたものを直視することにした。すると、何年も経っているのに、虫もつかず、カビも生えずにいる健気な食べものたちの姿を発見してしまい、とても見捨てられない。お腹の中に処分することにした。

 殻がとれなくて食べられなかったハト麦は炒って麦茶とのアイスブレンドティーに。普通の大豆を作っていたはずなのに、なぜか生まれてくる茶色い大豆を集めたものが一瓶、煮豆にする。お餅はすぐかびるのに、よく乾燥させたあられ用のお餅は、何年経っても全然元気。油で揚げて、洗糖を煮詰めたみつにお醤油と青海苔を加えたものをからめて、おやつに。4、5年よーく漬かり込んだラム酒漬プラム、干いちじく、レーズンはフルーツケーキに。小麦、ライ麦の粒は、業務用コーヒーミルで挽いてパンに。粉用とうもろこしも挽いてコーンマフィンに。

漉したまま2〜3年放置してあった柿酢は、きれいな上澄みができているので新しい瓶に移しかえて。久しぶりにおすしを作ろう。夏を越す前に、そば粉もなんとか食べなくっちゃ。アメリカ先住民のホピコーンやワイルドライス、タイの食材店で買った緑豆なんていうのもある。うーん、これはどうやって食べよう。

 こんなことばかりしているので、引越しの準備は台所から先になかなか進まない。

「片付け手伝って」「いるものかいらないものかは本人じゃないとわからないでしょ!」ハイ、本人がやると全部いるものばかりになって片付けどころか用事が増えるばかりである。

<シャマーレ・アフガニスタン>ニュースVol.2ができています。3月のアフガニスタン再訪の報告をまとめてあります。

興味ある方は33−7420までご連絡を。

メールに添付でいいという方は、yakkom@janis.or.jpまで。

(2002年6月)

四季の台所  レーズン酵母

Yakko

このところ、毎週水曜日に、パン作りの好きなお客さんが何人かみえてパン作りの話をしている。ホシノ天然酵母もいいけれど、自分で酵母をおこすとおもしろいとつい勧めてしまう。ご飯、野菜、果物、いろんなものからパン種がおこせるけど、作りやすいレーズン酵母の話をしよう。(昨年6月にも書いたけどもう少し詳しく)

@

高さ13cmの広口瓶に、ノンオイルコーティングのレーズン200gと水を7分目まで入れる。

朝と夕、瓶を軽くゆする。毎日見ていると、そのうち泡がブクブク出てくる。
味見もしてみる。甘味がお酒の味に変わってくる。(過程でお酒ができてしまうのはしようがないとするが、全部飲んでしまうとパンができないので要注意!!)
沈んでいたレーズンは浮き上がってくる。甘味が消える頃には、レーズンがスカスカになってくるので、布でエキスを絞り取る。
夏だと1週間、冬だと10日位かかる。

A

エキスの2/3(160t位)と全粒紛をボールに入れ、ラップなどでおおう
少し固めのホットケーキ種くらいになるように全粒紛(白い小麦粉でもいい)を加える。
8時間程すると2倍にふくらむ。
残ったエキスは多目のひとつかみのレーズン(150gくらい)と水を加えて、次回の用意をする。(すぐ使わない時は、冷蔵庫に入れておく)
B

小麦粉(私は、おやおやのハルユタカ)500g、水、塩を加えて、こねる。国産小麦はグルテンが少ないのであまり力を入れてこねなくてもいい。本当はAの過程で、膨らんだら粉100gと水を加え、膨らんだら又加えるという作業を4回繰り返すと、酵母の力が強くなり味もよくなると、プロのパン屋さんはおっしゃるけど、せっかちな私は1回だけ。

本当においしいパンを食べたい方はどうぞ。

発酵させるのに、家庭ではホイロはないし、発泡スチロール箱で30℃に保って温度管理するのもたいへん。でもイーストと違い、天然酵母は温度管理にそれほど気を使う必要がなく、時間をかけて室温で発酵させれば大丈夫。

C

ガス抜きして10分程休ませて、成型発酵して焼く。

(2002年5月)

この地球の上で  **アフガニスタン料理**

Yakko

 この伝言板が出る頃には、<シャマーレ・アフガニスタン>のメンバー達が帰国して最新のアフガニスタン情報を皆と分かち合っていることだと思う。今回は東京外語大大学院を今春卒業のペルシャ語(アフガニスタンではペルシャ語はダリ語と呼ばれ、各民族の共通語として使われている。)専攻の女性が同行しているので、アフガンの女達の話が聞けるのではと楽しみにしている。

 昨年12月の東京のアフガニスタン復興NGO会議では女性のNGOから自立への道としてキノコ栽培について教えて欲しいと要望があったそうだ。キノコといえば長野県、とピンときた大月さんはキノコ栽培の指導員も今回連れて行きたかったようだが、準備が間に合わなかった。前回のアフガン入りでクルミの木を目にしたし、長野県と似ているシャマーレ地方だからもしかしたらいける、と思ったそうだ。ただし、アフガニスタンではキノコを食べる習慣はないらしい。でもキノコはスープ、パラオ(ピラフ)、煮込み、何にでも使えるからアフガニスタン料理にも合うような気がする。援助と共に外国文化が流入し伝統的な食文化が破壊されるかもしれないという思いがよぎったが、考えてみると南米ペルー原産のトマトが地中海地方でトマトソース文化を生み出し、同じく南米原産のトウガラシが韓国のキムチ文化、インドのカレー文化を生み出したのだから、あながち食べものの種が世界を巡ることは悪いことではないという気もする。ただし、あくまでその食の文化が自発的にその風土で育まれたのであるもの、としたい。私はマクドナルドを食の文化とはけして呼ばない。

 ピラフという炊き込みご飯がある。これはアフガニスタン料理の炊き込みご飯「パラオ」が「ピラオ」となり「ピラフ」に変化していったものだとか。前回アフガニスタンのことをもっと知りたいキャンペーンの紹介をしたが、ほとんど知られていないアフガニスタン料理からアフガニスタンに入っていくのはどうだろうか。インド料理のようにスパイスをたくさん使いながらチリは使っていないので食べやすいかと思う。
カーベリパラオの作り方

【材料】4〜5人分
3カップ
1.5〜2カップ
玉葱みじん切り 中1個
レーズン 1/2カップ
人参千切り 大1本
砂糖 大匙1/2
サラダ油 適宜
スライスアーモンド 15g
ピスタチオ 30g
【鶏の煮込み】
骨付きもも肉 2本
玉葱みじん切り 中1/4個
ピーマン粗みじん切り 1/2個
サラダ油 大匙1.5
トマトピューレ 30cc
小匙1/2
調味料(A) トマトピューレ 大匙1.5
1/2カップ
大匙1/2
クミン 大匙1/2
こしょう 小匙1/2
コリアンダー 小匙1/2
調味料(B) カルダモン・コリアンダー・
シナモン・クローブ合わせて
大匙1/2

1)     鶏の煮込みを作る。玉葱、鶏肉を炒め、他の材料を入れひたひたの水を加え20分ほど煮込む。

2)     人参をしんなりするまで炒め、水に浸しておいたレーズンも炒め、砂糖を加える。

3)     玉葱を色づくまで炒め、(A)を加え、サッと火を通す。これを漉したものと米、分量の水、(B)のスパイスを入れ、弱火で30分ほど炊く。

4)     大皿に鶏肉をおき、ご飯を盛り、人参・レーズンをのせアーモンド・ピスタチオを飾る。

<シャマーレ・アフガニスタン>プロジェクト
住所 390-0851長野県松本市島内520-5
代表  山口 亮
tel&fax 0263-48-4904
mobile 090-8493-7293
E-mail afghannokaze@nogu.net
URL http;//nogu.net/afghannokaze/

 CD 『アフガニスタンの風』 販売中!!
 \2,000(郵送料1枚\300)
 郵便口座:00560-3-73975
 [シャマーレ・アフガニスタン]
(2002年4月)

この地球の上で  **もっと知りたいアフガニスタン**
Yakko
 2月だというのに暖かい日が続いている。チューリップや水仙の芽があちこちで顔をだしている。春が近いねと北海道生まれの友人にいうと、松本の冬は北海道の春みたいだといった。雪に埋めつくされる北海道は、雪が溶けた時が春。松本では冬でも雪が溶けていくから春みたいなのだそうだ。
 3月21日春分の日はアフガニスタンの新学期の始まる日。新しい学校の開校に向けて、チャリカル市の学校に文房具、教材の費用+αを携えての<シャマーレ・アフガニスタン>プロジェクトの大月さんの2度目のアフガニスタン行きが予定されている。
 アフガニスタン関連の報道が少なくなってきているが、「ペシャワール会」「国境なき医師団」からの現地からの報告によると(2/14〜2/16)治安はますます悪く、北部同盟軍による略奪が激しくなっており、もたらされた「自由」とは強盗・略奪の自由、麻薬栽培の自由、餓死の自由であって、事態はタリバンの出現した1992年に戻ったようだという。国内の戦闘は、完全には収束しておらず、援助活動が可能なのは国土の50%にすぎない。NGOの救援物資が略奪されるなど救援活動は困難に直面しており、ロシアの医療チームなどが診療の準備をしてきたのだがすべての器具をアフガン新政権に渡して帰ってしまうといったこともあるようだ。アフガン暫定政権は教育の復興を大きく掲げているが、このような情勢の中でどこまで公の復興作業が進んでいるか、私たちの支援がどこまで必要なのか、届けることができるのか、は行って見ないとわからない。大月さんが無事に帰ってくるよう祈ろう。
 9月11日がなかったら、私たちはこんなにもアフガニスタンに思いをはせることはなかったと思う。今までアフガニスタンが世界地図のどこに位置するか知らなかった人も少なくないはずだ。私もインド、パキスタンの向こうの国について何も知らなかったことに気づいた一人だ。そんな人々が4月6日〜14日の企画を立てた。題して、「アフガニスタンのことをもっと知りたい!キャンペーン」。会期中Mウィングギャラリーにて長島義明さんの「平和だった頃のアフガニスタン」写真展、Mウィング6Fホールにて4月13日午後1:30からと7:00からの2回、映画「よみがえれカレーズ」の上映、市内随所にてミニギャラリーの開催など予定している。
 20数年前、世界を旅する者たちにどこが一番よかったかと問うと、アフガニスタンと答える人が多かったという。ホスピタリティ(もてなしの心)を持ち、果物も緑も豊富で、まるで桃源郷のようだったと懐かしむ。1000万個と推定される地雷、まだ収まらない武力闘争、戦争しか知らない子供たち、生き延びるために人々の心に巣くった平常ならぬ心、アフガニスタンの利権を巡る各国の介入。その中で、今度こそ平和がくるかもしれないと希望を持つ人々がいる。その人々に心を向けることで私たちは次へと進むことができるかもしれない。
 20数年前までマザリシャリフでは毎年1回、国中からミュージシャンと観客が集まり、40日間にわたって音楽の祭りが開かれたという。いつの日にか、そんな祭りに参加しにアフガニスタンに行きたいものだと思う。
(2002年3月)

この地球の上で **アフガニスタンの風**

Yakko

 前号でお知らせした<シャマーレ・アフガニスタン>プロジェクト、今年は1月3日のアフガニスタン報告会から始まった。

 昨年3月にパキスタンでアフガニスタン民族音楽を録音してきた大月さん(波田町在住)は昨年12月17日に再びパキスタンへ。今回はパキスタン国内の難民キャンプには入れなかったという。写真を撮ろうとするだけで警察がとんでくる。この時点ではジャーナリストしかアフガニスタンへの入国許可が出なかったらしいが、地元有力者に護衛を求め、マスード派の兵士を装ってなんとかアフガニスタンに入国。

 カブールに着いてわかったことだが、カブールの北にプロジェクトと同名のシャマリ地方という所があった。車で1時間程のシャマリ地方チャリカル市に行くと北に雪を抱いたアルプスのような山々がそびえ、かつてはブドウの産地として有名な所だったと言う。まるで長野県のようで、ここを支援することが決められていたかのように思ったそうだ。北部同盟とタリバンの戦闘の激しかったところでほとんどの家は破壊されていた。10数年間外国からも国内からも支援の手は入ってこなかったところで、大きな期待がよせられる。

現地の人々から支援はコミュニティのリーダーを通してほしいといわれ、話をしてきたが、今一番必要なことは教育だという。まず学校を再建したいという。建物は、日干し煉瓦を積み上げて自分たちで立てることができるが、黒板や鉛筆、ノートがない。それに先生を雇うお金がない。(国の体制ができてない所では公務員としてお給料をもらえなかったり、少なかったりする。何年か前のカンボジアでも先生たちが校庭で露店の食べもの屋を開いて生計の足しにしていた。)今が最初で最後の平和を作るチャンスだとアフガニスタンの人々は希望を持っているようだという。

 この報告を受けてプロジェクトではチャリカル市の破壊された17校のうち緊急に3校の再建をサポートすることになった。再び緊急カンパのよびかけとCDの販売が主な財源になる。先生の給料1人1ヶ月5000円あればなんとかなるということで毎月1000円を定期的に送金してくれる会員も募っていく予定だ。(一家10人の小麦粉と油だけの最低限の食費が2000円という暮らしの中で、各国政府が現地で雇う大使館員の月給上限を2000ドル=約26万円までにしたいという報道。この金銭感覚の差!)

 アフガニスタン復興会議で各国からの支援が総額で45億ドルを超えるそうだ。その内、日本は5億ドル、米国2億9600万ドル、欧州連合約9億ドル。攻撃した国々が本当は賠償すべきではないのだろうか。各国の政治的思惑のいきかう中、巨額のお金が有効に使われることをいのるばかりだ。

 私たちは国境を越えて人と人が結び合うことで平和が構築されることを夢見たい。3月開校準備のため、2月の下旬に又チャリカル市にメンバーが向かう予定だ。

<シャマーレ・アフガニスタン>

 郵便口座 00560−3−73975 事務局 0263−48−4904(山口)

CD 1枚2000円(郵送料 1〜3枚300円 4〜9枚650 円 10枚以上無料)

 

(2002年2月)

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