伝説紀行 大膳崩れ 朝倉市(原鶴)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第082話 2002年10月20日版
再編:2017年08月28日
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

大膳崩れ

福岡県朝倉市(杷木志波)

【関係資料】


香山ふもとの大膳楠と旧日田街道

 2017年7月5日、朝倉地方を襲った豪雨は北方の山肌を削り取り、おびただしい土砂と流木が川下の民家や田畑を呑みこんだ。線条降水帯と呼ばれる気象現象で、被害のほとんどが大河(筑後川)を挟んだ右岸で大暴れしている。今回の物語「大膳崩れ」(だいぜんくずれ)が、筑前だけに限られた嵐と、どこか似通った天災であった。
 時は、初代福岡藩主・黒田長政の長男忠之が、跡目を継ぐ江戸時代初期の話。


麻底良山

 朝倉市杷木志波(はきしわ)の北方に、標高300メートル足らずの麻底良山(まてらやま)が居座っている。山頂には痲底良城(まてらじょう)が築かれ、福岡城の支城となった。お城の主に座ったのが栗山大膳(くりやまだいぜん)で、上座郡(かみざぐん=朝倉)一帯を任されていた。

大池の巨大亀

 大膳がは麻底良山の麓の屋敷で寛いでいる時のことだった。村の顔役数人がやって来て、「自分たちの手に負えないことなので、ぜひ殿さまのお助けを」と嘆願した。
 願いとは、香山(こうやま)の麓の大池に棲む巨大な亀が、最近になって街道を通る旅人を襲うというのである。街道とは、博多方面から豊後日田に通じる「朝倉街道(又は日田街道・国道386号線)」のこと。危険を避けようとすれば、南を流れる大河(筑後川)の向こう岸に渡るしかない。旅人は危険を承知で池のそばを通っていると言う。
 大膳は麻底良城を預かってこの方、そんな物騒な話を聞いたことがない。顔役たちには「任せておくがよい」などと返事をして帰したが、さてどうしたらよいものか。

黒田騒動の中で

 大膳は、初代藩主の黒田長政から、跡目を継ぐ長男(継室の子)忠之の後見役を命じられていた。だが肝心の忠之は、家臣や町民に難題を押し付けたりして、いたって評判が悪い。それに行動も粗暴であり、大膳にとって頭痛の種だった。長政公が江戸に赴いたときは、心の安らぎを求めて志波の里に足を運ぶことが多かった。そんな折の大亀出現である。写真は、亀の甲羅干し
「本当にそんな大亀がこの朝倉にいるものかどうか?」
 大膳は家来を偵察に向かわせたが、それらしいものは見なかったと報告した。
「・・・ですが茶屋の主人の話だと、この頃では、夜中に不気味な唸り声で目が醒めることがたびたびとのことです」と、村の顔役。
 そこまで聞けば放ってもいられまいと、腕の立つ家来3人と出入り自由の百姓の万造を連れて、半里ほど西の香山の麓に向かった。透き通るような青空が気持ちのいい午後であった。

村の守り神というが

「お殿さま、言いにくいことですが」
 筑後川べりを歩きながら、万造が話しかけた。
「香山の池に棲む亀は、むかしから村の守り神とも言われております。あの亀が旅人に悪さをするはずがありまっせん。何とか手荒なことだけは勘弁してもらえんでっしょか」
「困ったのう、一方では旅人の安全のために退治しろと言うし、おまえは大事な神さまだから無茶をするなと言う。わしはどうすればよいのかのう」
 事実大膳は憂鬱であった。むかしから「鶴は千年・亀万年」との諺があり、そのような巨大亀は底知れぬ魔力を持っているに違いない。亀の出現が藩にとって悪い出来事の前触れでなければよいが・・・。見上げるような大楠が前方に見えてきた。その大楠の下が目指す大池である。

甲羅干し中をズドーン

 大池に着くと、大膳は楠の大木に隠れて水面を見渡した。池の中央に浮かぶ岩の上に、何やら黒い大きな物体がしがみついている。それは牛ほどもある大きな亀であった。気持ちよく甲羅干しをしていた亀が、人の気配を感じてむっくと起き上り、長い首を突き出して大膳を睨みつけた。関ヶ原での戦い以来、立ち回りから遠ざかっている大膳の戦闘本能が頭をもたげた。
「鉄砲をもて!」
 咄嗟に発した命令に、家来の一人が大膳愛用の銃を渡した。
「お待ちください、お殿さま」
「ズドーン」万造の声も聞こえないのか、大膳が引き金をひいた。弾丸は見事亀の首筋を貫き、巨体もろとも水中に転げ落ちた。水面には白い油膜が貼られ気持ちの悪い泡ぶくが残された。

向こう岸だけが嵐に

 丁度その時刻、筑後川を渡る船頭が仰天した。あっという間に空一面を黒雲が覆い、稲光が幾筋も走ったからだ。渡し舟は大揺れし、今にも転覆しそう。降り出した雨が川面に突き刺さった。急ぎ筑後の小江(おえ)岸に舟をつけたが、こちらでは一滴の雨も降らないで地面は乾ききっている。改めて川向こうを眺めた船頭、あの香山がまったく見えないほどに豪雨が引き続いていた。そして、鼓膜が破けそうな音響とともに地面がグラグラ揺れた。


斜面が削り取られた香山(高山)

 しばらくたって船頭は、改めて香山に目をやった。姿形のよかった山の東半分が崩れ落ち、無惨なまでに赤い山肌を晒している。筑前でいったい何が起こったのか、船頭は首をすくめるばかりだった。写真は左斜面が崩れた高山(香山)

天災か祟りか?

 急ぎ屋敷に戻った大膳、そのまま布団に潜り込んだが、なかなか震えが止まらない。やっと小降りになったところで例の顔役が駆け込んできた。
「殿さま、大亀の死体があがりました。これで街道を通る旅人の安全が守られます。ですが・・・」
「ん?」
「あのときの大雨で香山の左半分が崩れ、麓にあった茶屋と民家が泥の下に埋まりました」
 栗山大膳が大亀を退治した直後から降り出した大雨で香山の地盤が緩み、山肌が削り取られたと言うのだ。
「殿さまが、守り神の大亀に鉄砲を向けた罰たいね」
 村人は今回の山崩れのことを「大膳崩れ」と呼んで恐れた。そして大災害にも耐えた楠の大木のことを、「大膳楠」と名づけた。その楠、400年経った今でも街道筋にあって、行き交う人々の安全を見守っている。

事件その後

 世に有名な黒田騒動は、大膳が大亀を撃ち殺してから間のない元和元(1615)年に起こっている。豊臣家が滅亡した「大阪夏の陣」の直後のことである。(完)

 黒田藩の支城があった麻底良山は、志波地区の柿畑から見上げたところにあった。そこから約2キロ南に高山190b・物語では香山)があり、大きな昇竜観音像が筑後川を見下ろしている。大膳の名前をとった楠の大木の下に今は池はない。だが土地の高低を観察し、近くの筑後川と合わせて見渡すと、そこに大きな湿地帯が存在したことも納得できる。(円清寺境内の大膳追慕碑)
 当時の朝倉街道は、高山のすそ野沿いに通っていて、かなりカーブの強い街道であったらしい。そこから往来する旅人の難儀が生じ、亀退治の話に発展したのかどうか? 敵役になった大亀こそ迷惑な話だ。

黒田騒動
福岡藩で起こったお家騒動。家老の栗山大膳が、藩主黒田忠之の乱行失政を諌めたが用いられず、幕府に忠之の謀反を出訴。結果、忠之の謀反は認められず、大膳は南部藩(盛岡)に預けられた。(広辞苑)

九州北部豪雨2017
朝倉市付近では3時間で約400mm、12時間で約900mmの雨量が解析された。気象庁以外が管轄する雨量計では、5日15時20分までの1時間の降水量が169mmを観測した。

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