Yakkoのページ この地球の上で&四季の台所  2003年

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四季の台所(11月)

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 11月からおやおやの勤務シフトが変わって、月・水・金はフルタイムになった。たいへんかなと思ったけど、かえってメリハリがついていいかもしれない。月水金の朝は夕飯の仕込みとお弁当作り、火木土の朝は洗濯をする。

 自分のお弁当だと超簡単。前夜の残り物をアレンジして詰めればいいのだもの。ある日のお弁当は、さつま芋ご飯、上には仕込んだ味噌につけておいた紫蘇の実、ワンタンを4個残しておいたのを揚げたもの、それとれんこんの金平を詰めてできあがり。この秋の献立お弁当は、さつま芋はホックリ、揚げワンタンはカリカリ、れんこんはサクサクと触感楽しく、紫蘇の実はいい香りでなかなかだと思うけど、子どもには不評だろうな。トマトの赤やきゅうりや絹さやの緑を加えて視覚的にも満足させてあげないと○にならない。

 まぁ、どっちみち世の中のお母さんのお昼は残り物の片付けときまっているかもしれないけど、何もない時はここぞとばかりに子ども達の嫌いなものを食べる時だったりもする。うちの子は姉が魚嫌い妹はキノコ嫌いなので、たった一人のランチにメザシをうっとり食べたり、トウガラシとにんにくを利かせたキノコスパゲティに舌鼓を打つ。

 子どもと一緒に残り物ランチの技を一つ伝授。大皿にご飯、おかずを少しずつ盛り付けて、やはりレタスやらできれいに飾りつけ「ランチができたよ!」と呼ぶと「ランチ、ランチ」と駆けつけてくれる。実はインドネシアのご飯に「ナシ・チャンプルー」というこんな料理がある。お皿の上にご飯とおかずが少しずつのったもの。バリ島の町の食堂でよく注文した。インドネシア語でナシはご飯のこと、チャンプルーは混ぜこぜの意味。多民族から成るインドネシアの、共通語としてのインドネシア語は、交易をする人々の言葉が元になっているというから、これが沖縄に伝わってチャンプルーになったり、長崎のちゃんぽんになったということだろう。山本ふみこさんの「台所で元気になる」(大和書房)を読んでいたら、いろんなおかずを大き目の丼のご飯の上に盛り付けた「まかない」というのが出てきた。これもいいかもしれない。

 おいしいランチの後は先月に引き続き衣類のリメイク。三つ編マットはラグサイズのものを作りたいという夢は捨て去って座布団サイズのマットを完成させた。使ったTシャツは7枚。今は亡夫のセーターを熱湯で洗濯してフェルト化し、バッグ作りに励んでいる。

 台所仕事やもの作りは好きだけれど、そればかりやっていられない。11月16日(日)は塩尻アイオナ教会でアフガニスタン報告会、23日(日)は穂高町民会館で関曠野・講演会「民主主義の再定義」30日(日)は松本勤労者福祉センターで有機農業研究会主催の内山節・講演会「生きること、はたらくこと 豊かな自然の中で」、Mウィングで「ディストピア」上映と目白押し。(詳しい情報は、おやおやの置きちらしで)パレスチナのアパルトヘイト・ウォールも気になるし、イラクの劣化ウラン弾も気になっている。


四季の台所(10月・いろいろのその後)

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 5月から準備を始めたパレスチナ関連企画が終わった。試験が終わった時の気分で、今までできなかったことがしたくなる。

 本が無性に読みたい。9月24日に亡くなったエドワード・サイード(米・コロンビア大学比較文学教授。パレスチナ問題、イスラム世界に対するアメリカの政策などに発言し続けた。)を偲んで彼の著作も読みたいが、パレスチナ関連の本はしばらくいい。近くのリユーズの本屋に行く。新刊と違って何でもあるというわけではない本の中から探すのは労力がいるということがわかって、最近はもっぱら100円コーナーだけを覘く。「ソフィーの世界」をこの前ここで見つけた。良書「パパラギ」や「リトル・トリー」もタレント本に混じって100円で出ているのだからどういうセンスをしているのかと思ってしまうが、掘り出し物を探す楽しみがある。この日は、「創生の守護神」上下(グラハム・ハンコック著 ピラミッドは王家の墓ではなく知の遺産が秘められた宝庫であると天文学から検証した謎解きがおもしろい)「フォレスト・ガンプ」「愛と復讐の大地」(サイババを紹介した東大卒の理学博士青山圭秀が体験したインドのもう一つの顔)「玲子さんの憧れ、未完成」の5冊を買って500円。乱読ではあるが、後者3冊は一日で一気に読んでしまった。

 秋、冬物の入れ替えもしなくっちゃと整理を始めたら、お針仕事もしたくなった。古いTシャツをいったんは資源ごみ用の袋に入れてみたものの、取り出して作り変えることにした。

5cm幅の裂き布を作って、前から一度作ってみたかった三つ編のマットを作ることを思い立つ。裂き布といってもTシャツはうまく裂けないので、鋏で切った方がいい。裂いた布は糸ではいで長い太目の糸にする。混んがらないように気をつけながらひたすら三つ編していく。それを円形に(楕円形でもいい)形作りながら糸で留めていく。けっこうTシャツが必要みたいで、材料が足りなくなって小休止。これが大休止になりませんように。それから、わりときれいだが気に入らなくて袋に入れたTシャツからは身頃と袖から大小3つの袋を作った。作る楽しみと最後まで使いきったという満足感と家計の節約と地球経済の節約。

 「四季の台所・6月」で書いたキッチン・ガーディンはどうなったかというと、思いがけず活着率のよかったトマトは、無計画に植えたものだから支柱がきれいに立たず夏の間中庭はジャングルだった。せっかく根付いたトマトを抜くに抜けられず、夏が終わって引き抜いた時はなんだか嬉しかったというのは変かしら。もちろん豊かな実りには感謝!隣のおじさんからもらったとうもろこしの苗は、くれた本人もわかっていなかったようだが、実を結んだらモチモロコシやポップコーンであった。「へんな実ができたけど捨ててくれ」と言いにきたけど、大丈夫、ちゃんと食べたり、壁に飾ったから。ただ密植状態だったので、とうもろこしの陰になったラズベリーとブラックベリーは毛虫にやられて丸裸。なんでも、風通しはよくしておかなくっちゃね。

 なんやかんやとしているうちに、後2ヶ月少しで2003年も終わってしまう。いや毎日毎日精一杯やっているうちに気がついたら一年が終わっていくという感じだろうか。


この地球の上で(シャヒード展)(2003年9月)

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 9月20日から「シャヒード、100の命」展が始まる。シャヒード、この聞きなれない言葉は、アラビア語で「誠実な証人」を意味する。

 パレスチナで2000年9月29日に始まった民衆蜂起アル=アクサー・インティファーダ(イスラエルのシャロンがアル=アクサー・モスクのあるイスラムの聖地に登ったことにパレスチナ人が抗議して始まったイスラエルの占領に対する抵抗運動。イスラエルがイスラムの建物を破壊してユダヤ教神殿の再建を主張するなどの経緯があった中で、挑発的に訪問が行われた。)で亡くなった100人の名前と写真、遺品を展示する美術展だ。

 死者を偲ぶことや追悼すること。それがお盆などであるならば、私にと渡された命と累々とつながりあう命に感謝を捧げるだろう。それが近しい人の命日であるならば、生前の思い出と私に残されたと思われるメッセージに想いをはせるだろう。では、それが殺された人々、一人一人にであるのならば?

 カタログとして収録された100の命の一人一人の「生」を読む。ハラルド・フィッシャー、68歳ドイツ人。ドイツの慈善事業でパレスチナに来てパレスチナ人と結婚。「火事だ」という声を聞いて消火器を抱えて救助に駆け出したところをイスラエルのミサイルに爆撃され、即死。アズィーザ・ダンヌーン、58歳主婦。友人や親戚を見舞いに行く途中、故障したタクシーから降りて他のタクシーが来るのを待っていた時にイスラエルのヘリコプターからの爆撃で即死。ラシャード・アル=ナッジャール、22歳。中学を終えると仕立て屋の資格をとったり、建設現場や工場で働いて、家族全員の生活の面倒をみていた。友人の葬儀デモに参加していたが、衝突に発展し、頭を撃たれ即死。ウサーマ・ジャッダ、22歳。高校1年を終了するとフリーランスで働くようになった。負傷者が発生という知らせで献血をするために病院に駆けつけ、ダムダム弾で胸を撃たれ即死。サーメル・タバンジャ、12歳。本と飛行機が大好きだった。飛行機の音を耳にして外に飛び出した子ども達、非武装の住民にイスラエルの戦闘用ヘリコプターは銃撃を開始、胸を打ちぬかれ即死。

 これらは最初と最後の方とアトランダムに開いたページの中の概略。もう書き連ねるのはよそう。展示物として私たちの前に差し出されるのは、生きていた時の写真と、生きていた時に使っていた日用品なのだから。言葉を連ねるのは、作品の前に立ってからにしよう。

 でも私には、彼/彼女が生きていたことに想いをはせるのと同じくらいに殺されたという背景に想いが及びそうな気がする。

「シャヒード、100の命」―パレスチナで生きて死ぬこと―展

9月20日(土)〜30日(火)9:00〜17:00(24日・水は休館日)

松本市中央公民館Mウィング2F展示ギャリー 入場無料

問合せ:090-8493-7293(山口)0263-27-4020(村井)


この地球の上で(パレスチナの分離壁)(2003年8月)

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 ある日、突然「土地収用命令書」があなたの畑のりんごの木に張り付けられ、りんごの木々は切り倒されることになる。さらに収用された土地の跡地にできた「壁」によって、壁の向こうの畑には通うことができなくなり、生活のための水も接収されるとしたらどうだろうか。

 これは今、パレスチナで起きていること。ただし、パレスチナの場合、りんごの木ではなくてオリーブの木であるが。

 2005年までにイスラエルによる軍事占領の終結とパレスチナ独立国家樹立をうたう「ロードマップ」(行程表)が発表され、和平への道を歩んでいるように見えるが、2002年6月からヨルダン川西岸地域・パレスチナ被占領地で巨大な「壁」の工事が進められていることはあまり知られていない。イスラエルが「保安壁」と呼ぶこの壁は、高さ約8m、上には高圧電流が通り300mごとに監視塔が立つものだという。1967年第三次中東戦争―イスラエルがアラブ諸国とした戦争。イスラエルがヨルダン川西岸、ガザ、シナイ半島、ゴラン高原などを占領したため、国連は撤退を要求したが(国連決議242)事実上イスラエルは拒否をしている。―以前の国境はグリーンライン(休戦ライン)と呼ばれているが、今建設中のこの壁はグリーンライン上ではなくパレスチナ側に大きく食い込む形で(ある地点では6kmの内側)建設されているため、西岸地域の20%が失われ30の村々の土地が一部又は全部失われることになるという。飲料水、灌漑用水を供給する31の井戸も壁の外側のイスラエルの管轄下におかれる。さらにヨルダン川の反対側にも壁が建設されると、パレスチナに残される土地は40%になってしまう。この40%の土地でもオリーブ園で生計が立たなくなり、水もないとなったら、それはそこから出て行け!ということを意味する。「ロードマップ」でパレスチナ独立国家ができあがったとしても、その国家の実態はないということにもなりかねないのが「壁」の建設だ。

 例えば、4万人の住民のいるカルキリア市は壁に町の周りが全部囲まれるためイスラエルからも西岸からも隔てられ、唯一の出口はイスラエル軍によって管理されるアクセスロード一本になる。この状況をカルキリア市長は「大きな刑務所」と呼ぶ。イスラエルへの出稼ぎもできなくなり、失業率70%の数字はもっと高くなり、400haの農地にはたどり着けなくなる。生計の手段を奪い、絶望に追いやることが和平への道だろうか。壁の向こう側の生活が成り立つのか、水源はどうするのかなど一切考慮されていないイスラエルの「保安壁」はパレスチナにとっては「分離壁」「アパルトヘイト・ウォール」と呼ばれる。「パレスチナの自爆攻撃から守るための壁」は本当に自爆攻撃を止め、解決につながるものだろうか。

 パレスチナとイスラエルの平和は、大きな力で人々を住み慣れた土地から追い出し、追い詰めることからはけして生まれてこないことだけは確かだ。


この地球の上で(パレスチナ)(2003年7月)

 9月15日にパレスチナの子ども達を描いた映画「シャテーラ・キャンプのこどもたち」と「夢と恐怖のはざまに」を上映することになった。難民キャンプで暮らす前者は9歳くらいの子ども達、後者は13,4歳の子ども達が主人公のドキュメンタリーだ。

 上映するに当たって、パレスチナの人々が何故イスラエルの長い占領下に置かれているのか、又マスコミ報道から伝わるパレスチナ、イスラエルの暴力の連鎖という印象から私自身が先に進まなかったのは何故かを考えてみざるをえなくなった。私に見えなくさせているものは何か、私が見ようとしないものは何か。イスラエルのパレスチナ占領が第2次世界大戦前の列国の植民地政策と深く関わっているにせよ、こうまで不当な占領が今日まで許されているのはなぜか。ナチスのユダヤ人ホロコーストを知らねばならぬように、アメリカのイラク攻撃を知らねばならぬように、日本のアジア侵略を知らねばならぬように、人が人として生きることを阻むものは何かを知るためにもイスラエルのパレスチナ占領を知らねばならない。

 イラク攻撃においても、世界中の人々の反対の声の中、アメリカとそれを支持するイギリスと日本によって攻撃がなされた。個人の殺人の否定はもちろんのこと、今まで見えにくかった家庭内の暴力の否定にまで意識が向いている暴力否定の上に成り立つこの社会の中で、国家が「悪」と決め付けたものには、法的手続きもせずに戦争(というより一方的な攻撃)の名において殺人が許されている。一人一人の生きる権利を踏みにじることは、個人の殺人も戦争という名の国家による殺人も同じではないか。(あらゆる国家には人を殺す権利―死刑と戦争―はない。憲法9条を地球上に広げたいと願う者の一人に名を連ねたいと私は思う。)

 先の自分自身への問いかけに答えるならば、テロのよる暴力の連鎖という一見問題をまとめ上げてしまいそうな言葉の陰に隠されているもの、「自爆テロ」という自分の命を犠牲にすることあるいは石を投げることしか残されていない、不当に住んだ土地を追われ今も追い出しのために様々な施策をとられ続けられているパレスチナの人々の抵抗としての行為、それに対するイスラエルの軍事力を使った報復という問題の本質を見失うという仕組まれたロジックに陥っていたことに気づく。

迫害と虐殺にあってきたユダヤ人が、今度は自分の国家を奪われないようにと今パレスチナを占領し迫害と虐殺を続けることは、今世界を蓋おうとしている恐怖と不信を煽り立てることによって成り立つアメリカ式システム―新しいものを買わないと不便で流行おくれになるという恐れを作り出し消費をさせること、あるいは攻撃されるかもしれないという恐怖から先に攻撃をしてしまうこと―と類似しているように思える。イラクに人間の盾として参加されたキリスト教牧師の木村公一さんが先日来松して、恐怖を煽りたてることで動いている国際政治を乗り越えることがミッション(使命)だと話された。北朝鮮の脅威を煽りたて、有事法制(戦争法)を作り上げた日本もまた然りという中で、キリスト教徒ではない私にとっても、このミッションは大切なことだ。おそらくは平和を構築しようとするすべての人々にとって。

 そして、平和の構築を語るときには、等身大の人間の姿が見えない空の上から爆弾を落とす側ではなく、殺される側の人々の声に出来うる限り耳を傾けることから始めたい。

  


四季の台所(6月)

 そろそろ梅雨に入る。今年の雨はどうだろうか。そしてその後に控える夏は酷暑になるか、冷夏になるか、毎年この頃になると気にかかるところだ。

 狭い私のキッチンガーデンは、皆すくすくと元気に育っている。先月手を入れる余地がなくなったと書いたのだけれど、隣のおじさんから、蒔いた種が皆発芽してしまって植えきらないからととうもろこしの苗を30本もらってしまった。もしかしたら獲りたてのおいしいとうもろこしが食べられるかもしれないと一瞬思ってしまい全部もらったので、枝豆の間や通路などに、彼等を植える場所を無理やり作った。株間は最低30cmほしいところだが20cmのところもあるので実入りがどうなることやら。さらに、トマトのかき芽をさすと増やせると本に書いてあったので好奇心が湧き上がり、かいた芽を空いているところに植えてしまった。なんと活着率87%、8本植えて7本が着いてしまった。かいた芽をそのまま土に植え、朝晩水をやっただけで一人立ちしてくれた丈夫なトマトのおかげで花など植える余地が本当になくなってしまった。

 ミント、レモンバーム、タイム、オレガノの多年草のハーブはすっかり根付いている。和洋ともハーブ類は元気で、去年たった1本のこぼれ種から無数の芽を出した紫蘇は間引いて薬味に重宝している。今日は梅干と鰹節と紫蘇をみじん切にして練り合わせたものを作った。ご飯がすすむおかず。

  なにしろ狭いので、食卓のちょっとしたお楽しみ程度にしか作れないのが悲しい。広い畑があったら、大豆、小豆、小麦、じゃが芋、玉葱、ポップコーン・・・貯蔵できる作物も作れるのに。畑つきの住宅環境には車のない親子3人は暮らせないと判断したから今ここにいるのに、つい憧れてしまう。

 先日松本市に事務局をおく日本チェルノブイリ連帯基金制作協力の「アレクセイと泉」の映画を見た。

チェルノブイリ原発事故で汚染されたベルラーシ共和国のブジシチェ村。かつては600人が住んでいた村の住人は今では55人の老人とアレクセイという青年だけ。ジジとババだけになったこの村で、人々は馬や鶏、豚、がちょうを飼い、大地を耕し、家畜の分も含めた1年分の作物を収穫する。買うのは、石けん、塩、砂糖、ウォッカくらいという自給自足の暮らし。ババたちは、糸をつむいで布を織る。アレクセイの父は籠を編む。たぶんずっと昔から続けられているように。違うのは、アレクセイ以外の若者、子ども達がいないこと。

 大地も森も汚染されているのに、村のまん中に湧き出る泉からは放射能が検出されない。百年前の水だから。毎日、村人は水汲んでは運ぶ。飲み水用の隣の日々の洗濯場での仕事はババたちの仕事。ある日ババ達の要望でジジ達は森の木を切り出し古くなった洗濯場の木枠をやっと新しく作り変えた。司祭がやってきて水を祝福する。新しい十字架を建てる。アレクセイはいう。「僕はどこにも行かなかった。もしかしたら、泉が僕をとどまらせたのかもしれない。泉の水が僕の中を流れ、僕をささえている」

 大勢の人が見にきていた。人間が引き起こしてしまった悲しみの大地の物語ではあるけれども、それでも大地に根ざした暮らし、人々がたすけ合っている暮らし、いのちの水を大切にすえる暮らしに私たちは、心ひかれるからなのかもしれない。 しかし、それを思い起こしてくれた物語もジジ、ババの命と共に終わってしまう。繰り返すけれど、人間が引き起こした原発事故によって。

 私にお世話をまかされた小さな畑で映画「アレクセイと泉」のことを考えた。


この地球の上で  ―母の日―(2003年5月)

狭いキッチン・ガーディン・スペースにトマトの苗3本、トウガラシ1本、茎ブロッコリー3本を植え、空き地にディルとバジルと枝豆をまき、もう手を入れる余地がなくなってしまった春の一日、5月11日は母の日だった。

何日か前に「戦争中毒」(アメリカで出版された、アメリカが軍国主義を脱け出せない理由を書いてある本)の翻訳者のきくちゆみさんから母の日の始まりについてのメールを受け取っていた。

ことの始まりは19世紀のアメリカ。戦争に明け暮れる男たちに対する母親からの平和・反戦宣言だったのです。*この声明を書いた、Julia Ward Howeは、19世紀の奴隷制度廃止論者であり、アメリカの最も勇気ある最も初期の女性平和活動家でした。

 最初の「母の日」の声明

立ち上がれ、今日の女性たちよ!立ち上がれ、心あるすべての女性たちよ、

私たちの洗礼が水であろうと、涙であろうと。

私たちは筋違いの機関に大事な問題を決めさせることはすまい。慈善や憐れみ、忍耐といったことを私たちから学ばずに、私たちから息子たちを奪わせることはすまい。

男たちが始終戦争にかり出されて鍬と金床(鍛治屋の道具)を放り出しているあいだ、女たちが家事の手を止めて、真摯に相談する偉大な日をつくろう。

どうしたら偉大な人間家族が平和に暮らせるかについて、国籍の違う人間同士の結束と国際紛争の平和的解決法、そして偉大な普遍的平和を広めるために、女同士が互いに話し合おう。

                               ジュリア・ワード・ハウ  1870年 

この日、小3の下の子はおやおやの探鳥会に5時に起きて出かけてしまったので、母はのんびりとTVニュースを見ることにした。なるほど、日曜日の午前中は一週間分のニュースを見ることが出来るのかと感心しながら。今にも通ってしまいそうな有事法制のどこが問題かとか、イラク戦争を子ども達がどう考えているか、80%以上の小学生が戦争に反対しているなどちゃんと報道している。その後SBCで白装束集団の報道と視聴者の意見を募集していたので、FAXで「誰でも異様なもの、自分が理解できないものに対して拒否反応を起こす。そんな時、排除するのか、あるいは理解するための材料を探すのか。マスコミの役目というのは、人々をただ不安に煽り立てることではないはずだ。今回マスコミの報道をみると、彼等が何故こんな行動をとるのか、何が人々を不安に煽り立てているのかをきちんと伝えていないと思った。」と意見を送ったら、最後の一行を読み上げてくれた。自分の意見は言ってみるものである。午後は本多勝一の「殺される側の論理」を再読。

電話が3本。「有事法制の勉強会を開きたいので、信州大学の愛敬先生の連絡先を教えて」「この前もらった広島市立大学のクリスチャンさんの『イラクにおける劣化ウラン弾攻撃・被害はジェノサイド級』の論文を国会議員に送ろうと思うけど」「国会にみんなの声を届けに行こうと思うけど一緒に行かない?」3人とも母だったりする女性からだ。

なんかジュリアさんの呼びかけた本来の母の日みたいな日だった。


この地球の上で(イラク戦争)(2003年4月)

2003.3・20

その時、松本駅前でアピールに立っていた。
ニュースをチェックしている友から11:32攻撃が始まったという知らせ。
あふれ出る涙はぬぐわない。
「イラク攻撃はしないで。この子たちを殺さないで。」の11歳の娘が書いたイラクの
少女サファアちゃんの写真のプラカードを力を込めてより高く掲げる。

9.11より3.20はこれから先大きな意味を持つ。
戦争を抑止しようとする国連を無視し、世界中の戦争を止めてくれの声も聞かず、武
力で世界を支配しようとする大きな力が行使された日。

気の重い夜を迎えた翌朝 たまっていた洗濯物を干す。
暖かな光が満ちている。
こんなことを幸せだと思う、ごくふつうのことこそ大切なのだ。
イラクの人々にとっても、アフガンの人々にとっても、パレスチナの人々にとっても。

そして
私たちは伝えることができる。
私たちは歩くことができる。
私たちは唄うことができる。
私たちは踊ることができる。
私たちは分かち合うことができる。
私たちはつながることができる。
私たちは夢見ることができる。
「国家は戦争する権利を持たない」(憲法9条・池澤夏樹訳)という夢が実る日のことを。

 イラク攻撃からほぼ一ヶ月が経とうとしている。その間TVでは、アメリカの侵攻の軍事作戦地図やフセインの銅像を倒して解放を喜ぶイラク市民の映像を流していた。最初の攻撃動機は「テロリスト掃討」次は「大量破壊兵器廃絶」それがいつの間にか「イラクの解放」に変わり、そのシナリオに沿っての映像が私たちの元に送られた。

 メディアを押さえることによっていかに操作しようと、アメリカが劣化ウラン弾、クラスター爆弾、デージーカッターなどの大量破壊兵器を使い、流されなかった映像の影に多くのイラク市民の命と血が流れたという事実は消えはしない。一万発を越えるとされる爆弾によって、5000人以上の人が殺されたといわれる。

 気に入らない政権だからと、武力で倒す事が当たり前な世界にしたくない。

ひとりひとりの、子ども達や大事な人といる喜びやめぐる季節の木々や草花と喜び合う日常を壊す権利など誰にもないはずだ。

4月29日、イラク市民調査団としてイラクを訪れた市川さんからイラクの話を聞く集まりを予定している。(時間・会場は未定なので27−4020までお問合せを)殺す側からではなく、殺される側から見える話を聞きたいと思う。

4月20日は、NO!の声を表す街頭ウォーク・15:00 Mウィング前集合


 

この地球の上で   目をそらさないで(2003年3月)

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 インターネットで取り寄せた森住卓さんの写真集「イラク・湾岸戦争の子どもたち」(高文協)が届いた。ぱっと開いたら突然目の前に現れた無脳症の赤ちゃんの写真。思わず本を閉じてしまったけれど、目を開いて見つめる顔が気になる。覚悟を決めてからもう一度開く。この写真の瞬間から30分後に亡くなったその子は、わずかの短い命の間に確かに何かを訴えようとしていた。

 1991年湾岸戦争においてアメリカ軍はイラクに対して初めて劣化ウラン弾を使用した。劣化ウランとは、原子力発電所や核兵器の材料となるウラン235を取り出した後に残るウラン238のこと。核分裂反応を起こしにくいので利用できずにいたのだが、金属の中で一番比重が重いウラン238をアメリカの軍事産業は砲弾にすることを思いついた。戦車に貫通した劣化ウラン弾の痕は粘土に棒を突き刺したかのようだ。

劣化と呼ばれているが、放射能が劣っているわけではない。それどころか、放射能が半分になるのに(半減期という)45億年もかかるというしろもの。これは地球が誕生して今に至るまでの時間と同じだ。

この劣化ウラン弾によって、イラクの大地にヒロシマに落とされた放射性原子の1万4000倍から3万6000倍の放射性原子がばらまかれたという。劣化ウラン弾は命中すると摩擦熱でエアゾル化し、気流にのって広範囲に広がり汚染する。体内に入ったウランは肺・肝臓・生殖器官等に放射線を浴びせる。傷つけられた遺伝子は何世代にわたって影響を与え続ける。イラクが核兵器を持つ云々という前に、世界で最大の核兵器を持つ国が自分のばらまいた核の責任を取らなくていいのだろうか。

今、イラクでは先天的な障害を持った赤ちゃん、癌、白血病患者が増え続けているという。湾岸戦争以後、白血病・癌が戦前の10倍に上がり、先天的な障害児の出生率が26.9%つまり4人に1人という高い率で生まれている。加えて、化学兵器の材料になるからと医薬品の輸入が制限されているためなすすべもなく死んでいくしかない。水を消毒するための塩素剤も規制されているため、赤痢・コレラ・チフスが発生している。栄養失調の子どもたちは下痢や風邪でさえ死に至る病になってしまうという。

今回アメリカのイラク攻撃が始まったら、5歳以下の乳幼児の死亡は126万人になると国連は算出した。

目をそらさないで!正義を振りかざして人が人を殺している。

今また、万単位で殺されようとしているのに、どうして私たちが黙っていられようか。

森住卓 写真展
イラク・湾岸戦争の子どもたち
Children of tha Gulf War
3月10日〜3月20日(12日は休館日)9:00〜21:00
松本市Mウィング2F展示ギャラリー・無料

主催:松本市中央公民館 0263-32-1132

四季の台所  2月(2003年)

                                                                                     

 暖かい陽射しに誘われて庭に出ると、久しぶりにゆっくりとながめて見た。今年一番の花、マツユキソウの白い小さな花がつつましげに咲いているのを発見!嬉しくて目をこらすと水仙とチューリップの芽も出ている。まだまだ寒い日は来るだろうけど、確実に春が近づいているのを実感した日だった。

 さて、暖かくなると窓を開け放して風を入れたり、体を動かしたくなったりしてくる。大掃除をしようかな。年末の大掃除は、忙しいのをいいことに掃き掃除とワックスがけだけで後は省略してしまった。大掃除は寒いときではなく、気候のよいときにするのがいいと思う。そろそろだ。

 自称エコロジストとしては、世の中にある多種多様な洗剤は一切無視して、ちくまの石けんと酸素系漂白剤とクレンザーだけで掃除をしていたけれど、(木製の食器棚や椅子も石鹸とナイロンタワシできれいになる。)重曹とクエン酸を加える事をもくろんでいるところだった。タイムリーにおやおやでパックスの重曹を扱う事になった。やはりお掃除をしろということなのかとさっそく購入した。

 説明書によるとお鍋の焦げ付きは水を入れた鍋に重曹を大匙2〜3杯いれて煮立たせて放置する。しばらくすると焦げが浮き上がるのでスポンジで洗う・・・これは焦げつかせてから試してみることにしよう。ガスレンジ、洗面台、流し台の汚れ、黒カビには、スポンジやフキンに重曹をつけて磨く。ひどい汚れのときは直接ふりかけ少し置いて磨く・・・さっそく洗面台を磨いてみる。ぴかぴかの洗面台って気持ちがいい!レンジフードの外側は油でべたべた。スポンジに重曹をつけてこれも磨いてみるとこれもなかなかいい。重曹はクレンザーより粒子が細かいので、傷がつかないし、手も荒れない。石鹸で洗った時のように油がベトベトしないのもよかった。時間のある時に今度はレンジフードの本体に挑戦してみよう。ものの本によると、換気扇は@石鹸を液状にしたトロトロ石鹸で汚れを浮き上がらせる、A重曹を油汚れと同量ふりかけ、こすりとる、B最後にクエン酸水で拭き上げる、のだそうだ。

 お掃除は何か作り上げる仕事と違って、毎日毎日してもいつ果てるともわからない仕事でどうも苦手。目に余るようになってから取り掛かるより、今年は小まめにする癖をつけようかな。子ども達にためないで毎日片つけなさいと言っている手前もあることだし。それでまず、お掃除セットをつくった。手提げつきの籠に重曹、使いきりサイズのぼろ布、古歯ブラシ、綿棒を入れたもの。レンジ周りが油で汚れとき、蛇口周りにカビが生えたとき、このセットでサッとひと拭き。さてうまくいきますかどうか。そうそう、重曹はアルミを黒ずませるので、アルミ鍋は避けた方がいいかも。

酢をお掃除に使ったことがあるけど、いつまでも酢のにおいが残ったので、クエン酸を使う事も試してみようと思う。酢を自分で作って惜しみなく使うという人がいたので、痛みかけたりんごをすり下ろして醗酵させ、りんご酢をつくったことがある。でも、あんまり上手に出来たので、ドレッシングにして食べてしまった。

そんなわけで、暖かい日がますます待ちどおしい。


この地球の上で  **チョムスキー**(2003年1月)

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 新しい年が来た。でも心からおめでとう、という気になれないのは新たな戦争の準備が日々進められているからだ。

 この前の1991年の湾岸戦争でイラクでは30万人(うちイラク市民は15万人)が死んだといわれ、19990 年に始まった対イラク経済制裁では、これまでに160万人が死亡したとイラクの国連代表は訴えている。しかしここには、アメリカ軍が使用した劣化ウラン弾の影響によって、先天性の異常を持って生まれてすぐ死んでしまう赤ちゃんや45 億年という半減期(放射能が半分になる期間)を持つ劣化ウラン(放射能が劣るという意味ではなく、人間が核エネルギーを利用できないという意味で劣化と呼ばれるウラン238のこと)によってこれから先、癌や白血病にかかり、経済制裁によって薬不足の中なすすべもなく死んでいく子ども達は数に入っていない。

 自分たちは大量の核・生物兵器・化学兵器を持ちながら、自分たちのいうことをきかない他の国を持っていそうだからと攻撃するのは、なんと一方的な言い分だろう。なんという一方的なやり方なんだろう。アメリカ国内の数百の新聞に配信された時事マンガに「査察団がイラクで何か見つけたら戦争だ!見つからなかったら隠しているに違いないから戦争だ!隠してない、というならウソだから戦争だ!ウソついてないと言うならウソだから戦争だ!・・このように選択の余地はいろいろ残されている。」と大統領が演説しているものがあるというのだから、アメリカ国内でも批判は高まっているのだろう。

 <巨大な軍事力さえあれば世界を支配できる>なんてことがまかり通らないうちに、私たちはまだまだすることがあるように思う。

 マサチューセッツ工科大学言語学教授ノーム・チョムスキー(74歳)は自国のなしていることへ事実に基づいた鋭い発言を続けている。彼の講演会とインタビューを記録した映画が昨年9月9日に出来上がった。知的で穏やかな中に力強さを感じさせられ、74分の話だけという内容に関わらずもっと聞きたいと思ってしまう作品だ。

 同時に12月12日から24日までイラクを訪問した市民による調査団の報告会も企画した。是非今、耳を傾けてください。1月18日Mウィングにて13:00〜アルジャジーラ制作「劣化ウラン弾の嵐」の上映会も行います。


「チョムスキー9・11−Power and Terror」

イラク国際市民調査団によるイラク最新報告会

2月2日(日)なんなん広場(南部公民館)3F

第1回上映 13:00 イラク最新報告会 14:30 第2回上映 15:30

上映協力費 当日1200円 前売・予約1000円 高校生・予備校生500円 中学生以下無料

問合せ・予約 0263-27-4020(村井) 090-8493-7293(山口)

(2003年1月) 

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