Yakkoのページ  この地球の上で&四季の台所 2004年

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この地球の上で(意思表示いろいろ)(2004年12月)

 2001年9月11日の出来事以来、何回街頭ウォークをしてきただろう。

街頭ウォークという言葉について説明すると、前は「デモ」と呼ぶのがふつうだった。今は反戦運動の広がりの中で、全国的に「ピース・ウォーク」という名称でやっているところが多い。松本では、ピース(平和)という言葉が「平和のための戦争」という使われ方をしていることに引っかかりを感じている人もいるので街頭ウォークと称している。

 19世紀にネイティブアメリカンの多くの部族が、土地を奪われ居留地へと追い立てられた時に「何もかも失っても魂だけは奪われないよう祈ろう」と、幌馬車に乗らず、徒歩で行進したという。最近広まったこのウォークの起源はここからかもしれない。ネイティブアメリカンのウォークは祈りを柱にしたものであるけれど、松本の街頭ウォークは参加する個々人が自由な表現を!ということでやってきた。今まで参加してくれた人が持ってきたものを見てみようかしら。

プラカードももちろんあるけれど、○自分で焼いたピースマークのパン○段ボール紙をハトの形に切り取って針金をつけたもの○祈りを込めて作られたパッチワーク○木彫りのピースマーク○NO WARと書かれた傘○大きな地球にPEACEと書いたもの○背中いっぱいの布に非戦のしるしの白いリボン100個くらい○読んでもらいたい新聞の切り抜き○黒地に白字の「反戦」旗○戦争箒(放棄)○岡本太郎書「殺すな」・・などなど。私は布を持っていくことが多い。雨に濡れてもいいし、使い捨てではないし、何より畳めるので持ち運びに便利。だんだん増えてきて@アフガン攻撃の時にいろんな人に書いてもらった一枚一枚の葉っぱを一本のピース・ツリーのキルトにしたものA黄色地の布に「NO WAR」とアップリケしたもの(字のアップリケには自信があります。きれいな作り方教えられますのでご相談くださいな。)Bイラク攻撃の時にイタリアのあらゆる窓に下げられたというレインボーフラッグ(虹の旗)。インターネットで買ったけれど、ポリエステル製なので軽くて棹につけるときれいに旗めいて嬉しい。田中県知事の机の上にミニレインボーフラッグが置いてあって、さりげなくしているNO WARの意思表示を見た。C今回作ったのは生成り布に染色用のクレヨンで「戦争は人を殺して国を守る」と虹の絵。D洋子ちゃんが作ったラスタカラーの「PEACE ON EARTH」旗。

 自分の意思を外に表しながら一緒に歩こうというのが街頭ウォークだけれど、日常的に意思表示をしたいなぁ、と思いついたのがバッチ。服を着替える度に付け替えるのを忘れるので、ボツにしてあったけど私服の高校生時代忘れずに校章バッチをつけていたのはバッチをつけるのが誇らしかったからのような気がする。「憲法9条を大事にする人」「戦争をしない、させない人」「エイズ患者を支援する人」として9条バッチ、南アフリカのエイズ患者さんがビーズで作ったレッドリボン、ホワイトリボンのバッチをつけることって、誇らしいことじゃない?と思ったらバッチをつけるのがおっくうではなくなった。手作りのバッテンバッチをつけている人もちらほら見かけるようになった。これは憲法「改正」は×の意味のバッテンで丸い布にビーズなどで×をアップリケしたもの。

どんな形でも意思表示をする必要があると思うのは、黙っていることはYESと同じだと思うからだ。それと稲角さんのように日常でおかしいと思ったことをその場面場面で声にしていくこともすごく大切なことだよね。

この地球の上で(憲法九条)(2004年11月)

憲法が「改正」されようとしている。2005年秋に草案策定だそうだ。

 国際紛争を解決する手段として国が行う戦争や武力の行使は永久にしない、戦力を持たないと

明記された憲法九条。特にこの九条を変えたいらしい。

 国際紛争が武力で解決しないことは、アメリカのイラク攻撃でも明らかだ。核疑惑はなんとしても攻撃したいための口実に過ぎなかったことは露呈し、イラクに自由と民主主義をもたらすどころか混乱がもたらされただけだ。サダム・フセインが独裁者であろうと他国の政権を武力で倒すこと自体が、そもそも民主主義と呼べるものなのだろうか。

 イラクでは、すでに平和に普通に暮らしたいと願う人に対する「誤爆」も含め13,000人以上の人々が殺された。湾岸戦争からの経済制裁による医薬品不足で子どもたちは死んでいき、劣化ウラン弾の放射能のためにこれからも発生する白血病・癌(まず影響が出るのは子どもたちだ!)によって未来も死に満ちている。ある日突然米軍が家の中に入ってきて連れ去り拷問する。そして、こんな状況をもたらしたアメリカと同盟国に対して、イラクの人々の抵抗も続いている。

 九条をないがしろにして自衛隊も戦時下(非戦闘地域がイラクにあるのでしょうか。軍隊が駐留することが攻撃対象になる。)のイラクに派兵された。サマワの人々に水を供給する「復興・人道支援」の映像は私たちに差し出されるけれど、もう一つの側面、航空自衛隊による物資の輸送等米軍の後方支援についてはほとんど報道されない。こうした既成事実を重ねることで憲法が実情に合わないというのは本末転倒だ。

それにしても日本はすでにアメリカ、ロシアにつぎ世界で第3位(イスラエルが第3位というデータもある)の軍事力を持ってしまい、有事(=戦争)の際の法律を7つも作ってしまった。後は「国際紛争を解決する手段として国が行う戦争や武力の行使は永久にしない、戦力を持たない」と明記された憲法九条を変えればいつでも参戦できるという手筈なのだろう。

 北朝鮮の脅威のために軍備が必要だという人がいる。ちょっと待って。米ソ冷戦の中で「核の抑止力」といいつつ軍備を増強させて、すでに地球を何回も壊滅させるほどの核兵器を人類が持ってしまったことはどう思う?戦争は常に「わが国は脅威にさらされている」と人々の恐怖をあおりたててこなかったか?「テロリストがいる。敵がいる」。イラク戦争を見てみよう。

さて、九条の「改正」に加えて見落としてならないのは、西原博史氏など憲法学者が指摘している次のことだ。憲法とは本来国家権力の担い手に対するルールであって、国民の行動を律するためのルールではない。国家が国民の基本的人権を侵すことのないように文章化したものが憲法であるというのが近代立憲主義だ。しかるに読売新聞2004年試案では「この憲法は日本国の最高法規であり、国民はこれを遵守しなければならない」、あるいは自民党憲法調査会の「憲法という国の基本法が国民の行為規範として機能し国民の精神に与える影響についても考慮にいれながら云々・・」。

憲法「改正」とは、権力をもって戦争への道などに暴走するかもしれない国家を縛るための憲法から国民を縛るための憲法に変えようとする、憲法の本質に関わるだということにも注目していきたい。

 

四季の台所*コーンミール*(2004年10月)

 米、豆、雑穀・・・穀物を育てる人々にとって大切な収穫の秋がきた。かつて畑を借りていた頃、八条もろこしを作ったことがある。甘くて柔らかいスイートコーンなどと違って硬く完熟させて粉にするとうもろこしだ。実が8列につくのでこう呼ばれるのだと思う。うちでは小麦から全粒粉にするのに、業務用電動コーヒーミルを使っているので、まずこれで粉にした。トルティーヤが作りたかった。とうもろこしの原産地、中南米のインディヘナの主食のトルティーヤ。これとやはり原産のフリホール(いんげん豆)とで、いのちをつないできた大切な食べ物。メキシコ料理、タコスの皮といったら、想像しやすいだろうか。

 初めて作るときはいつだってワクワクドキドキする。腕まくりして自家製コーンミールをこねる。丸めて、麺棒で延ばして・・・と、ここで突然挫折。延ばすとポロポロに崩れてしまうのだ。小麦とちがって、とうもろこしはグルテンを含まないから当然といえば当然。前に見たTVのインディヘナはビニールにはさんで延ばしていたので、ビニールを使えばうまくいくかもしれないが、それはなんだか邪道のように思えてしまう。トルティーヤは未練がましくあきらめて、とうもろこし粉はもっぱらコーン・マフィンの材料となった。

 あれから数年、今年6月21日夏至の日にアメリカ先住民、ラコタ族チーフ、アーボル・ルッキングホースの呼びかけで開かれた民族、宗教を超えた大地と平和の祈り、ワールド・ピース&プレイヤー・ディというのに参加した。スタッフとして与えられた仕事はゲスト(マオリ、ポピ、マヤ、ケルト、アイヌ、ハワイ、南アフリカなどからの参加者)の食事作り。キッチンを借りた東京農大のゲストハウスに着くと、なんとまぁ、おやおやに並んでいるカフェ・マヤのすまこさんがグァテマラ産直送のコーンミールでトルティーヤを焼いていた。「ヤッコも作って!」はいはい喜んで作りますとも。グァテマラ産コーンミールは、うちで挽いたコーヒーのような荒挽きの粉ではなく小麦粉のように細かい粉。こねてあった粉をピンポン玉よりやや小さめに丸め、ラップにはさんで底の平らなバットで押しつぶす。すると不思議、きれいに餃子の皮のようになるのだ。「向こうの人もビニールやラップにはさんでのばす」とのこと。(こんなものが無かった時代にはどうしていたのだろう。ナゾだ。)これでホットプレートで焼くこと数百枚。焼いたものは布巾に包んでおく。

 さて、うちに帰っておさらいをしたいのだけれど、もううちにはとうもろこし粉がない。と、先日おやおやにアリサンのコーンミールが入荷した。粉の挽き具合は前のうちの粉に似ている。さっそくとりかかった。水を加えてこねるが崩れる。ラップにはさんでも崩れる。あきらめてアフリカの主食ウガリ(雑穀の粉などを煮て練ったもの。“そばがき”といったら近い。)を作ることにした。少し水を加えて煮始めると粘りが出てくるではないか。そう、グルテンはなくてもでんぷんは火が通ると粘りが出る!これを上記の方法で延ばし、油を引かないフライパンで両面焼くとトルティーヤ、見事に完成!米の粉のように水ではなく熱湯でこねるべきだったのだ。あとはレタス、サルサソース、ひき肉炒め、フリホールのペースト、なんなりと好きなものをのせて食す。

 こうして主食としてとうもろこしを食べることができると、とうもろこしとの付き合い方がまた一つ深まった。それに、これをいのちの糧としてきた人々と少しだけ近づけたような気がして嬉しくもなる。

この地球の上で(日の丸)(2004年8月)

   このまま行けば松本も亜熱帯になってしまうのではと思われた暑い夏も、終わりを告げそうな秋風が吹き込むようになった。やれやれ。

 この原稿を書いている現在、オリンピックがたけなわだ。北島康介選手のゴール後のすがすがしい顔を私は美しいと思った。が、しかし。連日、ニュースにチャンネルを合わせるたびに飛び込んでくる「日の丸」−白地に赤丸ひとつのこれ以上シンプルでわかりやすい旗はないなと思いつつ−の洪水には素直に見てはいられない。さらに新聞に載っていた選手への激励で埋められた日の丸への寄せ書きときては、前にどこかでみたような。

 こんな折、京都精華大学教員の池田浩士さんから、国旗についての話を伺った。その話をここで咀嚼してみたい。
 
 たとえば、この前の戦争で日本と共に戦ったドイツの国旗について。1871年、ドイツ帝国は「黒白赤」の旗を制定。その後ワイマール共和国では「黒赤金−黄色に見えるが金色だそう−」の旗に変え、そして、ナチスドイツでは「黒白赤」を採用。戦争終結後は、侵略とユダヤ人に対する迫害の歴史に対する反省から再び「黒赤金」に変えられた。翻って日本では、どうだろうか。「日の丸」に送られて戦場に向かう人々、「日の丸」に託して戦争を支えた人々、中国大陸で、朝鮮半島で、南太平洋で、「日の丸」の元に殺された人々を抱えたその旗はそのままに、5年前に国旗として制定された。

たとえば、同じ旗の下に何万の人々が殺され、今もなお旧日本軍が残した毒ガス被害が出ている国で、その旗を振ることの意味は。この世界では、あらゆるものが関係性を持ちながら成り立っている以上、その関係性の中で「私」や「それ」がどこに位置するのかという検証を怠ってはならないと思う。そうでなかったら、どこかの首相のように、ワールド・カップにおいてかつての被侵略国から抗議を受けても、「スポーツは楽しくやったほうがいいね。」という発言をすることしかできないのだ。

たとえば、選手を支える事について。1936年のナチスドイツにおけるオリンピックはボランティアによって運営されたという。誰かの役に立ちたいという気持ちが政治に利用される危険をはらんでいること、自発的意志の行動のはずがいつの間にか参加しないものはおかしいという非難にかわること、大義のためには自己を捨てて参加が求められること。前の戦争でもなかっただろうか、こんなことが。「日の丸」の元に国民が一丸となって応援する姿にこんなことを思ってしまうのは、考えすぎだろうか。「今」は「過去」の上にあり、「未来」を孕んでいることを思うと、オリンピックの「日の丸」にこんなことを見てしまう。

この地球の上で(アフガニスタン、明日につなぐアーティストたち)(2004年7月)

今年の夏は、暑い。本格的な梅雨もないままに、真夏に入ったかのような日々が続く。そして、それとは反対に冷めた様な56%という低投票率の参院選が終わった。

選挙といえば、アフガニスタンの大統領選は、当初の6月から延びに延び、10月9日に実施されるという。有権者の登録がなかなか進まないことに加え、反政府勢力と米軍との戦闘や選挙阻止の動きが各地で続いている中での選挙は、11月2日のアメリカ大統領選前にアフガニスタンの「順調な復興」を印象づけることを狙うものとして批判が出ている。はたして、「民主的」な選挙が行われるか気になるところだ。

7月11日からMウィングにて「アフガニスタン、明日につなぐアーティストたち〜ストリート・ワーキング・チルドレンの絵画・工芸展〜」が始まった。

カブール市内に6万人いるといわれている、ストリート・ワーキング・チルドレンは、路上で靴磨き、水運び、燃料になる木や紙屑拾い、空き缶や鉄屑拾い、交通整理、新聞売り、物乞いなどをしてお金を稼いでいる。その子どもたちに読み書き、計算を教えている現地のNGOアシアナは基礎学習の他に、自立して生活するために必要な電気修理、大工仕事、裁縫、木工細工を教え、15歳以上のクラスには絵画などの職業訓練を行っている。タリバン政権下では絵画、特に肖像画を公に描くことはできず、授業の内容が外に漏れないよう細心の注意を払い、女の子は月に一度こっそり画材を受け取り家で隠れて描いていたそうだ。現在子どもたちは自分の好きな題材で自由に絵を描くことができる。そこで生まれた作品が国際交流基金によって日本にやって来た。

彼/彼女らが描いたものは―ラフマットが描いたのは、米に野菜、干ブドウなどを混ぜたアフガニスタンの炊き込みご飯パラウ(ピラフの起源だと思われる)の大皿を囲む「家族の食卓」。フローザンは新聞で見た写真をもとに「イラク女性の顔」を描いた。「当時イラクはまだ戦争中。女性の悲しみにこめられた悲しみが同じ戦争をしてきた私たちにはわかります。」カンダハル郊外の遺跡、金物屋の店先、人々が集うチャイハナ(オープン・カフェといったら近いかな)、笑っている子ども、ブスカシ(馬に乗って得点を競い合うゲーム)、老女・・・

7月17日(土)には、同じくMウィングのホールでセディク・バルマク監督による復興アフガニスタンの第一作「アフガン零年」の上映も企画されている。今、アフガニスタンの人々が自ら語り始めている。

私は、2001年9・11の出来事以前は、アフガニスタンの正確な位置さえも知らなかった。20年にわたる戦禍の中で人々が生きていることにも関心を払わなかった。今、彼/彼女たちの言葉に耳を傾けようと思う。

詳しくはシャマーレ・アフガニスタンのHPかおやおやの置きチラシで。

http://www.janis.or.jp/users/yakkom/index.html

(7月19日12時までやっています。情報が間に合わなかった方、ごめんなさい。)

四季の台所(今年のキッチン・ガーデン)2004年6月

 6月になると、毎年町会でアメリカシロヒトリの防除の農薬散布が行われる。ある時、うっかりしていてその事を忘れ、子どもだけで留守番をさせて出かけると、廻って来たおじさんが「かけておいてあげるからね。」とご親切に散布してくれたことがあった。それからは、実施日に留守をする時にはフェンスに「子どもたちの食べるいちごがなっています。農薬をかけないで下さい。」と張っておくようにしている。

 前の家ではくるみの木に大発生したアメリカシロヒロトリも、幸いここにはいない。しかし、去年、密植してしまったトウモロコシの陰でカレハガがブラックベリーとラズベリーにうじゃうじゃと大発生していることに気がつかず、葉を食い尽くされるという事件があった。(おかげで、今年、ブラックベリーはついに芽吹かなかった。)

カレハガというのは成虫の蛾が褐色で枯葉のように見えることから名付けられ、クヌギカレハ、オビカレハ、タケカレハ、ヨシカレハ、リンゴカレハなど、食草によって、大きさ、模様の違う種類があるらしい。うちにいるのは、ラズベリーカレハと名付けたいところだが、孵化した幼虫が指ぬき状にいたことから、オビカレハと思われる。幼虫、つまり毛虫は黒と橙色。アメリカシロヒトリにかぶれることはなかったが、コイツはかぶれるので要注意!1週間くらい痒い。

 幼虫は集団生活をしているから、まとめて松明で焼こうとしたが、小さな木にダメージを与えそうなので、火バサミで空き缶に落としてティッシュに灯油をしみこませた物を投げ入れ火葬にした。その後はそれぞれ自立して一匹ずつ行動をするので、毎朝見回りをして潰すのが日課になった。火葬も潰すのもけして気持ちのいい仕事ではない。シュッと農薬をかけたらどんなに楽か、と思ってしまう。

 小まめに退治したおかげで、多少喰われた葉もあるが、ラズベリーは2、3日前から赤く色づき始めた。この木は何年か前におやおやに卵を出荷している四賀村の坪田さんからもらったもの。春に新しく芽を出した木には実がならず、2年目から花が咲く。

少ない木だと一回に少量ずつしか収穫ができないので、そのつど冷凍して貯めておき、ある程度の量になったらジャムやシロップを作ることにしている。シロップは子もたちの好きなかき氷のシロップとして重宝するので、今年は実のつくことを期待したい。

毛虫の観察もそれなりにおもしろいものだが、作物もよく見ると新しい発見があっておもしろい。

昨年はトマトのわき芽が容易に活着することがわかったし、昨年の春に植えつけたスープセロリとイタリアンパセリが越冬することがわかって、感動した。

狭い庭ゆえ、同じ場所に続けて作れないトマトを今年はお休みにしようと思っていたら、自発的に芽を出したトマトがいた。隅の一角に引越しをさせて、今年はトマトの後作にルッコラ、ミックスレタス、穂高インゲンを作っている。

畑の生き物同様に、台所の生き物・酵母菌と付きあって、発酵食品を作るのもドキドキ、ハラハラもの。先月、保存しておいたはねだしのりんごというのをたくさんもらったので、アップルビネガーにすることにした。すりおろし、甘味が少なかったので砂糖を足して、酵母菌も少し加え、放置しておく。アルコール発酵と酢酸発酵の末に甘味が消え、酸っぱくなったら漉す。只今は、澱を沈着させて透明になるのを待っているところ。

酒造り、パン作り、麹作り、味噌作り。えさを与えて、気にかけながら酵母菌が育つのを待つ、という仕事は動物を飼うようなものだと誰か書いていたけれど、そのとおりだと思う。

さて、今年もどんな新しいことに出会えるか、楽しみだ。

 

この地球の上で(戦争なんてもうやめて)2004年5月

 先日、1冊の本が手渡された。大月書店・ぼくら地球市民シリーズ1「戦争なんて、もうやめて」いろんな顔の子どもたちが手をつないでいる表紙をめくると、パレスチナの子、イスラエルの子、日本の子、イラクの子、北朝鮮の子たちが握手をしている絵がいっぱいに広がる。

この本は、日本国際ボランティアセンターのスタッフ・佐藤真紀さん発案の、戦禍の中の子供たちに自画像を描いてもらい、それをパソコンに取り込みバーチャルな空間で握手をすることから子どもたちの交流を深めようというすてきなプロジェクトが1冊の絵本になったものだ。

私の娘の絵も掲載されているので親バカながら紹介させてもらうと昨年、一昨年と私たちが上映したパレスチナ映画「夢と恐怖のはざまで」に出てくるマナールちゃん(当時14歳)と長良(当時10歳)が虹の上で握手している絵”Some day, over the rainbow We meet together”には、「マナールさんこんにちは!わたしはパレスチナの風景を写真にとって日本とくらべてみたり、いっしょに写真をとりたいと思うの。パレスチナと日本に虹がかかったらいいな。そしたらいつでもパレスチナに行けるもの」「長良さん本当にあなたに会いたいわ。きっと将来会えるわね。でもこのキャンプでの生活がどうなるか想像がつかない。とってもきびしくて、いっぽうでとってもたいくつなの。わたしたちは小さな手でたたかっているけれど、私たちのハートは大きいのよ!」

マナールはパレスチナ自治区の難民キャンプに住んでいる女の子。イスラエルの占領下で国外に出るどころか道路にチェックポイントがおかれ封鎖される、数時間しか外出する事が許されない外出禁止令が出ると仕事や学校、病院にも行けない、パレスチナ人同士が会うのに国境の鉄条網越し、さらには高さ8mの壁まで建設中、というのがマナールたちの生きている現実の世界。今は仮想空間の虹の上でしか会えないけれど、あきらめずに強く強く願い続けていこう。夢はきっと力になる。

パレスチナ難民キャンプのモータウズくんが描いたのはガンジーの絵。「ぼくの好きな人をかきました。ガンジーはインドの主導者で暴力をつかわないでたたかいました。ぼくも大きくなったらガンジーのようなりっぱな政治家になりたいな。」イスラエルのアモスくんは「イスラエルでは高校を卒業すると軍隊に入らなくてはなりません。でもぼくは罪のないパレスチナの子どもを殺すような軍隊に入りたくはないのです。」

バクダットのスハッドくん(11歳)は「戦争はきらいです。平和だけが好きなのにどうして大人たちは戦争をするのですか。」日本のかんじくん(11歳)はバクダットのレイスくんが書いた戦闘機が爆弾を落とす絵を見て、「もし僕がそこにいたら」と考えてみてイラクのこどもたちが感じる恐怖を思い、「せんそうSTOP やらないでください」と両手をひろげ立ちはだかる絵を描いた。

書店で見かけたらどうぞ手にしてほしい。(児童書の棚にあると思う)小さな子どもたちの大きなメッセージがいっぱいのこの本を。

下の子の美波は、平和のメッセージを書き上げる度にせっせと玄関に壁に貼り付けているにもかかわらず、なかなか人に見てもらえないので一部をここで公開してあげよう。


この地球の上で(勇気ある自衛隊の撤退を!)2004年4月

今井紀明さん高遠菜穂子さん郡山総一郎さんを殺させないで!

勇気ある自衛隊の撤退を求めます!

なによりも人命を優先してください。ここで撤退したからといって、政府関係者のいうようにテロに屈したことにはなりません。人命優先の措置なのですから。人命より優先される、「復興支援」「人道支援」とは何なのでしょう。

なぜこのような事件が起きたのでしょうか。人道支援のための自衛隊派遣だといっていますが、イラクの人々にとっては、自衛隊は占領軍のアメリカの同盟軍としてしか見られていません。真の人道支援というのは、武器を携えた軍隊が行うのもではなく、「国益」を離れ、相手の立場に立って、市民として、人としてかかわらざるを得ない活動をいうのではないでしょうか。人道支援活動というのは、イラクに落とされた劣化ウラン弾の被害に心を痛めている今井さんや子供たちのことを考える高遠さんのような活動をいうのではないでしょうか。

今イラクで緊急に求められているのは、劣化ウラン弾の被害を最小限にするための医療支援や被害の調査、子供たちへのケア等自衛隊である必要のないものだと思います。
一方的にイラクを武力攻撃したアメリカを支持し、今回自衛隊を派兵したやり方が、武器を持たずにイラクの人々と平和を作ろうとする人々を巻き添えにしてしまいました。

自衛隊を撤退して、武力を伴わない「国際貢献」を選んでください。4月10日

                                                                           

 4月8日夜の報道を知らずに9日の朝知った。9日は仕事だったので、気になりつつも何も出来ない。政府は即座に自衛隊撤退はしないと方針指示を出したことを受け、10日の朝寝ぼけた頭を励ましながら、上の文を書く。声を届けようと首相官邸などにFaxするがなかなか入っていかない。Faxが殺到しているのか、受け取りを拒否されているかはわからない。しばらくやって防衛庁だけには送れた。みんなに呼びかけようと、上記の文を表面に裏面に政府各方面への意見の送り先を印刷して、松本城に配りに行った。桜が満開、いいお天気の松本城は人がいっぱい。100枚用意したちらしはすぐになくなったので、北海道の今井君がかかわっているNGO「チェルノブイリのかけはし」が作った署名集めに専念する。太鼓をたたくことで意思表示をしているしんちゃんの音を聞きつけて、高く掲げ続けるIさんのプラカードを見つけて、「3人の命を助けてください」と元気に声をかけるちぃちゃんの声に誘われて、1時間で110人の人が署名をしてくれた。これを確実に届けるために翌日国会前に行って、3人のご家族に渡すことができた。
 これを書いている4月13日現在、事態進展の報道はない。「毅然としてテロに屈せず」自衛隊を撤退させる意思もないどころか、つい最近もファルージャ掃討として女・子どもを含む600人以上も殺害したアメリカに全面的に支援をしてもらうのだという。
 しかし、市民レベルではなんと多くの人が動いていることだろう。写真家広河隆一さんは、イラクの人々に向けて彼らがどういう活動をしているかを知ってほしいとアラビア語の手紙をHPに公開してメールやFaxの送付を呼びかけている。ストリートチルドレンのためのイラク人活動グループはレジスタンスやファルージャ、ラマティ周辺に10000枚の手紙を配る。ピース・ボートはアルジャジーラにビデオを持ち込んで、放送を交渉中だ。あらゆるルートで、NGO,市民、ジャーナリストたちが、非武装の市民が動いていることをアラブ、イラク市民に発信をしている。
 川口外相はイラクの人々に人質の3人をイラクの友人と紹介しながらも、自衛隊は復興に取り組んでいると発言。国会に前で叫んできた。「救出の邪魔をしないでくれ!」

この地球の上で(3月20日−イラク攻撃から1年)2004年3月

あの3月20日から1年が経とうとしている。

 この1年の間に何がなされたか。何が変わったか。

結局大量破壊兵器は見つからず、イラクの占領体制下での混乱はますます深まるばかりだ。建物も生活も破壊され、専制体制下であったとはいえ、そこにあった秩序は失われ、殺された者は二度と帰ってこない。それどころか劣化ウラン弾によって、45億年の半減期を持つウラン238がこれから先半永久的に放射能でイラクを汚染し続ける。占領軍に対して抵抗攻撃がなされ占領軍が民衆デモに向かって発砲するというような事態はまだまだ続くだろう。そしてイラクの復興と統治は攻撃した国々の利権にとって有利になるように進められていく。

 ついに自衛隊も事実上の戦場であるイラクに派兵された。富山大学教員の小倉利丸氏はこれを「戦時体制」と呼ぶ。日本国内が戦場になっていなくても、自国の軍隊が戦争を行う具体的状態にあるから。イラクの人々から見ると、日本は戦争の一方の側に加担する同盟軍の一員でしかない。(インパクションNO.139インパクト出版会)そう、いくら「人道支援」を高らかに掲げてみても、先制攻撃をしかけた国々を支援した日本の武器を携えた軍隊がイラクに行くという事はそういうことでしかないと思う。本当の人道的支援、復興支援というのは、国益を離れたとこにあるべきもの。攻撃に関わった国々が行うものは「賠償」と呼ぶのが正しい言葉の使い方というものだ。

 先制攻撃を禁じた国際法、武力で国際紛争を解決しないと決めた日本国憲法が、なきが如しのように進むイラク戦争において、これらの法の力はどこに行ったのか。いや、小倉氏の指摘のとおり、違憲状態が恒常化している中で、憲法9条の有無に関わらず戦争は人々の基本的人権に反する国家の犯罪であることをはっきり認識しておこう。

 戦争は常に国益のためになされる。それは自国の利益のためであったら、他国の人々の生命、自由、幸福を求める権利は犠牲にしてもよいということだ。それのみならず、有事関連法のように自国民であっても生命、自由、幸福を求める権利は有事には制限される事になる。

 3月20日はイラク占領NO!自衛隊派兵NO!を掲げ、松本駅前に集合して午後1時から1時間半ほど街の中を歩く街頭ウォークを市民有志と計画している。ここで声をあげることは、巨大な軍事力を持つ国(第1位はアメリカ、第2位はロシア、第3位にランキングしているのは平和憲法を持つ日本!)が法を無視し、好き勝手に戦争ができるという暴挙や力の論理によって世界を制することに対してNO!と叫ぶことであり、地球上のあらゆる人々の基本的人権を尊重することだと思っている。

 そして、日本の支持によってなされたイラク戦争に対して、日本の主権を持つ者の一人として、このようにNO!と言うことでこの戦争への責任を持ちたいと思う。

今回の文に大いなる示唆を与えてくれた小倉利丸さんの講演会を4月29日(木)午後2時からMウィング(松本市中央公民館)にて予定しています。

この地球の上で(命日―旅立った日) 2004年2月

  もうすぐ4回目の2月14日が巡ってくる。バレンタインディを命日に選んでいったケン(連れ合い)はさすがだと思う。

 その日、すでに何日か前から手伝いに来ていた彼の妹夫婦、少し前に到着した友人、保育園や学校から帰ってきた子どもたち、九州からかけつけ部屋に入ってきたばかりの両親、彼にとって本当に親しい人々がすべて揃い見守られ中でケンは旅立っていった。殺される、事故にあう、本人の意思に反して延命措置がとられるなどの場合以外、人はこの世に別れを告げる時を選んでいるかもしれないと思った。

 悪性リンパ腫の症状が進み自然療法ではもはや追いつかないと判断して病院で2ヶ月近く、放射線治療と抗がん剤の投与を受けた後、再び自宅に戻った。痛みは病院処方のモルヒネで抑え、生姜シップ、里芋シップ、肝腎脾などをヨモギ・ジャゼツソウの煙と熱で包む活性器、プロポリス、飲尿、玄米食、野口整体の愉気等の手当てを続けていた。

 ある日のこと、ケンの部屋で子どもたちがカレーライスの夕食を取っているところに神宮寺の高橋住職が訪ねてきてくれた。ほとんど話ができなくなっているケンに代わって「ケンちゃんが高橋さんに得度お願いしたいんだって」というと「いいよ、いいよ、ケンちゃんはもう得度してるよ」と高橋さん。そう、毎日ニコニコしているケンは顔も魂も本当にやさしいお地蔵さんのようだと私は思っていた。抗がん剤で髪が抜け始めたのできれいに剃った時から、元気になったら平和を祈って歩きたい、得度は尊敬する高橋さんにやってもらいたいと話していたのだった。「ケンちゃんとヤッコちゃんはソウルメイトだね」という高橋さんの言葉にも嬉しくなる。たぶんケンも。魂の世界での友人をソウルメイトと呼び、この世の人生で重要な役割をしあうということだ。魂の世界はあると思う。

 ケンが話をあまりできなくなってからのある一日、二人でおこたに座っていた。私は心の中で今まで過ごした時のことやありがとうをケンと語り合っていた。静かな時を過した後、「そろそろ上に行こうか」と声をかけて顔と顔を見合わせたその時、今の心の中の会話が成り立っていたことがわかった。それはわかったとか、感じたとしかいいようがないけど。

 魂や神様はあると信じればある、ないと信じる人にとってはないもの。だからこそ、個々人の信教(私にとっては宗教ではなく信仰)の自由は保障されるべきで、戦前の国家神道のように強制されるべきものではけしてない。(2月11日も近くにあるので横道にそれていると思いつつ敢えていいたい)

 1週間前から便秘になっていたケンが13日の夜中、トイレに行くという。2階で寝起きしていたので下のトイレに行くのはたいへんだろうと尿瓶を用意してあったのだが、いつも自力で行っていた。この時も壁をつたいつつたどり着き、久しぶりのお通じがあったのだった。亡くなった後は紙おむつをするのが常であるらしいのだけど、必要ないほどだった。人の手を借りない、自分のすることは自分でする、というケンの生き様を最後まで通したのはご立派、としかいいようがない。すると、やっぱり別れの時も自分で選んだんだ、きっと。

 ネイティブ・アメリカンの詩にこんなのがある。

「今日は死ぬにはもってこいの日だ。生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。すべての声が、わたしの中で合唱している。すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。今日は死ぬにはもってこいの日だ。わたしの土地は、わたしを静かに取り巻いている。わたしの畑は、もう耕されることはない。わたしの家は、笑い声に満ちている。子どもたちは、うちに帰ってきた。そう、今日は死ぬにはもってこいの日だ。」

 今年の2月14日は「Love&Peace」と書いたガトーショコラを焼いてお供えしようと思う。

この地球の上で(新しい年)2004年1月

 新しい年が始まった。

 昨年暮れにイラン大地震で4万人近い死者、年明け早々に憲法をないがしろにする自衛隊のイラク派兵・・・等のニュースが続き、とてもめでたいという気分ではないとか、正月は喪に服します、なんて声も聞かれる。それでも1年というサイクルでこの地球の上で生きている私たち、ここから始まる1年という巡りに向けて今年はよい年でありますように、皆が幸せでありますようにと心新たに始めよう。

 さて、華やかなクリスマス、大掃除、おせちの用意とバタバタと過ぎた年の瀬も一夜明けると静かでのんびりしたお正月。で、あるはずだが、子育て中のお母さん達はそうもしていられない。あと1週間で終わる冬休み。新学期に向けて雑巾3枚を縫い、上履きを洗い、運動着の膝っこぞうの穴にアップリケをつけ、ゴムを換え、もう「おじゃ魔女ドレミちゃん」の座布団はもういやだという子の学校座布団にカバーを作り、小さくなった子供服を友人に宅急便して、うさぎ当番に付き合い、そうだどこにもお出かけしなかったからせめて映画に連れってあげようと「ファインディング・ニモ」を見に行き・・・そうこうしているうちに松の内も明けていく。

 そんな中、おこたに入って、新しい本を紐解くというのはささやかなる楽しみだ。

今年のまず1冊は、1月1日に信毎に紹介されていた大江健三郎の「二百年の子供」。

憲法違反、国連憲章違反の自衛隊のイラク派遣や、「個」をどのように大切にするかが主眼だった教育基本法が国のためになる人間を育てる倫理観中心のものに改正されようとしていることに危惧しているノーベル賞作家は、自立してまっすぐ立っている個人が横に手をつないでいく「新しい人」を書きたかったそうだ。3人きょうだいがシイの大木の中で過去と未来を行ったり来たりするこの物語は大江健三郎初めてのファンタジー。小3の娘も難しそうだけれどおもしろいと読み始めたところだが最後まで読めるかどうか少し心配。彼の敬愛する友人の(私も敬愛している)エドワード・W・サイードのように「明瞭にはっきり表現すること」の重要さを子ども達に伝えること、子どもが本当に物事を理解し考え始めるためには自分の使っている言葉の意味をはっきりと自分のものとして受け止めることだということを、今しっかりと確認していくことは、全体の文脈から切り離して都合のいいように引用した小泉首相の憲法前文の使い方や、政治の中での「正義」「自由」「平和」「テロ」の言葉の使われ方をみているとことさら重要に思える。

 2冊目もファンタジーで、昨年3月の刊行を知らないで今年になって手に入れたアーシェラ・K・ル=グウィン「アースシーの風」。27年前に出された「ゲド戦記」の最後の巻Xだ。少年だったゲドが学院で魔法の勉強をして数々の戦いをしながら成長し、大賢人にまでなっていくお話。しかし彼が戦う相手は、善悪の二元論に分けられた悪ではなく、自分の影であったり、世界の均衡を崩すものであったりする。読者にこびない筆致のゲドの凛とした美しさが好きだ。

 最終巻では、魔法とは何かが語られ、世界の裂け目をふさぐために魔法の力を使い果たしたゲド(もう70歳!)の畑を耕し家畜の世話をしながらもう一つの大切なものを見つけて生きる姿は、若い頃のゲドのように私たちをワクワクさせはしないけど心が温かくしてくれるものだった。

 ファンタジーで明けた2004年。心の翼を拡げながら、さぁ始めよう。
 


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