難民の流入について

南京城内に流入した難民

南京市概略図(図1)



 イメージとしての南京市(南京戦前)です。『南京市政府行政統計報告』(1935年度)の「手書き図」を参考に作成したので、実際の地図とは地形が違います。図表のピンクの部分は便宜上南京城内としていますが、この地域の区画は6区あり一部城外も含まれているので、実際の城壁の形状とは違うようです。7区目が下関で、8区目が揚子江対岸の「浦口」ということになります。

(1)「南京市」と表現した場合には、この図表の範囲(緑色の郷区と浦口も含む)を指すようです。南京城内は6区に分けられ、7区が下関、8区が対岸の浦口です。郷区には「郷」という行政単位が20数個含まれています。  
 南京城自体の面積は約40uで、山手線の内側もしくは、世田谷区の80%ほどの面積に相当するようです。南京市と言った場合は、筆者(グース)の目測によれば、世田谷区(全域)と隣接する、目黒区、渋谷区を含んだ範囲とほぼ一致するようです。
(2)「南京城区」といった場合には、(笠原教授の著作によれば)概ね南京市と同じ範囲を指すようです。
(3)「南京特別市」(南京行政区)になると、近郊6県を含んだ広範囲を指す言葉になり、東京都、埼玉県、神奈川県に匹敵する面積になるようです。詳細は下記「概略図(3)」を参照して下さい。


 





図表の解説

『南京大虐殺の証明』P170 洞富雄著作
 これはおそらく行政区としての南京の人口だろうが、人口密集区は城内と邑江門外(下関)・漢西門外・中華門外等の各小地域であって郷区の人口はいくらもなかった。 『南京市政府行政統計報告』民国二十四年度(同二十六年四月刊)によれば、日中戦争勃発直前の民国二十五年(1936年)6月の調査の南京市の人口は97万3158人であるが、その大半は市街居住者であって、郷区(上新河区・孝陵区・陵園区・燕子磯区)の人口は合わせて14万8577人にすぎない。

 南京市(城内と城外3郷区の合計)の人口97万人中、南京城内と城外の下関地区、揚子江対岸の浦口を含めた人口の合計が約83万ということです。人口が集中していたのは南京城周辺で、城から離れた農村部の人口はいくらもいなかったようです。






『南京虐殺の徹底検証』P48 東中野修道著
 ちなみに南京市は、民国23年(昭和9年)の各省市区分によって、南京城内の8区のほかに、城外の燕子磯区(城北)、孝陵区(城東南)、上新河(城西南)の三つの郷区を併合した。そのため、南京の人口は97万3000人(うち城外の三郷区の人口は約15万人)と膨らんだ。

 南京城内8区というのは行政範囲として考えた場合で、地理上は城外の下関地区や対岸の浦口も含まれているようです。1938年3月(南京陥落後)に行われたスマイス調査では、建物の約20%が城外近郊(城門付近)に存在したということです。城外近郊を除いた三郷区の農村区域の調査は「江寧県」の数字に含まれると考えられます。当HPではこれらの数字を考慮し、概数として「城内約80万」、「城外区・城外郷区約20万」合計約100万人を南京市の戦前人口と仮定して検証を進めていきます。






 この約100万と言われていた南京市の人口は、1937年11月23日の中国側調査によれば「50万人」に減少ということです。人口の分布(城内外の区分)は不明ですが、あまり細かい検証をしても意味がないので、大雑把に11月23日現在『 南京城内に40万、城外に10万 』と考えることにしましょう。これらの住民がどのように脱出したのかは、既に検証しているので、このページでは「難民の流入がどの程度あったのか」について考察してみます。(南京陥落は12月13日)


南京近郊概略図(図2)













焦土戦術により発生した難民
 中国軍の基本戦術の一つに「焦土戦術(焼き払い)」があげられます。国土を焼き払うことにより日本軍の補給ルートを絶ち、さらに建造物等の利用させないという意味合いと、軍事作戦上の問題から砲撃・銃撃の際に死角となる建物を撤去するという目的があったようです。つまり、中国軍は撤退しながら国土を焼き払っていった事になり、その結果住居を失った住民は必然的に難民となったということです。(もちろん焦土戦術を採用する自由は当時国にあるので、違法な行為というわけではありませんが)





焦土作戦(清野作戦)について

『南京事件』P120 笠原十九司著 岩波新書
 「清野作戦」とは、侵攻してくる日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物を全て焼却してしまう、つまり焼野原作戦である。同作戦は、中支那方面軍が「注意事項」を下達したちょうどその日(7日)から始められ、9日までつづけられた。中国軍は南京城壁の周囲1〜2キロにある居住区全域と南京城から半径十六キロ以内にある道路沿いの村落と民家を強制的に焼き払った。この作戦により住む家を焼失させられた多くの農民と市民が、なけなしの家財と道具と食料をもって城内の南京難民区(南京安全区。The Nanking Safety Zone)に殺到する。

 ここで記述された範囲というのは、最上段の図(1)でいう「城外区・郷区」の住民が(全てではないが)かなり含まれているので、これらの住民が難民となり城内に流入したとしても、南京市の人口が増加するわけではありません(人口が移動するだけ)。12月7日以降発生した難民の大部分は、もともと南京市の人口に計上されていた人口で、11月23日の中国側調査の数字、50万人に含まれていると考えられます。
 これらの難民は、徐々に安全区を埋めていった(ラーベ日記の歩き方参照)ということなので、城外から南京城内に避難してきた市民は、何十万という単位ではなく、数万〜10数万という規模だったと考えられます。(安全区の最大収容人数が25万程度なので、これを越える事はありえない)












難民流入に関する資料検証



難民流入に関する外国人記述


『南京事件の日々』 大月書店 ミニーボートリン日記

P18 (笠原教授が日記を要約した部分)
 10月も末になると、上海戦域から鉄道で南京駅に送られてくる負傷兵の数がいよい
よ増えるようになった。戦災で家を失った貧しい難民の群れが、簡単な寝具や生活
用品を背負ったり、食料をありったけ担いだりして、様々ないでたちで南京駅にたどり着
き、下関に作られた難民キャンプに収容された。多い日には1000人を超える難民が避
難してきた。


 解 説
 上海戦域からの難民は、10月末頃にはすでに南京に到着しているようです。つまり、
11月23日の中国側資料における「南京市の人口50万」には、上海方面からの難民
がすでに含まれていると考えてよいでしょう。



ミニーボートリン日記
P33 12月4日
 ユナイテッド・プレス(UP)[ アソシエイティド・プレス(AP)の誤り ]特派員のマクダニエル氏によれば、市の東側では数多くの美しい樹木が、砲撃の邪魔になるという理由で切り倒されてしまったそうだ。東門から湯山に至る間ははどこも無人村になっている。村人全員が立ち退きを強制され、いたるところで軍が防備を固めているのだ。


 解 説
 中国軍の焦土作戦が、南京城周辺だけではなく、主要道路沿いにおいても行われていたという資料になります。



ミニーボートリン日記
P36 12月6日
 UP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容にへ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村人を一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの焦土作戦だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。


 解 説
 中国軍は焼き払う前に住民を避難させていたようです。当該地域の農民たちの大部分は、揚子江を渡るか、難民となって南京城内の安全区に留まるかしたようです。


ミニーボートリン日記
P38 12月7日
 城内にはいろいろな噂が飛び交っている。何千人という人々が南門から安全区に入ってきた。彼らの話によれば、五時までに立ち退くように警察から命令されており、それにしたがわなければ家は焼き払われ、スパイとみなされるというのであった。


 解 説
 これも焦土作戦により発生した難民です。何千人と言う表現からかなりの大規模であったと考えられます。南門付近は南京城攻防戦における激戦地になることが予想された地域で(実際に激戦だったが)、予め中国軍が住民を避難させていたということから、南京陥落時この区域に民間人はほとんど存在しなかったと考えてよいでしょう。


ミニーボートリン日記
P40 12月8日
 フランシス陳さんと楊師傳が校門の前に立って、避難民を世帯ごとにまとめて校内に誘導することになっている。地域住民は寄宿舎に入ってもらい、無錫などの都市からの避難民は中央棟に収容することにしている。地域住民の世帯には隣保館で生活することを許可しており、そこはもうすでにかなりいっぱいになっている。
 きょうは遠くで砲声が聞こえるが、どうやら南の方角からのようだ。日本軍が南京に入るまであとどのくらいかかるのか予想がつかない。中国軍がここに封じ込められるのではないかと心配だ。
 今夜は、初めての避難民を受け入れている。彼女たちが聞かせてくれる話は、なんと心の痛む話だろう。中国軍に自宅から即時立ち退きを命じられ、これに従わなければ、反逆者とみなされて銃殺される。軍の計画を妨害すれば、家が焼き払われる場合もあるそうだ。避難民の多くは南門付近や市の南東部の人たちだ。


 解 説
 金陵女史文理学院の避難民受け入れは、12月8日からということでしょう。「隣保館というのがどういう施設かはいまのところわかりません。文脈から考えると、大学構内ではなく隣接する施設のことだと思われますが確証はありません。


ミニーボートリン日記
P41 12月9日
 今夜は南京市の南西隅の空全体を火炎が照らしている。午後はほとんど、北西以外の全ての方角から濛々と煙が立ち昇っていた。中国軍のねらいは、すべての障害物、たとえば銃撃の邪魔になる物や、日本兵が待ち伏せしたり身を守るのに役立つ物を取り除くことなのだ。AP特派員のマクダニエルは、中国兵が灯油をかけて家に火をつけているところを目撃したと言っている。この二日間に大挙して城内に避難してきたのは、これら焼け出された人たちである。こうした作戦が仮に日本軍の入城を半日か一日遅らせるとしても、人々にこれほどの苦痛を与えてまでもする価値があるのか疑問だ。
                      〜中略〜
 今夜はおそらく300人の避難民がキャンパスにいるものと思う。無錫からやってきた人もいれば、城外からの人、さらには近隣の人もいる。1500人がすでに聖経師資培訓学校[ 聖書講師養成学校 ]に避難している。
 一時のラジオは、南京が攻略されたあとに平和が訪れる兆候について報じていた。わたしは、[ 日本軍から ]どんな要求が出されるものかと心配だ。
 避難民の話は心が痛むものだ。今日、ある女性が、さめざめと泣きながら私のところへやってきた。話を聞くと、用事があって南京にきたのだが、彼女の12歳の娘は城門を通してもらえず、彼女のほうも、城門の外にいる娘のところへ行かせてもらえな、というのだ。娘は戦闘が最も激しく行われている光華門のあたりにいる。


 解 説
≪彼女の12歳の娘は城門を通してもらえず、彼女のほうも、城門の外にいる娘のところへ行かせてもらえない、というのだ。娘は戦闘が最も激しく行われている光華門のあたりにいる。
 ■事情はともかく「城門が閉鎖」され通行ができなかったという事でしょう。
 



 これらの資料から安全区に避難した住民の大部分が、もともと南京市の人口に含まれていた城内市民、城外区・郷区に住む南京市民だったことが分かります。

 1、南京城の城門は12月9日以降は閉鎖されいる。
 2、つまり、12月9日以降、城外からの避難民が大量に流入する事はありえない。
 3、12月9日の段階で「300人収容」であるが、金陵女史文理学院は「最大で1万人程度」の難民を収容した。つまり大部分が、城門が閉鎖された後に安全区に非難してきたことになり、もともと南京城内に住んでいた市民だったいうことになる。

 (『南京事件の日々』P38 ≪後日、実際には六つの建物に1万人以上を収容した≫とボートリンは記している)



 つまり、上海方面から流入した難民は、数十万という数ではなく、多めに見積もっても数万程度と考えられます。











城門閉鎖に関する補足

アメリカ大使館報告(参照)

42D南京の状況1937年12月3日
 すべての城門は土嚢で閉鎖されているが、中山門と長江岸へ通じる邑江門および舞湖に向かう南門(中華門-訳者)の3つは部分的に開いている。 

47D南京の状況1937年12月8日
 邑江門を通って江岸に出て行くのは今も容易であるが、中国人はそこから城内に入ることは許されていない。昨夜警官が、城壁の外側 下関地区の家々を一軒一軒回って、長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。 

出典『南京事件資料集・アメリカ関係資料編』より


『松井岩根大将戦陣日記』
○十二月八日、九日 晴
 両軍の第一線部隊は紫金山を占領し、又雨花台附近を占領し、漸時城郭に迫る。
この日飛行機より余の署名する投降勧告文を城内外に散布し、明十日正午に回答を促す。
第十八師団は蕪湖を占領し国崎支隊は太平を占領す。

 以上のように、城門は日本軍との戦闘に備えて早くから封鎖されていました。12月9日時点で日本軍は南京城1〜2キロの地点まで迫っていますから、万単位の市民が城門を通過できる状況には無かったと考えられます。

 











難民流入に関する外国人記述(2)



『南京の真実』 講談社文庫版 ラーベ日記
P87 12月2日
 アメリカ大使館を介して、我々はつぎのような返信を打った。
     〜略〜
 我々は安全区を組織的に管理しており、すでに難民の流入が始まった事をご報告いたします。しかるべき折、相応の調査をおえた暁には、安全区の設置を中国と日本の両国に公式に通知いたします。


 解 説
 これは、安全区の承認に関する日本側の返答に対して、ラーベが安全区委員会の代表として返信した電文の抜粋です。安全区に難民が流入しているとしていますが、これは安全区を正式に承認しなかった日本側に対する牽制の意味合いでの記述と思われます。
 ちなみに、日本側は安全区承認に関しては以下のように回答しています。(同書P88)。≪日本政府は安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国軍の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責任も負う意思はありません。ただ軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です≫


『南京の真実』 講談社文庫版 ラーベ日記

P92 12月4日
 難民は徐々に安全区に移り始めた。ある地方紙は「外国人」が作った難民区などへ行かないようにと、繰り返し書き立てている。この赤新聞は「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは全中国人民の義務である」などとほざいているのだ。



P98 12月7日
 そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具を抱えて逃げ込んでくる。と言ってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。これから文字通り無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みんな共同宿舎で寝泊りし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。
    〜中略〜
 城門の近くでは家が焼かれており、そこの住民は安全区に逃げるように指示されている。安全区は、ひそかに人の認めるところになっていたのだ。
    〜中略〜

 門の近くにある家は城壁の内側であっても焼き払われると言う噂がひろまり、中華門の近くに住む人たちはパニックに陥っている。何百と言う家族が安全区に押し寄せてはいるが、こんなに暗くてはもう泊まるところが見つからない。



 解 説 
 この時点、12月4日の段階で、南京に流入していた難民がさほど多くなかったことがこの記述から推測されます。仮に数十万単位の難民が南京城内に存在していたとしたならば、難民は安全区に殺到したことでしょう。つまり難民流入が”徐々に”ということは、数十万単位の難民が12月4日の時点では南京城内に存在しなかったということになります。(安全区の収容人数は最大時点で25万人)
 ラーベの記述によると、早期に安全区に入った住民は比較的恵まれた人々ということです。12月7日以降の避難民は、「南京城付近の焼き払い」により発生した者がほとんどであると考えてよいでしょう。



『南京の真実』 講談社文庫版 ラーベ日記
P101 12月8日
 何千人もの難民が四方八方から安全区へ詰めかけ、通りはかつての平和な時よりも活気を帯びている。貧しい人たちが街をさまよう様子を見ていると泣けてくる。まだ泊まるところの見つからない家族が、日が暮れていく中、この寒空に、家の陰や路上で横になっている。我々は全力を挙げて安全区を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしをいれてくる。いまだに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにもみえないのだ。城壁の外側はぐるりと焼き払われ、焼け出された人たちがつぎつぎと送られてくる。

 解 説 
 以上のように、中国側の行った「焦土作戦(焼き払い)」に伴い、周辺部の市民が安全区に流入したということは、もともと南京市民である城外・郷区の住民が南京城内に流入したということですから、南京市の住民総数が増加したということにはならないようです。










結 論

 11月23日の南京市民(城外区・郷区を含む)数は「約50万人」。中国軍による焦土戦術(焼き払い)により発生した難民のほとんどが、この50万人に含まれているようです。(つまり、数十万規模の人口増加は無い)

 これら市民の内で、脱出を希望した者は「約30万人」と推測されます。これら脱出希望者は揚子江を渡河することが可能であり、実際に揚子江で群れをなして船待ちをしていた。脱出希望者のほとんどが渡河できたと考えられます(希望者が渡河できなかったという資料はないようです)。南京市民の脱出について(参照)





 12月13日、南京陥落時点の南京城内の人口は「20万〜25万」と考えられ、陥落後の生存人口が約25万人であるということから、中国側の主張するような20万人規模の市民大量殺戮は、人口関係資料を分析するかぎりはありえないということになります。



何らかの事件が発生していたとしても、それは人口数の増減から判断できるような数万人〜10数万人という大規模な事件ではなかったということになるでしょう。)











虐殺派の主張



南京特別市(行政区)概略図(3)





『南京大虐殺否定論13のウソ』P84 笠原教授の論文

南京の人口は20万だったというウソ
 「南京大虐殺当時の人口は20万人であったから、30万虐殺は虚構」という広く流布されているウソの一例を、藤岡信勝『近現代教育の改革』(前出)から紹介する。
〜中略〜
 南京安全区国際委員会が右の文書で述べているのは、南京大虐殺の被害を免れて南京城内の安全区(難民区)へ避難収容された市民と周辺からの難民総計のことである。これを南京事件前の南京市の人口であるかのごとくいうのはウソである。それに、この否定論には総勢15万人に達した南京防衛軍のことが抜け落ちている。中国の言う「30万人虐殺」には中国軍兵士の犠牲もカウントされているのである。

 

検証(1)
 まず、ここで引用された国際委員会の資料とは通称T-6文書(もしくはZ-9号)なので、関係部分を抜粋引用してみましょう。

第6号文書(Z 9) 
南京国際区安全委員会
寧海路5号 1937年12月17日
南京日本帝国大使館 御中
日本大使館二等書記官福井淳氏の配慮を乞う

言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、〜中略〜もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。 
 市の一般市民の保護にかんして当委員会はなんなりとも貴下に喜んで協力することを確約します。                                    敬具 
                                    委員長ジョン・ラーベ
出典『日中戦争史資料・英文関係資料集』P128『T-6文書全文』はこちら)

 まず、国際委員会は南京城内の市民の”ほとんど全体”を安全区に収容したと考えて、その数が「20万である」としています。この数字は後に陥落時20〜25万人と修正されますが、12月13日陥落時、安全区以外の城内には数千人程度というのが国際委員会の見解です。つまり、陥落時に「南京城内に存在した市民は20万人程度」という資料は確実に存在しているということです。




 東京裁判では南京陥落時の城内人口を「100万住民の半数以下」と認定し、中国側は「40万から50万」と主張していますから、「中国側の主張するような大虐殺」が発生する為には、南京城内に40万以上の住民が存在しなければなりません。

 南京城内の人口が20万〜25万程度で、陥落後の生存人口が人口が25万人以上であるというのが外国人資料です。つまり、外国人資料(国際委員会資料)を分析すれば、中国が主張するような(市民だけで20数万人殺害を含んだ)「軍民30万人大虐殺は虚構」であるという結論になります。



 つまり当時の一次資料を分析した結果、「南京大虐殺当時の人口は20万人(正確には20〜25万人)であり、南京陥落後25万人以上が生存(つまり大規模な人口減少が無い)しているという事から、30万虐殺は虚構」であるという結論を導き出すのは至極まっとうな思考方法といえるでしょう。逆に、人口数に関する明確な資料も提示せずに「ウソ」と断定するのは学術的とは言えないと思われます。







検証(2)
≪この否定論には総勢15万人に達した南京防衛軍のことが抜け落ちている。中国の言う「30万人虐殺」には中国軍兵士の犠牲もカウントされているのである。≫(笠原教授の主張)

 市民人口と防衛軍の規模は別々に検証したほうがよいでしょう。
 もともと中国側の主張は「民間人25万以上、軍人3万以上+α」で30万人以上です。南京防衛軍15万(内8万人が虐殺された)説は、1988年頃に出現したもので、それ以前の資料では「南京防衛軍は陥落時5万人程度」ということで東京裁判でも決着していますし、中国側公式資料集とも言える「証言・南京大虐殺」でも陥落時5万となっています。
 南京防衛軍が存在しなかったとか、便衣兵狩りはなかったとか、捕虜は一人も殺さなかった、といったような中国兵を一人も殺さなかったという主張ををしている研究者はいませんから(国際法の解釈により違法合法の見解が分かれるが)、市民数と防衛軍数は個別に検証して問題ないものと思われます。












『南京大虐殺否定論13のウソ』P84 笠原教授の論文
南京の人口は20万だったというウソ

 南京特別市は南京城区(市部)と広大な近郊区(県部)からなっており、これまでは南京城区の事件のみが問題にされてきた。ここでは南京城区に限定すると、100万人以上あった同区の人口が日本軍の南京攻略直前にどのくらいになったのかを確認できる公的文書には、1937年11月23日に南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡があり、そこにはこう記されている。

≪調査によれば本市[ 南京城区 ]の現在の人口は約五〇余万である。将来は、およそ20万人と予想される難民のため食料送付が必要である。(中国抗日戦争史学会編『南京大屠殺』北京出版社、1997年、512頁)。≫

 1937年11月初旬には、南京防衛軍が「清野作戦」(侵攻してくる日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物をすべて焼却してしまう焼野原作戦)で城壁周辺と街道沿いの村落と焼き払ったため、犠牲になった膨大な農民が難民となって城内に避難したきたし、日本軍の南京進撃に追われた広大な江南地域の都市、県城からの難民も移動してきた。一方では安全と思われる近郊農村へ避難していった市民も少なくなかったから、人口は流動的であったが、他の資料とも照合した結果、南京攻略戦が開始されたときは、南京城区にいた市民、避難民はおよそ40万から50万人であったと推測される。(詳細は拙著『南京事件』岩波新書を参照されたい)。それに日本軍の南京包囲下におかれていた中国軍の戦闘兵、後方兵、雑兵、軍夫など総勢約15万を加えてカウントしておくべきである。

 

検証(3)
 この文章の問題点の一つが、笠原教授が市民数40万〜50万と推測した日時が明確ではないという点です。笠原教授は「南京攻略戦が開始されたとき」としていますが、今ひとつ明快ではありません。読者の中には「南京陥落時に40万〜50万」ということではないかと、勘違いする方もいるでしょう。


 「否定論13のウソ」P93での笠原教授記述は、≪1937年12月4日以降、総勢20万近くの日本軍が波状的に南京戦区に殺到し〜≫とあり、『南京事件』(岩波新書)P215では≪事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した37年12月4日前後から始まる。≫としている。


 笠原教授は「1937年12月4日前後、南京城区(南京市)の人口が40万〜50万」であると、独自に推測した。ということになるようです。(ちなみに南京陥落は12月13日)




 この笠原教授の独自推計が信用できるかどうか、資料を検証して見ましょう。


南京市政府書簡 11月23日
『調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である』
アメリカ大使館報告(参照)

39D南京の状況1937年11月27日
3 市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと。

『南京事件資料集』アメリカ関係資料編P90

 これは両方とも、南京市長が情報源ですから話は簡単です。南京市の人口は11月23日以降減少しているというのが、当時の南京市政府の見解ということになります。11月27日に30万〜40万ですから、一週間後の12月4日にはさらに減少していると考えなければなりません。(笠原教授の推計では増加していることになる)


 上記で外国人資料を検証した結果から、11月末から12月4日にかけて、数十万単位の難民が南京に流入したということはありえないと考えられます。難民の安全区流入は緩やかあり、安全区流入は7日以降急激に増加したということですから、12月4日段階では数十万規模の難民は存在していなかったと考えられます。南京の人口が増加したということは資料からは読み取れません。





結 論
 笠原教授の推計「40〜50万」は、当時の資料と合致しない推測といえます。当時の資料では南京の人口は「増加」ではなく「減少」を示しています。





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