ラーベ日記の歩き方

ラーベ日記の検証

 これから検証する資料は日記ではなく、ラーベがドイツに帰った後にヒットラー宛に提出した「上申書」です。上申書の内容はラーベがドイツで行った講演の原稿を推敲したものです。


 ラーベは中国で30年も過ごしており、当時はジーメンス電機の中国支社長を勤めていました。
 

20世紀欧州大戦P162 読売新聞20世紀取材班

 ミュンヘンのジーメンス本社付属博物館には、ラーベ自身がタイプうちした215ページの手記「中国ジーメンス・コンツェルンでの25年」が残されている。学芸会員は「わが社は武器を製造した事はないはずで、ラーベの記述にも武器関係はない」とする。
 だが米ハーバード大学教授ウイリアム・カービィによると同社もオランダの複数の会社を通じ、中国へ武器を売っていたという成城大学教授・田島信雄は「20年代のラーベは武器貿易にかかわったはず」とみる。


 以上の資料から、ラーベ自身が(時期はともかくとしても)武器売買「死の商人」であった可能性も否定できないようです。




 ラーベにとって中国(蒋介石)は大事なお得意様であるという理由もあったのでしょうか(必ずしも武器売買とは言わないが)、極東におけるドイツのパート−(反共産主義)としては蒋介石を支援するべきであり、日本は相応しくないと考えていたようです。上申書を提出した理由は日本軍の非道をヒットラーに伝えることにより、ドイツの政策を変更させようという意図があったようで、これは『南京の真実』の解説でも触れられています。当時のドイツは、日本とは日独防共協定を結ぶなど同盟関係にありましたが、中国とも友好関係にあり、武器の売却や、軍事顧問団の派遣などを行っていました。
端的に言えばヒットラー宛の上申書は、明確な目的があって作成された文書と考えることができます。ラーベの記述を検証する為には、この点を考慮する必要があるでしょう。






『南京の真実』P341 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」

その2、難民の収容
 その間にも難民は続々と安全区に流れ込んできました。私たちはまず城壁にポスターを張り、安全区の友人の家においてもらうよう、それからじゅうぶんな夜具と食料を持ってくるように指示しました。次に、もっと貧しい人の為に、いまやほうぼうにある空家や入居前の新築の建物を明け渡し、さいごに極貧の人々、いわゆる「老百姓」に、アメリカ伝道団の学校や大学などの大きな建物を開放しました。そのおかげで、恐れていた「ラッシュ」、つまり難民の殺到を避けることが出来たのです。このように、安全区は何日にもわたって少しずつふさがっていったのですが、それでも、一家そろって野宿しなければならなかった難民が後を絶ちませんでした。おいそれとはてごろな宿がみつからなかったのです。私たちは全ての通りに難民誘導係員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはなんと25万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定していた数より、更に5万人も多かったのです。


P344
 こうして安全区を別とすれば、南京市は人気(ひとけ)が無くなり、我々委員会のメンバー、わずかのアメリカ人新聞記者、取り残されたヨーロッパ人が2〜3人いるだけになりました。中国側によれば、まだ中国人が大勢安全区の外に隠れていると言う話でしたが、これは確かめることができませんでした。


P362
 2月1日まで、埋葬すら禁じられていたからです。家の門から遠くないところに、手足を縛られた中国兵の射殺体がありました。それは竹の担架に縛りつけられ、通りに放り出されていました。12月13日から1月末まで、遺体を埋葬するか、どこかへ移す許可をくれるよういくども頼みましたが、だめでした。2月1日に、ようやくなくなりました。
 このような残虐行為についてお話しようと思えば、まだ何時間でも続けられますが、このへんでやめておきます。

 中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとの事ですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。 我々外国人はおよそ五万から六万とみていま。 遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日2百体は 無理だったそうですが、が南京を去った2月22日には三万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます。




○重要な争点の一つがこの部分です。
「中国側の申し立てによりますと、十万人の民間人が殺されたとの事ですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。 我々外国人はおよそ五万から六万とみています」
 文章をそのまま読めば、省略されている主語は「民間人」ということになり我々外国人(複数の外国人)の認識は、市民殺害10万は多いが、5〜6万はありえると予想しているということになります。

 すると、この解釈の場合、下関に放置されている3万の死体の主語も「民間人」ということになります。ラーベの上申書には軍人(もしくは軍民)を表す主語が存在しないので、上申書の記述だけを問題にするならば3万の死体についても「民間人」と読む以外にありません。少なくとも下関に放置された3万の死体にはかなりの民間人が含まれると言う風に解釈せざるえないということになります。
(ヒットラーがこの上申書を読んだとしたも、同様の見解となるでしょう)







◎ところがラーベの日記には「3万の中国兵が下関で殺された」という記述があります。








『南京の真実』P291 ラーベ日記 2月15日

 委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。今まで毎日200人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船が無かったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。


 ちなみに、東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬記録によれば、2月15日の段階で約1万7,000体の埋葬が行われたことになっています。これが正しいとして、ラーベがショックを受けた「下関の3万を加算」しても合計で軍民合算の死体数(推計)4万7000ということになり、市民だけで5〜6万殺害という根拠が怪しくなってきます。ラーベは死体がそんなに無いだろうと思っていたから、「3万」という未埋葬の死体数にショックを受けのですから。




◎どうやら、ラーベ日記には矛盾(もしくはある種の作為・トリック)が内包されていると考えたほうがよいようです。




 下関の死体が3万が軍人だとラーベが認識していた以上、ラーベの記述は「軍民あわせて5〜6万」であり、それが死体数からの推計であると考えたほうが整合性があります。また、市民だけで5〜6万が殺害されたという数字はラーベのいう「我々外国人」は記録していないようです。


ラーベ以外の外国人の記述

「戦争とは何か-日本軍の暴虐」第3章
(ベイツ博士の手紙より)

○「埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が 南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30%はかつて兵隊になっ たことのない人々である」
(日中戦史資料集9 英文資料編P47)
この本は事件後すぐ、1938年6月に出版された。


「アメリカのキリスト者へのベイツの回状」1938/11/29
○南京で殺された民間人の数についての我々の最終的な合計は、 1万2000人です。そのうち9割は当時市内にいて戦闘行為とは 無関係に殺された、多くの婦人や子供、老人が含まれています。 〜6行省略〜武装解除された中国兵捕虜3万人以上が、 無慈悲にも虐殺されました」
(南京事件資料集 アメリカ資料編P337)
概ね南京事件の一年後の記述。

 
「南京地区における戦争被害」
1937年12月―1938年3月

市内および城郭附近の地域における埋葬者の入念な集計によれば、
1万2000人の一般市民が暴行によって死亡した。これらのなかには、 武器をもたないか武装解除された何万人もの中国兵は合まれていない。
(日中戦史資料集9 英文資料編P223)
スマイス博士の調査報告書である。


1938年3月21日、 作成者―南京国際救済委員会
(スマイス)
「内容―現在の状況に関するメモ」
死者の埋葬に従事した諸団体やその他の観察筋の情報を集計すると、 南京城内で1万人が、城外で約3万人が殺害されたと見積もられる。 ただし後者の数は、長江の川岸沿いをあまり遠くに行かない範囲のものである! こうした人々は、全体のおよそ30%が一般市民であると見積もっている。
(ドイツ外交官の見た南京事件 P233)
上記、戦争被害調査とほぼ同時期の文書である。

















軍民5〜6万の死体説の検証

 ラーベの記述が「軍民併せて5〜6万」であれば、上記の見解とほぼ一致することになります。死体の埋葬は2月後半は活発に行われていたので、一日ごとに埋葬数が変化しています。そのため規準にする日(日記の2月15日か、それともラーベが南京を発った2月22日か)によって、誤差が出るのですが、ここでは「上申書の記述から2月22日」を基点に考察してみます。


■2/22日の段階でラーベが知りえた死体の総数
1.「紅卍字会が埋葬を終えた分」
2.「下関にある3万の死体」
3.「その他地区に散乱する死体」
以上の3点が考えられる。

東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬記録
ラーベが南京を発つ2/22までの埋葬数
城内区 2/20までに1428体
城外区 2/21までに25171体(2/21下関での5479体埋葬を含む)

合計すると2万6000体以上になるが、恐らくラーベは詳細な記録 を知らなかったはずなので、大まかに『(埋葬数ではなく)死体の数は2万体程度』と 考えていたと思われる。

(南京特務機関の報告では、2月末現在で埋葬は約5000体ということであるが、死体の存在数が5000以上 と認識されていたのは確実なので、2月末までの死体数認識の根拠として紅卍字会の報告を流用した)

1.「埋葬分(下関以外の死体数)2万以上」
2.「下関の3万」
以上の合計を「5-6万」と表現するのは妥当である。
(紅卍字会、埋葬記録の疑問については別ページで検証)




 

      ↓ 



埋葬は2月1日まで禁止されていたか?


『南京の真実』P291 ラーベ日記 2月15日

 委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。今まで毎日200人も埋葬してきたのに。そのほとんどは下関にある。この数は下関に殺到したものの、船が無かったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅しということを物語っている。




『南京の真実』P362 1938年6月8日付け「ヒットラー宛の上申書」
 2月1日まで、埋葬すら禁じられていたからです。家の門から遠くないところに、手足を縛られた中国兵の射殺体がありました。それは竹の担架に縛りつけられ、通りに放り出されていました。12月13日から1月末まで、遺体を埋葬するか、どこかへ移す許可をくれるよういくども頼みましたが、だめでした。2月1日に、ようやくなくなりました。
 このような残虐行為についてお話しようと思えば、まだ何時間でも続けられますが、このへんでやめておきます。



 ラーベの記述から考えると、2月1日まで全ての埋葬は禁止されていたといううように読めます。これは本当でしょうか?。すでに特務機関資料その他の資料などで、埋葬が1月上旬から始まり紅卍字会が埋葬を行ったことはほぼ確実であると考えられます。つまり、2月1日まで埋葬が許可されなかったと主張しているのは「ラーベだけ」ということになるのです。東京裁判資料には以下の記述がありますが、これも埋葬許可が下りたのは1月13日前後(12/13日陥落の一月後)という意味でしょうから、特務機関資料とは矛盾しません。≪紅卍字会は彼らを埋葬するため埋葬隊を組織することを申し出た。日本側は約一ヶ月後までそれを許さなかった。≫日中戦争史資料集8(東京裁判資料編)P385 。



 つまり、ラーベの記述(2月1日まで埋葬は許可されなかった)は他の資料との整合性がないということになります。








 合理的な解釈の一つとして、ラーベが、紅卍字会の埋葬活動を知らなかったという可能性を考えてみましょう。ラーベの記述は自分が知っている範囲の事柄を記述しているので、知らなかった事は記述できなかった。ラーベは2月1日まで全ての埋葬が禁止されていたと認識していた。こういう考え方も理論上はありえます。しかし、現実にはラーベは国際委員会の委員長ですから紅卍字会の活動について知らなかったという事はありえないと考えられます。

第6号文書(Z 9)  南京国際区安全委員会
寧海路5号 1937年12月17日

 西洋人が乗車していないトラックが路上に出ると、必ず徴発をうけております。火曜日の朝、紅卍字会(当委員会の指示に従って仕事をしている団体)がトラックを出して遺体を収容しようとすると、トラックが奪われたり奪われる寸前の破目になったりしており、昨日は14人の労務者が連行されました。

「日中戦争史資料集9 英文関係資料集」P126


 紅卍字会は国際委員会の管理下にあり、無料食堂や埋葬活動について国際委員会と協力関係にありました。ラーベ日記の記述にある「一日200体埋葬」という具体的な数字は紅卍字会の情報によるものでしょうから、やはりラーベが2月より前の紅卍字会の埋葬活動を知らなかったと考えるのは無理なようです。







外国人資料による2月以前の埋葬

「南京事件の日々」P141 ミニーボートリンの日記 
1月29日 土曜日
 ドイツ大使館のローゼン氏がゴルフ-クラブに行くと言って聞かなかったそうだが、本当かどうかはわからない。
 午後、紅卍字会会長の張南武がわたしに話してくれたところによれば、同会は2000体を埋葬したそうだ。彼に、寺院付近にある焼け焦げの死体を埋葬して欲しいと懇願した。彼らの亡霊がたえずわたしの前にあらわれる。」


 以上のように、1月29日以前の段階ですでに埋葬が始まっていたことが外国人資料に記載されているということから、ラーベがこれらの事実を知らなかったと考えるのはちょっとありえないと思われます。









合理的な解釈
 
 ラーベの記述を読むと、ラーベが埋葬に関して再三言及しているのは、家の前の死体についてのようです。すると可能性としては、「安全区内の埋葬に関係する許可が下りなかった(下りるのが遅れた)」、と考えるのが現状では妥当であると思われます。一応、関連記述を拾ってみました。




『南京の真実』 講談社文庫版 (ラーベの日記)




12月26日 (P167)
 そこいら中に転がっている死体、どうかこれを片付けてくれ!担架にしばりつけられ、銃殺された兵士の死体を10日前に家のごく近くで見た。だが、いまだにそのままだ。だれも死体に近寄ろうとしない。紅卍字会さえ手を出さない。中国兵の死体だからだ。



12月28日 (P172〜175)
宣教師フォスターからジョージ・フィッチにあてた手紙
 ジョージへ!
 鴨羊街17号付近の謝公祠、この大きな寺院の近くに、中国人の死体がおよそ50体ある。中国兵だという疑いで処刑された人たちだ。2週間ほど前から放置されている。もうかなり腐敗が進んでいるので、できるだけ早く埋葬しなければならないと思っている。私のところには、埋葬を引き受けてもよいという人が何人かいるのだが、日本当局からの許可なしでは不安らしい。許可がいるのかなぁ? もしそうなら、許可を取ってもらえないだろうか?
よろしく!

 フィッチにあてたフォスターのこの手紙を見れば、南京の状況は一発でわかる。この50体のほか、委員会本部からそう遠くない沼の中にまだいくつもの死体がある。これまでに我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。 

〜中略〜

 このときとばかり私は福井氏に、12月13日に射殺された中国兵の死体をいいかげんに埋葬するよう、軍部にかけあってくれないかと頼んでみた。福井氏は約束してくれた。





1月7日 (P193)
「市内にはいまだに千ほどの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道端で犬の肉が売られているんですよ。この二十六日間というものずっと、遺体を埋葬させて欲しいと頼んできたがダメでした。」
福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もういちどかけあってみると約束してくれた。 

 




1月12日 (P202)
 南京が日本人の手に渡って今日で一カ月。私の家から約50メートルほどはなれた道路には、竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている。






1月22日 (P225)
 竹の担架にしばりつけられた中国兵の死体については、これまでも幾度か書いてき。12月13日からこのかた、わが家の近くに転がったままだ。死体を葬るか、さもなければ埋葬許可をくれと、日本大使館に抗議もし、請願もしてきたが、糠に釘だった。依然として同じ場所にある。しばっていた縄が切れて、竹の担架が二メートルほど先にころがっただけだ。いったいどうしてこんなことをするのか、理解に苦しむ。




1月26日 (P234)
 中国兵士の死体はいまだに野ざらしになっている。家の近くだからいやでも目に入ってくる。 




1月31日 (P250)
 6週間もの間、わが家の前にうちすてらられていた中国兵の死体が、ようやく埋葬されたと聞いて、胸のつかえがおりた。




 日本軍の後ろ盾で自治委員会が成立したのが、1938年1月1日ですから、紅卍字会が自治員会(特務機関)の元で埋葬を行ったのは、元旦以降ということになります。1937年12月13日(陥落)から年末までの埋葬は、軍の指導による使役(労働者として日本軍が紅卍字会を雇った)でしょうから、日本軍の要求しない地区の埋葬活動はできなかったはずです。自由に埋葬ができないという意味でならば、埋葬許可は下りなかったということができるでしょう。

 『南京特務機関の報告』死体はどれぐらい存在したか?(参照)によれば、紅卍字会の埋葬が始まったのは一月上旬で、紅卍字会の埋葬記録によれば、1938年は1月10日から埋葬が始まっています。上記の日記で言うと、1月7日の時点で一切の埋葬許可が下りていないというのはありえることですが、その状態が2月まで継続したということはないでしょう。1月31日の日記には「家の前の死体が埋葬された」とは書いていますが、許可が下りたという記述はされていないようです。(1月22日の記述は、過去において埋葬許可を申請したという意味でしょう)。これらのことはラーベも知っていたと思われますが、日本軍の残虐度をヒットラーにアピールする為に、家の前の死体がなくなるまで一切の埋葬が許可されなかったという風に「勘違いさせる」文章を書いたと考えられます。











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