伝説紀行 大膳崩れ 朝倉市(原鶴)
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
大膳崩れ 福岡県朝倉市(杷木志波) 【関係資料】 2017年7月5日、朝倉地方を襲った豪雨は北方の山肌を削り取り、おびただしい土砂と流木が川下の民家や田畑を呑みこんだ。線条降水帯と呼ばれる気象現象で、被害のほとんどが大河(筑後川)を挟んだ右岸で大暴れしている。今回の物語「大膳崩れ」(だいぜんくずれ)が、筑前だけに限られた嵐と、どこか似通った天災であった。
朝倉市杷木志波(はきしわ)の北方に、標高300メートル足らずの麻底良山(まてらやま)が居座っている。山頂には痲底良城(まてらじょう)が築かれ、福岡城の支城となった。お城の主に座ったのが栗山大膳(くりやまだいぜん)で、上座郡(かみざぐん=朝倉)一帯を任されていた。 大池の巨大亀 大膳がは麻底良山の麓の屋敷で寛いでいる時のことだった。村の顔役数人がやって来て、「自分たちの手に負えないことなので、ぜひ殿さまのお助けを」と嘆願した。 黒田騒動の中で 大膳は、初代藩主の黒田長政から、跡目を継ぐ長男(継室の子)忠之の後見役を命じられていた。だが肝心の忠之は、家臣や町民に難題を押し付けたりして、いたって評判が悪い。それに行動も粗暴であり、大膳にとって頭痛の種だった。長政公が江戸に赴いたときは、心の安らぎを求めて志波の里に足を運ぶことが多かった。そんな折の大亀出現である。写真は、亀の甲羅干し 村の守り神というが 「お殿さま、言いにくいことですが」 甲羅干し中をズドーン 大池に着くと、大膳は楠の大木に隠れて水面を見渡した。池の中央に浮かぶ岩の上に、何やら黒い大きな物体がしがみついている。それは牛ほどもある大きな亀であった。気持ちよく甲羅干しをしていた亀が、人の気配を感じてむっくと起き上り、長い首を突き出して大膳を睨みつけた。関ヶ原での戦い以来、立ち回りから遠ざかっている大膳の戦闘本能が頭をもたげた。 向こう岸だけが嵐に 丁度その時刻、筑後川を渡る船頭が仰天した。あっという間に空一面を黒雲が覆い、稲光が幾筋も走ったからだ。渡し舟は大揺れし、今にも転覆しそう。降り出した雨が川面に突き刺さった。急ぎ筑後の小江(おえ)岸に舟をつけたが、こちらでは一滴の雨も降らないで地面は乾ききっている。改めて川向こうを眺めた船頭、あの香山がまったく見えないほどに豪雨が引き続いていた。そして、鼓膜が破けそうな音響とともに地面がグラグラ揺れた。
しばらくたって船頭は、改めて香山に目をやった。姿形のよかった山の東半分が崩れ落ち、無惨なまでに赤い山肌を晒している。筑前でいったい何が起こったのか、船頭は首をすくめるばかりだった。写真は左斜面が崩れた高山(香山) 天災か祟りか? 急ぎ屋敷に戻った大膳、そのまま布団に潜り込んだが、なかなか震えが止まらない。やっと小降りになったところで例の顔役が駆け込んできた。 事件その後 世に有名な黒田騒動は、大膳が大亀を撃ち殺してから間のない元和元(1615)年に起こっている。豊臣家が滅亡した「大阪夏の陣」の直後のことである。(完) 黒田藩の支城があった麻底良山は、志波地区の柿畑から見上げたところにあった。そこから約2キロ南に高山(190b・物語では香山)があり、大きな昇竜観音像が筑後川を見下ろしている。大膳の名前をとった楠の大木の下に今は池はない。だが土地の高低を観察し、近くの筑後川と合わせて見渡すと、そこに大きな湿地帯が存在したことも納得できる。(円清寺境内の大膳追慕碑) 黒田騒動 九州北部豪雨2017 |