南京市民の脱出について

南京市民の脱出ルートの検証
 
 南京市の戦前人口が「約100万人」であることは各種の資料により明らかになっています。異説としてはラーベの上申書にある ≪7月に発った時には南京の人口はおよそ135万人でした。『南京の真実』 文庫版P337というのがありますが、これを証明する資料はないようです。ラーベの言う南京の範囲が、実際の南京市(南京城区)よりも広い範囲を指しているという可能性もありますが、実際のところはわかりません。
 ただし、ラーベの認識は12月17日付け国際委員会公文書第六号(もしくはJ-9号)において明確になっています。陥落時に市民のほとんど全部は安全区に集合していて、その数は20万人というものです。この文書はラーベの名前で提出されているので、陥落時20万人というのが当時のラーベの認識であったことは間違いないでしょう。(後に国際委員会は陥落時20〜25万と見解を修正する)


 
 アメリカ大使館報告においては ≪南京の陥落を前にして、人口のおよそ4/5が市を脱出し主要な部隊は武器、装備もろとも撤退していった。(アメリカ資料編P239)≫とあります。アメリカ大使館報告では陥落前の人口を約100万としていますから、約80万人が脱出したという計算になります。ラーベの日記に記された「80万市民が脱出」という見解は、おそらくアメリカ大使館報告と同じ意味であると考えられます。
 


第6号文書(Z 9)
南京国際区安全委員会
寧海路5号 1937年12月17日 (抜粋)

 言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。〜中略〜もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。 
 市の一般市民の保護にかんして当委員会はなんなりとも貴下に喜んで協力することを確約します。  敬具 
委員長 ジョン・ラーベ

『日中戦争史資料集』9 英文資料編P125




145D 南京アメリカ大使館通信---エスピー報告  1938年Vol.14
1938年1月25日 南京 (抜粋)

1 12月10日後の南京の状況
 南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。 人口のおよそ5分の4が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京の防衛は、わずか5万の兵士に任されていた。

『南京事件資料集』アメリカ関係資料編 P239
















人口変化の検証

 陥落前の段階で南京の人口数が調査された資料としては、南京市の調査報告があります。

南京市政府書簡 11月23日
『調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である』 

出典 中国抗日戦争史学会編『南京大屠殺』
『南京事件』P220より 笠原十九司著 岩波新書


 この書簡は、笠原教授によると≪南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付した書簡≫ということです。つまり11月23日現在南京にいる人口(おそらく軍人は含まれない)は近郊からの難民を含めて50万人ということであり、30万人は脱出の意思があるということでしょう。20万人は資金的な問題やそれ以外の事情により南京に残留するという資料になります。
 すでに南京が遷都されることは決定済みで、南京陥落もほぼ避け難い状況であることは多くの人々が認めるところでした。それでも20万以上の難民が残留するわけですから、彼らの食料を手配する必要があるということです。これは戦闘に備え城門が閉鎖されることで食料の搬入が困難になり、政府機関や数十万単位の市民が南京を去ることにより、食料の流通や販売が停止するという理由からです。南京市長は国際委員会にその権限を引き継いで、金銭や食料を援助しています。ラーベ日記11月29日には≪スマイスから電話。南京市には6万袋、下関には3万4000袋の米があるとの事。おそらくこれで足りるだろう。『南京の真実』P78 講談社文庫という記述があります。





39D南京の状況1937年11月27日
海軍無線 DJ EB
特殊グレイ文(暗号文)並びに平文電報
発信:南京
受信:1937年11月27日 (抜粋)

3 市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと。 

『南京事件資料集』アメリカ関係資料編P90


 アメリカ大使館報告です。





 上で引用した二つの記録は両方とも「南京市政府」(馬市長)の元から出た情報なので、数値を比較することが可能です。

(異なる情報源の場合は比較が難しい場合もある)




 11月23日に50万という人口数が、四日後の11月27日には30万〜40万という見積もりですから、南京市長は人口が減少していたという認識だったことがわかります。逆に言えば、10万単位の難民が流入しているという認識はなかったということでしょう。この時期、各国の大使館員や報道関係者が南京に滞在していますが、10万単位の難民の流入は記録していないので、難民の流入はあったとしても小規模であったと考えられます。





■人口は減少
11月23日50万
11月27日30万〜40万
これが中国側の認識












揚子江という脱出ルート

 では、11月23日以降、南京市民がどのようにして南京から離れて行ったのかというと、これは大部分が揚子江を渡河したものと推測されます。陸路での避難はバス(もしくは徒歩)ということになり、数十万という数にはならないはずです。おそらく、南京市長も揚子江の輸送能力から市民数の減少を推計したのでしょう。南京市は11月下旬以降、博物館にある宝物1万5千箱の輸送を揚子江ルートで行っているので、おおよその輸送能力は把握していたと思われます。

 11月23日「50万」が四日後には「30〜40万」ということですから、計算上一日あたり2.5万〜5.0万人の脱出が可能と、南京市長は予測したことになります。この数字がありえるのかどうか検証してみましょう。








揚子江(長江)輸送力の検証

当時中国軍36師長だった宋希漣の手記
 下関と浦口の間にはもともと2艘の渡し船があった。一回に7〜800人を乗せることができ、一往復するのに約40〜50分かかる。当時午後5時には暗くなり、朝は7時になると明るくなった。したがって夜間のちょうど14時間航行できた。(なぜなら昼間は敵機の活動が頻繁で、あえて航行しなかった)。もし防衛司令長官部の運輸機関がこの2艘の船を確実に掌握していたなら少なくとも3万人は輸送して河を渡らせることができた。しかし彼らは、この2艘の船で漢口に出航してしまったのであった。下関の河辺に残っているのは、数艘の蒸気船(最大のものでも100馬力しかない)と、約2〜300の民船だけだった。

『南京事件資料集』 中国関係資料編P247〜248


 揚子江と対岸をつなぐ船舶は戦争前から2隻あり、この2隻だけで14時間に3万人程度の輸送力があったことが示されています。その他に小規模な船が200〜300は存在したようです。






当時中国軍36師長だった宋希漣の手記 
 私が率いている師団司令部の人員と直属部隊は晩の12時に和記公司付近に到着し、小蒸気船2艘、民船15隻を捜して渡河を開始した。一回目の渡河の後、船を南側に護送させ、つぎつぎと運送させた。しかし下関に集まってきた部隊はみな和記公司付近に殺到し、36師団の部隊はかき乱され、いくつかの船も彼らに奪い取られた。13日の朝8時までに本師団で渡河し浦口に着けたのは約3000人で、まだ渡れないものが半数以上をしめた。

『南京事件資料集』 中国関係資料編P248


 小型の蒸気船と民間船15隻が8時間稼動すると「3000人」の輸送が可能だったということです。これは実数ですから問題ないでしょう。すると、大型の渡し舟2隻で3万人(14時間稼動)、その他の『数隻の小型蒸気船』や『200〜300の民間船』で少なく見積もっても1万人程度輸送できた計算になります。すると長江の輸送力の概算として「一日約4万人」という数字が導き出されます。この数字は11月27日に南京市政府が予想した数字「一日2.5万〜5.0万脱出」とほぼ等しいと考えられます。





■概算として、揚子江の輸送能力は1日4万人程度。








渡河希望者の実態

 一先ず、揚子江(長江)の輸送能力が概算で約4万程度ということはまず間違いないと思われるのですが、実際に渡河希望者が存在したのかどうかということを検証しなければなりませんし、渡河希望者が無事に揚子江を渡れたのかどうかも考慮する必要があるでしょう。
 輸送手段があっても希望者が存在しないという事も考えらえますし、日本軍の急速な進軍によりとか希望者の大半が取り残されたということも理論上はありえるからです。

 



長江で船を待つ避難民の様子

『徐永昌日記』 (関連部分のみ抜粋)
11月20日
 朝、○○から下関(揚子江を渡るときの、南京の波止場)を通る。江岸は人の山で、べて船を待つ民衆である。9時蒋介石を訪ね改めて陳述する。

12月3日
 水道故障。この数日下関(長江対岸に渡る船着場)には渡河を待つ者、常に三万五万、難民、退却軍であふれており、空襲でもあれば、その惨状は想像を絶する。

12月7日
昨日、敵機浦口を空襲、死傷者三百余ときく。下関碼頭一帯、渡河を待つ者、海、山の如く、待つこと三日、まだ渡れぬ者ありという。

『新・南京大虐殺のまぼろし』P219〜239より 鈴木明著



鈴木氏の資料解説
≪当時の南京・国民党の軍最高司令長官ともいうべき立場にいた徐永昌の日記を見るのが適当であると思う。これこそは「回顧」でもなく、「活字化」によって原文が整理されたものでもなく、文字通り「原資料そのまま」だからである。≫

『新・南京大虐殺のまぼろし』P216 


 11月20日の南京遷都宣言(重慶に移転)に伴い、かなりの数の避難民が発生したようです。12月上旬には避難民に加えて、退却軍も揚子江(長江)岸で渡河を計画していたようで、12月7日の段階では3日待ちの状況だったようです。








長江で船を待つ避難民の様子(2)



『アメリカ大使館報告』 から関連記述を抜粋

http://nankinrein.hoops.ne.jp/america.html(詳細はこちら)

12月4日
 長江岸へ通じる邑江門は混雑している。 おそらく今日行われた南京城内に対する爆撃(大使館電報第994号、12月4日午後一時発信を参照)によって流出者はさらに増えることになろう。蒋介石夫妻および市長はまだ南京にいる。 

12月8日
 邑江門を通って江岸に出て行くのは今も容易であるが、中国人はそこから城内に入ることは許されていない。昨夜警官が、城壁の外側 下関地区の家々を一軒一軒回って、長江を渡って浦口へ行くように警告して歩いた。 

12月11日
 今日の午後、パナイ号が移動する前に我々は、警察官が川岸で渡江して避難する準をしているのを見た。その後、数百人の警察官が同じ目的で下関区へなだれ込むのを目撃したから、もはや市内に警察官はいないのではないかと思われる。


 



 以上の資料から、揚子江(長江)で渡河を待つ避難民は数十万単位(揚子江の一日の輸送力を超えて)存在していたことが判明します。これらの避難民のほとんどが渡河したと考えられる理由は、アメリカ大使館報告12月11日の記述にあります。警察官が渡河を企図している描写はありますが、渡河を待つ避難民の記述がないということから、すでに避難民の渡河は終了していたと考えてよいと思われます。



 軍事目的の利用(退却軍の撤退)もあり、また同時に博物館の宝物1万5千箱の輸送もあり、南京市民の避難のほか、近郊農村からの避難民も渡河したと考えられます。これらの数を正確に算定するのは不可能ですが、少なくとも渡河希望者のほとんどが無事揚子江を渡ったことは間違いないようです。



■結 論
 11月23日「50万人」いた南京市民の人口流出は確実であり、南京市の調査によれば30万人が避難を希望していた。渡河希望者はほぼ揚子江を渡ることが可能だった。

 一方で、十万単位の難民が南京に流入したという記録は無いので南京陥落時の人口は20万〜25万と推定するのが妥当である。






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