筑後川沿いの国道386号、通称日田街道の志波(朝倉市杷木志波)あたりに、「龍光寺円清寺」なる古刹が建っている。志波といえば全国的に有名な富有柿の産地である。
このお寺、1604年(慶長9年)に亡くなった福岡藩祖の黒田如水を供養するために建てられたものだとか。黒田如水といえば、初代藩主黒田長政の父であり、豊臣秀吉や徳川家康に仕えた軍略家としても有名な人物。寺の山号も、如水の法名を引用して「龍光山」とある。
円清寺
本堂に入って先ず目に入るのが、ご本尊の観音坐像。仏像光背(仏像の背面にある、光明にかたどった円形の装飾)の左右には、濃紺を基調とする鴛鴦の番が配されている。そのわけは・・・。
軸に描かれたおしどりは
時は戦国時代も終焉を迎えようとする頃、志波の里の粗末な庵から、読経の声が聞こえてくる。庵の主は無方と名乗る僧で、年齢の頃なら50(歳)に手が届きそう。寺の名前は、金鳥山紫雲庵。
「和尚さん、どうして人も寄りつかねえこんな場所に庵を結びなさったかね?」
お勤めがすんで一服しているところに、飯炊きなど手伝っているおよし婆さんが尋ねた。
「お釈迦さまのお導きじゃよ。わしが国東(大分県の国東半島)での修行を終えて、筑後川を下ってきた時にな、高山の上に紫雲が棚引いたんじゃ。だからここに…」
婆さんは、この機会に無方坊のいろいろを訊きたくなった。
「和尚さんは、お顔からして、ただのお坊さまじゃなさそうだし…」
「お前にもそう見ゆるかの。実は…」
立ち上がった無方坊が、奥から一幅の軸を持ち出してきた。広げると、色鮮やかに2羽の鴛鴦が描かれている。
「関係あるのかね、和尚さんとこの絵の鳥が」
「大有りだ。丹精込めて描きあげたこの番の鴛鴦があって、いまのわしがあるのじゃからの」
番いに嫉妬して…
無方坊の若い頃の名前は三原弾正貞吉といい、筑後国本郷(現小郡市)の城主であった。写真は、番の鴛鴦(福岡動物園)。手前が雌で向こう側が雄鳥
おしどりの夫婦
それはある年の春先であった。弾正は行列を率いて豊後街道(国道210号)を東に向かっていた。主である豊後の大友宗麟に従順を誓うための参勤であった。筑後川沿いに志波の里を通り過ぎ、高山の麓の二軒茶屋そばの大池に目をやった弾正、しばし水面の鴛鴦の番に魅入った。
大名の身であっても、心温まる家族には縁がない弾正であった。身を寄せ合って離れようとしない鴛鴦の夫婦仲が羨ましかった。そこで側近の川端栗之助に言いつけて弓を取り、鴛鴦めがけて矢を放った。見事命中して、鳥はそのまま水中へ。難を逃れたもう1羽も、追いかけるようにして消えた。
夫婦愛は人より強し
それから10日たって、帰途についた三原弾正の一行が再び二軒茶屋の大池のほとりにさしかかった。池の中央に、今度は雌の鴛鴦が1羽だけ浮いている。その鳥は、弾正を怨めしそうに睨んでいる。
「弓を持て」
気が進まない振りの川端栗之助から奪い取った弓で、今度も見事に命中させた。首を射抜かれた雌鳥は、水に潜ることなく息耐えた。家来に命じて死骸を引き揚げさせた弾正が、尻餅をつかんばかりに驚いた。
いま殺された雌鳥の羽の下に、雄の亡骸を抱いているからだ。
「気分が悪うなった。少し森の中を歩いてくるゆえ、先に本郷へ帰れ」と、栗之助に言いつけて、弾正は勝手に行列から離脱した。
そして、今来た道を再び豊後へ。府内にて宗麟に願い出て、磨崖仏と寺が連なる一角の海蔵寺に入門を許された。
「わかるじゃろう、婆さん。自分の不甲斐なさを棚に上げて、鴛鴦の夫婦に嫉妬し、殺めてしまったのじゃ。夫を殺された妻が、遺骸を抱いて偲んでいるそこにまた、矢を射てしまったわしの罪深さは計り知れたものではない。犯してしまった罪を償うためには、仏にすがるしかなかったんじゃ」
無方坊の目が真っ赤に腫れあがっているのを、およし婆さんは見逃さなかった。
薬師如来に添えて
およし婆さんに示した鴛鴦の掛軸は、無方坊が修行の間に描きあげたものである。
その後、坊は筑前から筑後にかけて托鉢
円清寺境内の栗山備後の墓
を繰り返し、集まった浄財を都に運んだ。仏像を刻んでもらうためであった。出来上がった薬師如来像の光背には、自分が描いた鴛鴦を左右に配してもらった。
その後、この如来像を金鳥山紫雲庵の本尊としてお祀りしたのだった。
だが時の流れは如何ともし難く、無方坊の死去とともに寺は滅び、如来像も辛うじて村人の手で守られていた。
戦国の世も終わり、徳川家康が天下を掌握し、黒田長政が筑前福岡の城主に就いた。麻底良城主(杷木町)の栗山備後守は、黒田如水の霊を慰めるために円清寺を築いたのだが、その時本尊に祀ったのが、現在の「鴛鴦観世音菩薩」だそうな。(完)
鴛鴦観音像が祭られる円清寺を訪ねたとき、寺の周囲は富有柿の収獲時期であった。黒田騒動の「大膳崩れ」を取材して以来の訪問である。
この物語には、戦国時代の小大名の悲哀がよく表れている。家来と領民を生かすためには、例え卑怯者と罵られても、強いものの輩下で生き抜くより仕方がなかったのだ。三原弾正の手にかかった鴛鴦夫婦の悲劇は、そのような自分の生き様を象徴したかったのかもしれない。
今も変わらぬ筑紫次郎(筑後川)の目は、そのような男たちや、陰で泣きながら耐えた女たちの歴史をしっかりと見届けてきたに違いない。
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