Yakkoのページ この地球の上で&四季の台所  2001年

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この地球の上で  **平和への行動3**
Yakko

 「アフガンの人々のいのちを救おう緊急キャンペーン」にご協力ありがとうございました。長野県下の戦争ではなく平和を願う人々のネットワークで集められたお金は110万円近く。そのうち口座に振り込み済みの90万円は12月7日、NGOの国境なき医師団とペシャワール会にそれぞれ45万円ずつ送金いたしました。

 17年間医療活動と水源確保事業を行ってきたペシャワール会は、難民(国外に出た人のことを難民と呼ぶ)にもなれないアフガン国内の飢餓避難民を支援し、難民を出さないことを目標に食糧を援助しています。10月20日〜11月11日までにカブール市内へ小麦粉978.8t食用油11.8万ℓ(1.5ヶ月10万人分)ジャララバードへ小麦粉52.4t食用油4192ℓ(3ヶ月2620人分)を配布ずみ。現在も行われています。北部同盟の侵攻に伴い治安が著しく悪くなり、ジャララバードではペシャワール会医療サービスとデンマーク救援会以外の外国団体、国連系の事務所は奪略されるという事態だったそうですが、暫定政権に移行した後も急には事態がよくなるとも思いません。世界食糧計画(WFP)などによる食糧配布状況などみて誰も行かない所に行くという精神で援助の漏れている地域へ配給に回り、飢餓の危機が去れば医療活動とアフガン東部水源確保事業に立ち戻るそうです。東部ではマラリヤが流行していて薬1万人分なども送ったとのこと。
 

 キルト平和の樹に葉っぱをお寄せくださった方もありがとう。一本の樹が完成しそれを持ってピースウォークに参加したり、国会前にもみんなの気持ちを届けにいってきました。

 シャマーレ・アフガニスタン(アフガニスタンの風)プロジェクトも始まりました。タリバン政権の下、音楽が禁じられていたということでアフガニスタンのミュージシャン達はパキスタンへ難民として出ています。今年2月〜3月波田町の大月英明さんらが難民キャンプを訪ね、民族楽器のラバーブの第一人者であるアミール・ジャン氏らの演奏を録音したものをCDにします。緊急製作、販売して収益を難民カンパにあてることになりました。12月20日発売、2000円です。買ってくださいね。直接の長期の支援を、地域通貨を使ってするというプロジェクトも始まりそうです。


 それにしてもパレスチナとイスラエルの報復合戦は再燃し、日本ではテロ対策特別措置法に続き改正PKO協力法まで成立し、自衛隊が武器を持って国外に出るのがどんどん当たり前になっていってしまう。アメリカの空爆の記事は片隅に小さく載るだけになり、アフガニスタンでの正確な死者の数は私たちにはわからない。でも憎しみと暴力の連鎖を断ち切るためにできることはやっていこう。今改めて憲法九条も読み直したい。


池田久子さんの訳による松本ことば憲法第九条「戦争はやらねだ」

 わしら日本人は、人としてせぇ、ふんとに当たり前のこんずらが、世界のどこの国とも、おなしように仲良くしずぃって思っとるだんね。ほうせ、これからはどっかで争いごとがはなっても、おけおけっていうだが、人殺しの兵器や兵隊で、めたどやしたり、おどかしたりするおぞいてだては、こんりんざい、やらねってことだじ。

 だで、そのためにわしらは、戦争する道具や軍隊をせ、みぃんな、ぶちゃったってわけだだよ。第一、戦なんちゅう野蛮なこた、認めねえってこんせ、あい。

 

(2001年12月)

この地球の上で **平和への行動2**
Yakko
 11月1日修学旅行で沖縄に行く松本工業高校の平和教育の授業で、ベトナム帰還兵のアレン・ネルソンさんの講演会があったので参加した。信濃毎日新聞で彼が憲法9条を読んでキング牧師かガンディーが書いたと思った、こんな時こそアメリカの隣人として自衛隊ではなく憲法を送ってほしいと願っているという記事を読み、ぜひお話を聞いてみたいと思ったからだ。アレンさんの話の要約:
 「高校を出た後、貧しく大学も行けず仕事もなく、海兵隊に入れた時は本当に嬉しかった。でも母親はなぜか怒ったんだ。軍隊というのは人々の命を守るためのものと聞かされてきた。しかし軍隊で実際に教えるのは人を殺すこと。上官がおまえたちの仕事は何だと質問する。私たちは「kill(殺す)」と答える。ベトナムに出撃する時も嬉しかった。まず沖縄に行った。アメリカでの銃の訓練はふつうの的を狙う。でも沖縄では違うんだ。人の形をした的の男の急所を狙うことを教えられた。軍隊にあるのは暴力だけだから、沖縄で米軍の暴行事件が起きるのは当然かもしれない。映画の戦争ではかっこいいヒーローが出てきて、女や子どもは殺さないし、バックには美しい音楽も流れている。でも実際の戦場では女や子どもを殺している。殺した死体は捜してきて積み上げるんだ。ジャングルの中の蝿の音と腐臭を頼りに。私が戦争はいやだと思うようになったある体験がある。ある時防空壕に逃げ込んだら15〜16歳のベトナムの少女がいた。おびえた顔で私を見つめるが逃げ出さない。見ると、下半身裸で股の間から赤ちゃんの頭がのぞいている。人を殺すことは教わったが、命が生まれるのを教わらなかったからオロオロしている私の手の中に赤ちゃんが生まれてきた。母親はへその緒を噛み切りジャングルの中へ逃げていった。その時から私は、ベトナム人も同じように生きている人間なんだと思うようになった。」と生々しい戦争の体験を高校生に伝えてくれた。「人を殺した」ことを告白するのにたいへんな葛藤があったことと思う。しかし自分の真実を出発点にして非暴力・平和の道を歩むアレンさんはすてきだ。居眠りしている子もいたけれど、心のどこかにアレンさんの話が残りますように。でもその子たちも講演の後アレンさんが銀色のギターを取り出しリズム&ブルースで黒人の平和の歌を歌いだすとはっと顔を上げていたから歌ってすごい。
 前号で九条を松本弁で語ったらいいと書いた。児童文学者の池田久子さんが直してくれたので次回紹介したいと思う。
アフガニスタンの人々のいのちを救おう緊急キャンペーン・募金のお願い
 これから冬に向かう(−20℃まで下がるという)アフガニスタンの人々が餓死しないように緊急に援助するための募金が11月いっぱい県下で行われています。一家族(10人)一ヶ月の食糧が2000円で援助できます。1984年からパキスタン・アフガニスタンで医療活動をしているペシャワールの会では現在医師も看護婦も小麦粉と油の確保のために走り回っています。行動ネットワーク      郵便振替口座:00530-0-43239                              

ペシャワール会いのちの基金 郵便振替口座:01790-7-6559

 そしてなによりいのちがこれ以上失われないためには空爆をいますぐ止めることが一番
(2001年11月)

この地球の上で  **平和への行動**

Yakko
 9月11日の事件直後は本当にTVから目が話せなかった。アメリカがどのような行動にでるか心配でならなかったから。テロという暴力に対して戦争という暴力で応える方向にアメリカの大勢が向かっていった。オノヨーコさんがImagine all tha people living life in peace...の全面広告を出したり、退役軍人、グレーグ・ニーズさんの無実の犠牲者をこれ以上出さないようにというブッシュ大統領あての心のこもった手紙をニューヨークタイムズに日本から全面広告を出す運動が始まったり、僧ティク・ナット・ハンが、慈悲の心をもって暴力にむかうと断食に入ったりの様々な平和への行動が始まる中、10月8日空爆が開始、テロ撲滅という名で“正義の戦争”が始まってしまった。
 いかなる名目でも、テロはもちろん戦争にせよ死刑にせよ人が人を殺すことは許されないと信じる私は、テロ撲滅という名の戦争も、それを後方支援することで参加することにも同意できない。
 憲法9条を診療所の待合室に貼っている医師がいる。彼から広島弁バージョンというのをもらった。憲法9条を世界の憲法にと遺言して亡くなった詩人が(山尾三省)いる。これこそグローバル化したらいいと願う憲法9条をローカルな松本でも語ったらいい。原文は英語だから英訳はいいとして、アラブ語、タイ語、ポルトガル語、パシュトゥン語、…と世界中の言葉に翻訳したらいい。子供向けの9条もあるといい。9条のカンバッチを作った人もいる。
 あれよあれよと事態が進む中、何もできないと無力感におそわれるが、平和への行動のいくつか、私のしていること、友人達がしていること、紹介しよう。
炭そ菌におびえ、爆弾におびえ、核におびえるより、ジョン・レノンのようにすべての人が平和に生きることを夢見たい。夢見ることが力になると信じたい。 
(2001年11月)

四季の台所 10月*栗の渋皮煮*
Yakko
 店先に、りんごや栗が並び始めると、秋だなあとほっとする。
 今年の夏の暑さで、稲刈りが早目になったりしているようだ。夏の雨が少なかったので、梨農家の松川(長野県下伊那郡松川町)の平沢さんがお便りに本当に困ったと書いている。台風が来ると実が落ち被害が出てしまうが、台風のもたらす雨も欲しくて、風か雨か、ハムレットのような心持ちで考えやっぱり雨がほしいと、台風を待ったそうだ。実が落ちるのも困るけど、梨の木が水不足で弱る方がもっと困るからと。
 さて栗を見て、以前おいしく煮えた渋皮煮をごち走になったことを思い出す。以前市民タイムス(松本市)に載っていた作り方を紹介しよう。手間ひまかかるけど、でき上がったらさぞかしおいしいと思う。
栗の渋皮煮
  1. 栗を油に20分程つけ、渋皮を残して鬼皮だけむく。
  2. 湯で煮たててアクを抜く。1回めだけ重曹を入れ、後はなしで7〜8回繰り返す。
  3. 空気に触れると皮が割れやすいので、水の中で一粒一粒親指でこすってきれいにする。
  4. 中火で柔らかくなるまで煮る。
  5. 栗の7〜8割の砂糖を煮とかしたものに入れ、さらに弱火で30分煮る。
  6. 栗をとり出し、煮汁を半量まで煮つめ、塩を少し入れ、少し冷めたら栗を戻す。
 ここまでしなくても、栗はそのまま茹でればすぐ食べられるすぐれものの木の実。トチの実は、本当にしっかりアク抜きをしないと食べられない。
 人々は昔から食べて生きていくために手間ひま惜しまず調理してきた。
 その心や作業を一緒に味わいたくて、山形県朝日山系で拾ってきたトチの実をお餅にしたことがある。トチの実をぬるま湯につけ、皮を柔らかくして石でたたいて皮をとる。実と同量の木灰と共に煮たて、そのまま2昼夜置いてから木灰を洗い流す。これを餅米と一緒に蒸して搗くとでき上がり。
 このようにして作ったとち餅であったが、苦味が抜けきらず、家族には不評だった。
 いつか又拾えたらもっとアク抜きをしっかりやって作りたいが、もっと手軽に集められる、ドングリ団子に挑戦してみようか。
 マテバシイのどんぐりはそのまま食べられるけど、寒い信州では見かけない。コナラ、ミズナラ、カシのふつうの(?)どんぐりでもアク抜きをしたら食べられるか?来年の四季の台所で報告することにしよう。
(2001年10月)

この地球の上で **支援**

Yakko
 市街地に住んでいると、今年の夏はきつかった。
 ヒートアイランド化した夜の町は12時過ぎまで寒暖計は30℃を指し、セミまで鳴いている。暑い暑いとのた打ち回って眠りについたと思ったら、4時半には又セミの声で目が覚める。
 連日の寝不足で、8月5日のユダヤ人大虐殺証言ドキュメンタリー「ショア」のオールナイト9時間30分のビデオ上映会参加は断念してしまった。
 エネルギー浪費の廃熱のこもった町を離れて、木陰をわたる涼やかな風の中に引越したいと思った。

 さて、そろそろ子ども達の夏休みも終わり、静寂な日々が訪れる。(はずである。)
 夏の間、Tシャツ1枚で過ごしてきたが、又、作務衣にもご登場願う季節になる。禅宗のお坊様の仕事着として始まった作務衣だが、ゆったりとしてとても楽だから、愛用者も年々増えている。今着ているのは黒檀の実で茶色に染め上げた濃淡の縞のタイ製のもの。ざっくりとした織りだが柔らかくて、肌にとても心地よい。

 実はこの作務衣、チェルノブイリ連帯基金、原爆、平和の火、沖縄や在日の問題、ターミナルケア等、様々ないのちの活動を展開している神宮寺(松本市)の「アクセス21」が売り出しているもの。
 タイ(人口6,000万人)におけるHIV/エイズの感染者、患者は推定120万人を超えるといわれている。ここでも感染者は大きな差別を受け、社会から排除される対象になっている。しかも一家の働き手が感染して死に至るため、経済的困窮に追いやられる上、子ども達が残されたり、その子達も二次感染していることもあるのだ。
 タイが仏教国であるのは周知のとうりだが、タイ仏教は上座部仏教で、僧侶が厳しい戒律を守り、修行をつみ悟りを得ることを第一義として、社会との直接的な関わりは禁じているという。
 そんなタイ仏教界にあって、近年寺を拠点に農村、医療、教育問題にとり組み、エイズ患者の支援にあたるお坊様たちが現れているという。
 そんなお寺の一つに、タイ北部チェンマイから1時間のところにあるサンパトンホーリン寺がある。(北部タイには、タイ全土の40%の感染者が集中しているといわれる)この寺の一角に作務衣の縫製用ミシンが置かれた作業場がある。作り手は、タイのHIVに感染した女性たちと支援する女性たち。チェンマイ在住のテキスタイリスト佐藤宇三郎さんが指導にあたっている、この作務衣が日本で売れるということは、彼女たちに正当な賃金が支払われ、エイズ孤児のための基金が作られることになる。
 寄付や物質的援助ではなく、努力に見合った正当な報酬が受けられ、自分の手で、自分の生活、社会を築いていける援助のしかたは、おやおやで取り扱っているTシャツ等の「グローバル・ビレッジ」やコーヒーの「第三世界ショップ」も同じだ。
 不況といいつつも、日本は豊かな国だ。「買う」という行為で、この地球上のより貧しい人々とのパートナーシップがそう簡単に築きあげられるとも思えないが、作り手と、それを流通する人に思いを寄せ、「選んで買う」ことは少しはそれに近づけそうな気がする。

*「アクセス21」は、神宮寺内 рO263−46−0715
(2001年8月)

四季の台所  7月

Yakko
 先月にひき続き天然酵母にまつわる話をしよう。
 風のパン屋は定番2種類の酵母からスタートした。一つは五穀パン種。五穀といっても実際は、玄米、あわ、きび、ひえ、高きび、小豆、大豆を主体に時々はアマランサスなども加えて七穀以上の穀物を柔らかめに炊いて小麦粉を加えて醗酵させたもの。もう一つは楽健寺パン種といって、大阪の楽健寺のお坊様がひろめている、長芋、にんじん、りんごからおこしたもの。それに後からレーズンを加えて、通常は3種類で焼いていたが、講習会ではじゃが芋、柿、干柿、玉ねぎ、トマトなど季節の穀物、果物でおこすことも紹介してきた。
 11年前の7月、高砂市の不登校の子ども達のための「地球学校」から小豆島の合宿でパンの講習会をしてほしいとよばれていった。中学生、高校生位の年齢の子で構成された地球学校は合宿をかねて、店じまいした「海の家」を借り受け営業していた。といってもあまり人気のない浜らしくて、お客はちらほらで、子ども達はのんびりと過ごしている。そこで、かねてからやってみたかった玉ねぎ酵母を試してみた。
 玉ねぎをすりおろし、小麦粉を少し混ぜ瓶にいれておく。浜辺の暑い大気の中みるみる醗酵して大成功。ついでに広い厨房で大鍋を発見して底に蓄熱材として砂をしき詰めたオーブンも発明してきた。
 小豆島から岡山県に渡って、有機無農薬米「赤とんぼ」を作っている大塚さんが主催の子ども会のキャンプで、又子ども達にパン作りの講習会をする。気をよくして、又、又、玉ねぎ酵母おこしをするのだが、山の気温が低めだったのに醗酵に時間をとらなかったせいか醗酵状態が悪い。講習会でふくらまないパンを作ったのはあの時だけだが、健気な子ども達は、キャンプの火とフライパンや鍋で一生懸命焼いて食べてくれた。思い出すと申し訳ない気持ちになる。ちなみに玉ねぎ酵母パンは、ちょっぴり玉ねぎの香りのするパンになる。
 そうそう、先月号で生クリームからバターを作る話をしたが、バターの後に残るバターミルクに小麦粉を入れて醗酵させるとミルク酵母になる。知らないで捨てていたのでもったいないことをしたと思う。
 これからは家庭菜園でトマトがたくさんとれるような方は、ほんのり赤いトマトパンを作られたらいい。
 これからの暑い季節、醗酵過剰で少々酸っぱくなってしまっても失敗だとあきらめて捨ててしまわずに小麦粉と水を足して酵母を励ましてあげると元気になる。
 暑い季節のパンの食べ方として、トーストしたパンに、オリーブ油と塩こしょうをかけたトマト(バジルも)をのせるブルスケッタは本当においしいのでお試しを…。
(2001年7月)

四季の台所  6月

Yakko
--私が台所を好きなのは、ワクワクドキドキのワンダーランドだから---
 生クリームを泡立てるとホイップクリームに。さらに泡立て続けると油と水分が分離してバターの粒とバターミルクに変身!柔脂肪分45%の200ccの純生クリームから90g近くのバターができる。計算するとよつ葉の225g415円のバターの2倍ほどのものになるけれど、でき上がった時の感動と作り立てならではの味はそれくらいの価値は充分あるものだ。初めて作ったときは嬉しくて「おやおや」に走り、居合わせたお客さん達に食べさせてしまった。
 手作りバターには手焼きのパン。天然酵母でパンを焼く人が増えてきて嬉しい。レーズンから自分で酵母をおこす人や、ライ麦を育ててライ麦パンを焼いている人も「おやおや」のお客さんにいる。

 レーズン酵母の作り方を紹介すると、
  • 「おやおや」で扱っているノンオイルコーティングのレーズンを瓶に入れ、ひたひたより少し多めの水を注いで布でフタをしておくと、今の時季だと1週間もしないうちに泡が出てきて沈んでいたレーズンが浮き上がってくる。
  • 毎日ちょこっとずつ味見をしていると、甘味がだんだん消えてきて醗酵したお酒の味に変わってくる。(パン種を作っているのに勝手にお酒になるのだからしかたがない。)
  • そうなったら汁をこし全粒粉を混ぜ元種に。(こした汁は全部使わないで少し冷蔵庫にとっておき次回はそこに水とレーズンを足すと醗酵が早い。)
 この時大事なのは…  

朝晩瓶をゆすったり、味見をしたりして気にかけてあげること。
 「秘伝醗酵食づくり」(晶文社)の林弘子さんは、ペットの天然酵母、と呼んでいる。
 ハムちゃんやワンちゃんも可愛いペットだけれど「私のペットは天然酵母」くらいの気持ちで面倒みてあげるといい。そうなると「私のペットはヌカ床」「私のペットは味噌」「私のペットはドブロク」なんていうのも。相手は生き物、愛情持って世話すると応えてくれる。
 残りご飯、にんじん、長芋、玉ねぎ、りんご、トマト、干柿etc.からもパンの元種がおこせるのだから、不思議、不思議でたちまち台所はワンダーランドにかわるのだ。
(2001年6月)

四季の台所  5月

Yakko
 今月も引き続き魑魅魍魎退治をしている。
 パン焼き以外にも、大工、木工、金物細工、電気工事、水道工事と何でもこなしたKenは、何でも使えそうな物はもらってきて何でもため込んでいた。多才な彼のようにできない私には、それが魑魅魍魎の住みかに見える。使いこなし切れないので、人にあげたり片付けたりしているのだが、延べ7人の人に運んでもらったり、資源ゴミの日に一輪車で運んだり、小学校の飯盒炊飯の薪に持っていったりしてもまだ残っているほどの量だ。
 苗箱に使っていた木箱、堆肥の入ったプラスチックの桶、木材、拾ってきた風呂桶などを片つけたら庭になる地面が現れた。大きくなりすぎたカシグルミの木も今年の冬切ったので、日も当たるようになった。塩尻の田畑を返すことになった今、大事な猫の額の庭だ。
 何を育てようか。やはり台所に直結するものが主体になる。ディルの種をまく。バジルの苗を2つ。それに2年前、自家採種した種をまく。パセリの苗2つ、パイナップルミントの苗1つ、レモンバームの苗1つ、カモミールの苗3つ、キュウリの苗4つ、ナスの苗3つ、シシトウの苗2つ、サニーレタスの種をまく。間に、金魚草、マーガレット、ディージー、金蓮華の花も植える。洋子ちゃんにおねだりしてもらった、タイム、オレガノ、ラムズイヤーも植える。畑から持ってきたラズベリーの2本はどうやら活着した様子で、つぼみを持っている。
 さて、先述の切られたクルミを追悼してもう少し書こう。
 いつか広い土地に引越すまで、少しでも大きくしておこうと思って十数年前に植えた苗木(うちの子になったばかりの頃、冬の葉柄痕が羊の顔みたいでおもしろく、「おやおやノート」に登場してもらったこともある)、地下水豊かなこの土地がよほど合っていたのかすくすく育って、二階の屋根をはるかに越え、毎年たくさんのクルミの実を落としてくれた。とても家族が食べきれる量ではなかったのをKenがクルミパンとして生かしてくれた。最後の秋には今まで以上にたくさん実をつけてくれ、大きなダンボール箱に二つ。そのうち一箱は友人が持っていってくれた。ダムを止めて、緑のダムを作ろうとする田中知事を応援するため、ドングリなどの雑木の実を集めて苗を育て、植林する運動を展開しようとしている栃木県の佐藤隆司さんに、そのクルミの実を送ってくれたはずだ。
 切株の回りは、170cmある。それが春になって、水を吸い上げ、水をためているのが痛々しく、見る度にごめんねとあやまっているけれど、子ども達が、どこかで芽を出し育っていってくれれば、生命はつながっていく。
 クルミの実を石でたたいて割っていると、ルーツの縄文時代の人になったような気がしておもしろい。今年の秋は山のクルミでも拾いにいけたらいい。
(2001年5月)

四季の台所  4月

Yakko
 山や街に花があふれ出すと、見も心も軽くなってくるようだ。そうすると寒い間は足を踏み入れたくなかった物置の食料コーナーが気になってくる。さてと、魑魅魍魎退治をするか。
 近代的なシステマティックな台所には、梁のススや柱の陰にひそむ得たいの知れない魑魅魍魎たちの住む余地はない。縁の下のない今の住宅からあぶれたノラ猫が、うちの屋根の隙間で子どもを産むようにピカピカの台所からあぶれた魑魅魍魎たちがうちの食料庫の棚に住みついているように思える。でもいつまでものさばらせておくにもいかないから、たまには清掃をして退散してもらっている。
 うちの食料庫(というのも大げさだが)のリストをあがると、ジャムの瓶詰(プルーン、ルバーブ、カリン、紅玉、ママレード、桑の実、ラズベリー)、梅シロップ、ラズベリーシロップ、ラッキョウ漬、奈良漬、梅干、味噌、果実酒(杏仁酒、梅酒、カリン酒、チョウセンゴミシ酒)、おっと、まむし酒もあった。栗のシロップ漬、キャラブキ、ワイン、アップルビネガー、干柿、柿酢、くるみ、豆類、雑穀etc.
 まずはフタをあけるも恐ろしいカメを開けてみる。梅干にせずに梅漬にしておいた小梅は黒豆(?!)にかわっている。奥の方にあって手入れをしなかった味噌のカビをとる。瓶詰の脱気には自信があるからこれは大丈夫。
 初めはいろいろ作っていた保存食もだんだん淘汰されてきた。母から伝授されたカリンの砂糖漬、赤い梅の砂糖漬は甘すぎるのでボツ。野沢菜漬は漬け込んだ時の充実感だけで満足してしまい食べるのを忘れ、結局おやきの具になる方が多いのでボツ。いや“忘れている”というより冬の間は物に埋もれて漬物樽までたどり着けない、というのが真実に近い。
 ともかく何があるか把握し、捨てるものは捨て、食べるものは早く食べる。
 古い豆も2〜3日、水に漬けると食べられる。雑穀は、高キビとキビはうちの精米機で搗けたけど、ヒエは搗けなくて8sある。一升瓶と棒で搗いてみようか、それよりアジア、アフリカの人や一昔前の日本の人のように臼と杵で搗くスタイルもいいな。などと考えていると今日も魑魅魍魎退治は終りそうにない。(「雑穀のきた道」(NHKブックス)を調べたら、ヒエは石臼を用いてひき割り、トウミをかけて糠を分離する、と書いてあった。ヒエ、ソバのように殻が簡単にとれないものには石臼を用いるのだろうか?)
 新しい学期、年度が始まるこの時期、私も心を新たにして四季の台所とつき合っていこう。
(2001年4月)

この地球の上で **トラバーユ**

Yakko
 ある日、一家の大黒柱が病に倒れ、長い闘病生活がこれから待っているとする。彼は、何かあった時の将来のためにという貯え方が好きではないので、生命保険には入っていないし、貯金もない。しかし子どもはまだ小さくて成人するまで10何年もあるから、養育費、生活費、治療費はどうしても必要だ。
 収入の道を捜すため妻はハローワーク(公共職業安定所)にでかける。
 求人票に目を通すのだが、2003年から学校が週休2日になるので、土日が休みの所を捜したい。そうすると接客業、販売業関係の所は除かれる。車の免許がないので、徒歩か自転車で通勤できる所に限定される。看護婦、薬剤師、教員等専門職の資格はもっていない。
 そこで彼女の就労条件にかなうものとして手元に残ったのは、事務、工場の生産関係の仕事だった。が、事務職は30歳まで、あるいは40歳までと、年齢制限の多いこと。48歳の彼女は、有能な私に対して年齢制限で道を閉ざすのはたいした会社じゃない、こちらからお断りと、大いに憤慨する。そして、家電製品組み立ての求人票のみが残った。
 さてその収入だが、時給770円で8時間労働、月に20日働いたとして12万3200円。多い額ではない。養育費、生活費、治療費の合計にはとても足りないので切りつめるしかないが、今までだって、外食しない、飲まない、本は図書館利用。衣類、食べ物の生活に必要なものは、自給する、直す、リサイクル品を利用するなどして、かなりスリムなライフスタイルでやってきた。これ以上、節約できるだろうか。どっちみち、妻の貯金を切り崩しての生活になるのだから、引き出すお金は少ない方がいい。・・・でも彼女は気が重かった。何故か?ドライヤーや何やら組み立てることが自分のしたいこととかけ離れているように思えてならないからだ。お金がなかったら働くのは当然だし、組み立てられたドライヤーが誰かの役に立つのはわかる。しかし働くのは、お金のためだけではない。社会と関わりをもって生きていく自分の表現でもあるはずだ。
 ・・・・・以上は2ヶ月前の私の話である。結局どうしたかというと、面接の日に断りの電話を入れた。つれ合いのKenが、病院からのより強い抗がん剤の勧めを断って、自宅で代替療法でやっていくと決心したので、それにつき合うことにしたからだ。Kenは“したくないことを、してほしくない”とも云った。
 それで良かったと思う。亡くなる直前まで、ずっとより添うことができたことが、とてもありがたく思える。もうしばらくは週2回、「おやおや」に勤務しながら、私のできることをゆっくり捜してみようと思う。
(2001年3月)

四季の台所  1月

Yakko
 1月12日、昨日は鏡開きじゃなかったかと云われて気がついた。すっかり忘れていた。玄関の鏡餅をおそるおそる見てみると、今年はカビが少なくてホッとする。包丁で簡単にこそげられる。お汁粉を作ろう。少し前までは、近所に恩田さんというあんこ屋さんがあって、そこで生あんを買ってくればいつでも簡単にお汁粉が作れたのだが、いつの間にか廃業してしまった。私はこしあんが大好きなのだ。和菓子の中で一番好きなのがこしあんで作った栗蒸し羊かん。うう、考えただけでよだれが出そう。粒々のぜんざいではなく、あのとろりとしたお汁粉にありつくためだったら、少しの手間など惜しまない。
 小豆をストーブにのせ、コトコト煮る。次は水をはったボールにストレーナー(こし器)をひっかけ網が半分位水に沈むようにして、しっかり柔らかく煮えた小豆をひとすくいづつ入れ、しゃもじで皮をこす。裏ごし器では目が細かすぎてあんが下に落ちない。ストレーナーがいい。せんだって、20年使っていたストレーナーの網が枠からはずれて新しいのを捜したが、何故か皆底に台のついたものばかり売られていて、これは水切りにはいいかもしれないが、こしあんを作ったり、ジャムをこすには、はなはだ不向きな代物だ。井上でやっと普通のストレーナーを見つけた。
 さて、ボールの中に水と一緒にたまったあんをさらしの袋に入れて絞る。水を入れまた絞るを3回ほど繰り返し、袋の中に残ったのが生あんだ。洗糖、塩、水でゆるめに煮るとお汁粉だし、煮つめて練り上げるとこしあんだ。
 床の間のない我家では、不本意ではあるが、唯一空いているスペースのげた箱の上に三方をうやうやしく置いて、鏡餅をお供えした。荒神様(かまどの神様)、水神様、お便所の神様にも小さめの鏡餅を上げた。つれ合いの生家では、普段使う道具類に鏡餅を供えたというし、神棚だらけだった私の生家では、やたら鏡餅があったような気がする。
 さて、メインの大鏡餅は水餅にしてふかすと柔らかくなって、とろりとしたお汁粉にとてもよく合う。小さい鏡餅は既に半分カラカラ状態になっているのでストーブの上に作った乾燥棚でさらに乾かし、後で揚げあられとしてのお楽しみにする。こうして、今年もおいしいお汁粉を口にして顔をほころばせるのであった。
(2001年1月)

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