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登場人物紹介
【三章】

城塞の広間は、炉の煙と灯明の油、馬乳酒と噛み煙草の臭いが充満している。デイ・アナが立ちこめる煙の中を見回すと、部族の主だった男達に囲まれて唾を飛ばして話す父親の隣に目指すロリ・アナは居た。
やはりイルクーツクの機嫌は悪そうで、隣にお気に入りの愛娘が居ても眉間にしわを寄せている。
心配をしてくれた兄弟達に大丈夫だと、請け合って見せたデイ・アナだが真実はまるで反対の所にあった。

デイ・アナにとって父イルクーツクは、物心の付く前から恐ろしい存在であった。子供の目に怖く映る顔よりも吼えるような物言いよりも、イルクーツクの有り様そのものが恐怖の対象だった。
この世に生まれ落ちたその時からデイ・アナにとって世界は優しく厳しいものでは在ったが、デイ・アナを迎える声は喜びに満ちていた。風の巫女であった母アナ・イーの才能を全て引き継いで生まれたデイ・アナは自分に降り注がれる言葉の意味は理解できなくとも、その声から伝わる心は理解できていた。
 しかし、実の父だけが違っていた。イルクーツクはこの世の中のどんな生き物とも違う、異様な心の持ち主だったが為に、その心の持つおぞましさは生まれたての赤子には耐えられるような物ではない。成長する に従い、周りの極普通の人とイルクーツクの違いが理解できるようになり、それは更なる恐怖を生んだ。人に限らず全ての生き物はその内に虚ろな空洞を持つ、故にその空洞を埋めるべく勤めようとする。
風の巫女が奉じる精霊王は、かつて幼い娘にそうさとした。世界は一度砕け、それを接ぎ合わせたに外ならぬからだと云われ、持たざる者は神と精霊と妖魔のみだと教えられた。
神と精霊と妖魔、生き物ではなく圧倒的な存在と等しく空洞のない父。イルクーツクは空洞を持たないのではなく、その中に得体の知れない物を詰め込んでいた。
デイ・アナはその詰め込まれた物の正体が、怨嗟、恩讐、憎悪であると知ったとき、既にオータンは草原の外に向かって侵略戦争を仕掛けていた。
精霊王が厳しい貌で、いずれは手を打たねばならぬと告げたときデイ・アナは父の行く末が何処にあるのか見えたような気がした。
精霊王の視線は幼い娘に決意を促していた。
災い来る時、何を為すべきか。
いずれイルクーツクの身を食い破りまき散らされる憎悪が草原を汚さぬようくい止めるには、イルクーツクに率いられる草原の男達を救うには何が必要なのか。
幼いデイ・アナにとって酷い要求だったかもしれないが、精霊王の眼差しは全てを飲み込み,ただ小さな巫女を見つめ続けた。
神々は眠りついて久しい、精霊も妖魔も人との関わりを薄くしている。この世が人の手に渡されようとしている時、新たな魔が存在しようとしている。新たな魔は眠り付いた神々を呼び起こすかもしれない、神々が目覚めるときは世界そのものが終わりを告げるときでもある。
デイ・アナはこの世の理を知る巫女として、神々の定めた理を父イルクーツク一人の為に覆すことなど、とうてい選べるものではなかった。
あらゆる神々が世界を守るべくして創った天理、その中で多くの生き物の生死がある。イルクーツクの憎悪がその理を揺るがそうとするならば、デイ・アナの選ぶものは一つしかない。
その時、生涯風と草原の巫女であることを選んでいた。

恐怖を心の底に沈めて、デイ・アナはイルクーツクとロリ・アナの側へ近づいていった。
イルクーツクの周りには、親族の叔父達と各部族の族長、その間に埋もれたようにロリ・アナが笑顔を振りまき相づちを打っている様子が見える。
南西諸国連合に対する罵詈雑言の嵐の中、デイ・アナは静かにロリ・アナに近づくと袖をとらえて注意を引いた。
「何?」
振り向いた笑顔は相手が妹だと解ると、とたんに消えた。
「どうしたのよ。何か用」
妹如きに振りまく愛想は持ち合わせが無いとばかりに、突っ慳貪なロリ・アナに怯むことなくデイ・アナは話を切り出した。
「話があるから来たのよ、外に出て姉上」
「話ね、明日の朝じゃ駄目なの」
「明日では間に合わないかもしれないから、とにかく外で」
話を逸らそうとするロリ・アナの手をしっかり捕らえ、デイ・アナは立ち上がるように促すが、楽しみの時間をじゃまされた姉の方もそう簡単に動こうとはしなかった。
「話があるならここで聞くわよ、いったい何なの。離してよ」
「姉上」
デイ・アナの手を力ずくでもぎ離すと
「別に話なら何処でだって出来るでしょ、さっさと話なさいよ。もったいぶらないで」
いつものことではあるが、デイ・アナはため息が出るのを止められなかった。部族中が集う場所で身内の恥にしかならない話をしろと言い切る姉が、いっそ羨ましいというものだ。
「姉上、本当にここで話しても良いのか?」
「だから話せばいいじゃない、聞くぐらい聞いてあげるわよ」
「なら話すけど、姉上は自分の家畜の数が解ってるの」
「300と61よ」
ロリ・アナは即答したが、デイ・アナは呆れるしかない。
「姉上、私が今日集めてきた羊はもっといた。おまけに、姉上が言った場所にもいなかったし、群からはぐれた数も解らない」
「何の事よ、全部集めてこなかったの」
むっとした顔で聞き返す姉に
「集めるも何も、羊の数は377頭。印無しが17、死骸が3、はぐれてるだろう子羊が12,3いるはず。どうして、秋仔がいるって言ってくれなかったの」
ロリ・アナは何を言われたのかまるで解らないと言う顔で、デイ・アナを見つめていた。
「姉上、この夏の間いったい何をしていたの。あなたの家畜は400を越えている、印無しの子羊が30以上いるのはどうして」
「そんな事知らないわよ」
「知らないでは済まない、姉上の家畜でしょ」
ロリ・アナの頭の中で、これは流石に拙いのではと思い誰かに助けを求めようとしたが、デイ・アナはすかさずたたみかけた。
「餌はどうするの。冬の間400もの羊に食べさせる餌は何処にあるの」
「その辺の草を食べればいいじゃない」
苦し紛れの言い訳を許さずに
「もうすぐ雪が降る。雪の間飢えさせるつもり?この砦にだって余分な蓄えはないの」
「だったら、絞めればいいじゃない」
「姉上!」
デイ・アナの声は広間に響き渡った。父や叔父が、成人した兄たちが、そして広間中の者達の視線がデイ・アナとロリ・アナのの上に集まっていた。
不機嫌も顕わなひび割れた声で、イルクーツクは
「ここで何をしている。お前なぞ呼んだ覚えはないぞ」
デイ・アナを睨みながら言う。睨まれたデイ・アナは服の下で小刻みに震える体を押さえながら、それでも父親の顔を見据えて答えた。
「私も呼ばれた覚えはありませんが、姉上に話がありましたので。すぐに済む話でもありません、姉上を連れて行ってもよろしいですか」
広間にいた全ての者達が固唾をのんで見守っていた。草原の覇者イルクーツクに向かってここまではっきりと話す者は殆ど居ない、ましてやそれが年端もいかぬ少女であれば尚のことである。例え身内であれ、イルクーツクは容赦をする男ではないし、ロリ・アナを除けば血を分けた子供達であろうとそれは変わらない。
息の詰まるような空気の中でデイ・アナは静かに佇みイルクーツクの返事を待った。心の中でどれ程恐怖に苛まれていようと、表情には何一つ顕わそうとはしない。
イルクーツクにしても、己をじっと見る娘の目に奇妙な気後れを感じていたとはおくびにも出さず、一言で命じた。
「話せ」

時同じくして、ラフリエルとオルバリスの国境にあるレーベン村の村長の家では西南諸国連合の国主達が苦渋の決断を迫られていた。
オー・タンとの戦は取り合えず集結した、しかしそれで全てが終わったわけでもない。戦いの後始末の方が遙かに根気のいる仕事であると、集まった男達は充分に理解していた。
軍馬の蹄に踏み荒らされた国土、葬られる事なのい屍。何より冬の到来は全く収穫の無かった国々にとって飢饉の発生を示唆している。
オー・タンは領地を奪うわけではなく、そこにある命をねこぞぎ奪っていった。田畑は荒れ果て、男達が殺され蓄えは全て持ち去られた。
そして、西南諸国連合の国主達が最も恐れた現実が広がり始めていた。ラフリエルの東の地ラグナンとオルバリスの北カーマンにおいて疫病が発生した。
エーナ川を挟んでどちらも豊かな穀倉地帯であったが今は見る影もない。特に内海に面するオルバリスにとっては唯一の食料庫が壊滅的な打撃を受けている。
既にオー・タンによって滅ぼされた、ザルケスタ王国と自由貿易都市ユリスカ等の難民達がラフリエルとオルバリスに流入してることを考えても、この冬の食糧不足は深刻な問題であった。
そして伝染性を持った疫病の発生は、火を持って焼き払うことでしかその広がりをくい止めることが出来ないとあって、南西諸国連合の国主達の心胆寒かしめる驚異であった。
さほどの被害を受けていないカザリエフ公国のマーカス公、ローンライド王国のザウタミル王、そして自由都市同盟評議長チャクン・タリ並びにサマラート将軍は、最も被害を受けたオルバリス王国王太子ルドルフォ・バレンとラフリエル国王レジナルドらへ、掛ける言葉を見つけ出せずにいた。
亡国の王子ザルケスタのバトワや、本ユリスカ市長クワラトにしてもも、これから更に迷惑を掛けるとあっては慰めるどころか己達の不甲斐なさを責めるしかない。
田舎屋の土間で粗末なテ−ブルを囲んで、八人の男達はそれぞれが苦い思いを噛み締めていた。
躊躇っている時間はない、ラグナンもカーマンも大陸を縦断する街道が貫いている。対応が遅れれば遅れるほど疫病は広範囲に広がる。
「仕方あるまい。恨まれるのも王族の勤めだ」
赤銅色の肌と黒い瞳のルドルフォは、さらりと決断を口にしてレジナルドを伺った。栗色の髪を掻き上げ、ため息を吐き出して翠の瞳が視線を返す。レジナルドは強く頷いて
「焼き払おう」
ラフリエルの若き王と、オルバリスの王太子は決断を下した。
「出来うる限りのご協力を致しましょう、同盟中から救援物資をかき集めます」
辛い決断を下した2人に、チャクン・タリはすかさず協力を申し出た。自らの国土を焼き払うと言った若き統治者達に出来る限りのことがしてやりたかった。
「どうせなら、儂の穀物庫からも持っていけ」
自国で疫病の蔓延をくい止めようとの決断にマーカスも助力を惜しむつもりはない。
「薬師と医師を派遣しましょう、材料込みで」
ザウタミルは自国の特産物を技術者共々差し出すことに、躊躇はなかった。大陸中で最高の医療技術を持つ自負もある。
バトワはその大きな体を縮めながら
「俺には何も出来ぬ、体を使うことしか出来ぬが。出来ることがあるならどんな事でもして見せよう」
バトワの言葉には、言外に火を放つ役を振れと言う響きがあったが
「あなたにしか出来ぬ事がある。あなたの民の心を救うという勤めがある」
レジナルドは首を横に振りバトワを諫めた。故国を失った難民達の窮状を更に悪化させることがあってはなら無いとレジナルドは思った。
「そう、恨まれるのは俺達の仕事だ。難民達の仕事じゃない。お前が生きていると言うだけで、望みがあるというものだろう、故国復興の夢ぐらい景気良く見せてやれ」
ルドルフォの言葉はもっと直截である。クワラトは立ち上がりバトワの肩をたたいて
「バトワ王子、今はお二人の好意に甘えさせていただきましょう。我々は一刻も早く皆が帰れるようにすることです。その方が、ラフリエルとオルバリスのためになります」
「評議長、我らは一足先にユリスカ市とザルケスタに赴き警邏を実施しましょう。ついでに大掃除でもしておけば完璧ですかね?」
暗く沈み掛けた空気を、生真面目な顔で冗談めかしてサマラートがかき混ぜる。
勿論チャクン・タリはそれを受け損ねたりはせず
「となると、特別手当の予算をひねり出さなくてならんな。こまった、割賦払いでも良いか将軍。来年の暮れまでには何とかするが」
「来年でも、再来年でもかまいませんが、一筆書いておいてください」
口で言うほど困ってるわけでもないチャクン・タリに、サマラートは済まして答える。皆の顔にほのかな笑みのぼり、小さく笑い声がこぼれた。
方針は定まり、次は行動に移すだけとなった。苦くとも辛くとも、国を治めてゆくには、困難を忌避するよりも立ち向かわなければならないと知る男達は、それぞれの責任を果たすためにレーベン村の田舎屋を後にした。

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