伝説紀行 水源の富くじ 水源 熊本県小国町 古賀 勝作


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作:古賀 勝

第314話 2007年10月07日版
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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。

福を招く水源

両神社の富くじ

熊本県小国町

 小国町宮原に建つ両神社(小国宮)は、小国郷(小国町&南小国町)の総鎮守(その土地を鎮護する神)である。筑後川上流の田原川(旧名:静川)と平行して伸びる門前町の一番街(旧名:上町)は、江戸時代大いに栄えた街道筋であった。その面影は今も色濃く残っている。大きな商家が立ち並び、途中川岸に下りていくと、樹齢千年ともいわれるけやきの大木が聳えていた。大樹の根元からは、豊富な水が間断なく湧き出ていて、池の傍には水神さまが。


写真は、宮原の両神社門前町

 湧き出た水は狭い水路を経て田原川に注ぐ。再び一番街に戻って大きな屋敷を右に折れた場所に、これまた湧き水が。第10話「三日月の滝」伝説で紹介した鏡ヶ池だ。池の脇には、釣竿を担いだ恵比寿神が石祠に納まっておられた。
 小国郷では、けやき水源の水神社と鏡ヶ池の恵比寿神、それに総鎮守の神社を一挙に参ると、向こうから福がやって来ると伝えられてきた。そこで郷の民は、遠くは何時間もかけて三社詣りに出かけたそうな。

信心深さが福を呼ぶ

 江戸時代もそろそろ末期を迎えようとする頃の小国郷。山間部の中原(なかばる)に住む留吉は、朝暗いうちに家を出て、宮原の町に行商に出た。売り物は、家の周囲で拾い集めた焚き木で、民家や商家の一軒一軒に声をかけて回る。
「苦労の割には儲けは少ないし。暮らしも楽にならん」
 いつも立ち寄る一番街の雑貨屋で、親父(おやじ)に愚痴った。
「湊屋さんなんぞは、相変わらずのご繁盛だない」
「あれほどの造り酒屋だもんな。蔵には、人が抱えきれんくらいの金塊がどっさり積み上げてあるそうなばい。それもこれも、両神社の富くじのお陰たいない」


鏡が池

 文政の世のはじめ(1818年)、湊屋の先祖の橋本順左衛門が一番くじを当て、その運が次の運をも招いて、ついには金鉱をも探り当てたという話だ。
「順左衛門さんといえば、たいそう信心深かいお方だったそうな。朝起きると真っ先にけやき水源に出て体を清め、傍らに祀ってある水神さまにお参りなさった。人間が生きるための水を与えてくださる感謝の言葉ばかけてない。次には、鏡ヶ池の恵比寿さんに商売繁盛をお願いしなさった」
「ご信心と富くじと、どげな関係があると?」

宝船が正夢に

「夢ばみなさったそうなたい。田原川から小さな舟が、流れに逆らってけやき水源に入ってきた夢ば。それが湊屋さんには、大海から港に入ってきた宝船に思えたそうたいない」
「なんでまた?」
「港では、鏡ヶ池の恵比寿さんがニコニコしながら、舟ば迎えなさったらしかけん。小舟の入港を“吉兆”とみた湊屋さん、その日の富くじを買って一番くじを当てなさったというわけたいない」
 膝を乗り出してその先を知りたがる留吉であった。
「そこまでなら、どこにでんある話したいない。湊屋さんが偉かつはそれからたい。くじで貰うた金ば世の中のために使いなさった。ほら、けやき水源に下りる坂とか、横町坂の石畳。あれはみんな湊屋さんが寄付ばなさったもんだと。大水のとき、家ごと流されんごつ、石の堤防や橋も造りなさった」写真:鏡が池の恵比寿神
「なるほど、もうけた金ば独り占めしなさらんじゃったつたいない。そりゃ、誰にでんでくることじゃなかない。そこで、水神さんや恵比寿さんが、またまた湊屋さんに褒美ばくれなさったというわけ?」
「留吉さんも、この頃よう頭の回るごつなったない」
 それからの留吉、湊屋さんに倣って商売の前には必ず身を清めて水神さまにお参りするようになった。次いで両神社の二人の神さまにも。商売を終えると、鏡ヶ池の恵比寿さまにその日の商いの具合をお知らせした。それもこれも、幸運が向こうから舞い込んでくるようにとの下心からであった。

当りくじの代わりに…

 それから30年、若かった留吉も間もなく古稀を迎える。徳川の世が終わり、肥後の殿さまも知事とかなんとかいう名誉職に就きなさったそうな。もちろん、小国郷を通過した大名行列なんぞはとっくのむかしの話になってしまった。
 宮原への行商は20年前にきっぱりとやめ、今では5人の孫を相手に気ままな留吉であった。それでも時々は、一番街に出てけやきの恵比寿さんと鏡ヶ池、それに両神社にお参りする。永年の習慣がそうさせるのだ。仲良しの雑貨屋の親父の七回忌に参列したのも3年前のことだった。
「あれだけ水神さんや恵比寿さんにお参りしたばってん、俺にはとうとう福は来んじゃった。宝船の夢も見ることはなかった…」
 縁先でブツブツ独り言を繰り返す留吉。そこに嫁のハルが口を入れた。
「何ば言いござるですか。あれから家は建て直したし、田んぼも増えて息子夫婦も頑張よるし、5人もの孫には恵まれるし…」
「ばってん、一度でよかけん、使いきれんくらいの金ば手に入れたかったない」
 それからまた、ブツブツが続く。そんな時、息子が他所で聞いてきたという話を持ってきた。
「一番街が大火事になったげな。湊屋さんも全焼してしもうたげな。家の人が何人も死になさったげな」


水源を出て一路筑後平野へ


 師走も押し迫った明治24年12月28日の夜のことだった。火が消えて蔵の中を探したが、抱えきれないほどの金塊の山はどこにもなかった。
「もったいなかない。今からでん金塊ば捜しに行こうか」
「馬鹿なことば…。うちは火事にも遭わんし、皆んな無事じゃし」
 留吉と嫁が、それぞれに勝手に独り言。(完)

富くじ:抽選による懸賞的博打。江戸時代に流行。多数の富札を売り出し、それと同数の番号札を箱に入れ、箱にあけた小孔から錐を突き入れ、刺さったものをあたりとして多額の賞金を出し、残額を興行者の収入とした。
寺社修理料を賄うため寛永の頃から公認され、江戸では谷中・感応寺・目黒不動・湯島天神を「三富」と称した。天保13年(1842)禁止。(広辞苑)

 両神社・水神(けやき水源)・恵比寿神を一挙に参ると、福が来る。神社で、「一等くじが次々にあたった本当にあったお話」と記したチラシをもらった。物語当時の小国郷では、湊屋に次いで城野市郎右衛門というお方も、三社詣りの甲斐あって富くじを5回も当てたとある。彼もまた湊屋に倣って郷内に石畳や石橋をたくさん築いたそうな。人々は、これら石畳の道を「富くじの道」と呼び、その名残りは今日でも見られるという。
 幸運は何も江戸時代に限らない。最近でも「たばこのつり銭で宝くじを買ったら100万円」、「水神さまにお参りしてナンバーズを買ったら100万円、その45日後に87万円」などなど。

 筑後川水源の小国郷は、阿蘇の神々が農業を援けてくれる国だと聞いていたが、くじ運まで授けてくれるとは。
 確かに、けやき水源の縁に座り込むと、無限に湧き出す水量に感動を覚え、幸運をいただいた気分になる。地元の方々が、「神がくれた水」と崇めて下流に送り出してくれる筑後川の水だから、下流のものはもっともっと大切にいただかなければと痛感する。
 さて、舞台となった小国郷について。江戸時代には25の村からなっていたが、明治3年に大合併して9ヶ村にまとまった。さらに明治22年には、9つの村が北小国村(現小国町・6ヶ村)と南小国村(3ヶ村)になり、後に町制を敷いて今日に至っている。現在の人口は小国町約9000人、南小国町が4500人と、例に漏れず減少傾向にあるようだ。(小国町HPより)

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