秋の紅葉で有名な耶馬溪(大分県中津市)には、景観の素晴らしさや建造物の偉大さに加えて、面白いお話しが数多く残されている。その一つが、「後藤又兵衛の墓」だ。後藤又兵衛といえば、黒田二十四騎(福岡黒田藩)の一人として名を残し、その後豊臣秀頼の輩下に移って大坂冬・夏の陣を戦い、大和の道明寺河原で劇的な死を遂げた人物としてよく知られている。
それなのに、どうして彼のお墓が豊前国の耶馬溪にあるのか。その謎をさぐってみた。
元豪傑が中津の山奥で
時は関が原の合戦から20年ほどたった徳川秀忠の時代。豊前国は伊福の郷(大分県中津市)で、老境にある男が寂しく時を過ごしていた。名前を後藤又兵衛基次といい、かつての黒田家重臣である。
「旦那さま、よい湯加減ですよ」
大自然が織りなす奇岩の群れと、折からの紅葉が見事にマッチした景色に見惚れている又兵衛に、この家の主のお豊が声をかけた。お豊は、30年前(天正15年)に、黒田孝高(通称:官兵衛 号:如水)について入国した又兵衛と知り合い、深い仲となったものであった。
それから12年後には、如水の嫡男である長政とともに関ヶ原合戦に参戦。凱旋後は、黒田親子とともに筑前博多に移った。
黒田家から豊臣家へ
お豊は、幸せだった14年間の生活に別れを余儀なくされた。その後中津藩の侍から、黒田如水の死を知らされたが、又兵衛の消息は知らないままであった。
徳川家康が豊臣家に引導を渡す大坂冬の陣(1614年)から夏の陣(1615年)が終った頃である。旅の僧から、「豊臣の軍で戦った後藤又兵衛は大和の道明寺河原で戦死した」ことを知らされた。一日たりとも忘れたことのない又兵衛が、いつどのような事情で黒田家から豊臣方に鞍替えをしたのか、お豊にはまったく信じられないことだった。
又兵衛の悲報を聞いて流した涙も涸れぬうちに、お豊の前に落ちぶれ果てた2人の男が立った。死んだはずの後藤又兵衛と中間の菊造であった。又兵衛が道明寺河原でで危うく命を落としそうになったとき、菊蔵の機転で戦場を離れ、お豊が暮らす豊前国を目指したのだと言う。
「御大将の秀頼さまがご存命である限り、豊臣家は必ずや再興される。その時節まで、匿ってくれ」
又兵衛は、未だ秀頼の死を知らず、かつて馴染みのお豊を頼ったのであった。写真は、理想郷を思わせる伊福地区
「何を他人行儀なことをおっしゃりますやら。旦那さまと私は、先の世までもと誓い合った間ではございませんか」
こうして、又兵衛と菊蔵の、山奥での隠遁生活が始まったのである。
城主との確執
「旦那さま、聞かせてくださいませ。豊前を離れて今日までのことをもっと詳しく」
お豊は、又兵衛が大恩ある黒田家を去らなければならなかった理由を知りたかった。
「話せば長いことになるが…」
又兵衛は、そもそもの黒田官兵衛孝高との関わりから話し始めた。
播磨国で生れ育った又兵衛は、幼くして黒田孝高(官兵衛)に仕えることになった。その後、豊臣秀吉の九州征討の際、孝高軍の先鋒を任じられた又兵衛は、数千の軍を束ねるとともに、自慢の長槍を駆使して島津兵を蹴散らした。秀吉は、孝高に豊前国の中津6郡を与えた。豊前入国後、検地のため藩内を巡っていた又兵衛が泊まったのが、お豊が営む伊福の郷の温泉宿であった。
秀吉の死後、台頭した徳川家康率いる東軍と、石田三成の西軍が真正面から当たる「関ヶ原の戦い」が勃発した。中津で様子見をする父如水を置いて、息子長政は又兵衛らを率いて徳川の東軍に馳せ参じた。この合戦、西軍小早川秀秋の裏切りにより、急転直下東軍が勝利を掴んだ。
浪々の身が大坂城へ
関ヶ原での又兵衛や茂里太兵衛など「黒田二十四騎」の働きもあって、黒田長政は筑前国52万石を与えられることになる。
そして又兵衛は大隈城主(福岡県嘉麻市大隈)を任されることになった。
「お父上の如水さまがお亡くなりになった後(1604年)、何かと長政公との不仲が表面化するようになり、旦那さまと私奴は密かに居城(大隈城)を抜け出して、豊前小倉の細川さまを頼ったのでございます。そこにも、長政さまの手が回り、結局浪々の身で諸国を巡りました」と菊蔵が言い足した。
大坂冬の陣が始まった年、又兵衛は豊臣の一員となって戦うことになった。徳川方の重要な大名であるかつての主君と、真正面から戦う破目になったのである。
後藤又兵衛や真田幸村など豪傑をしても、徳川方の勢いを止めることはできなかった。又兵衛は僅かの兵を率いて城外で奮戦したが、これまた戦勝は絶望的だった。潔く腹を切ろうとしたとき、菊蔵によって闇に紛らされ戦場を脱出したのだと言う。
「生き延びたものの行くあてもなく、自然旦那さまの足はお豊さまがおいでの豊前に向いていたのでございます」
豊臣再興知って・・・
話し終わったとき、菊蔵が又兵衛のお豊への思いを付言した。
「ご苦労なさいましたな」
話を聞き終わってお豊もまた、一言だけ長年の主従の苦労を労って涙を拭いた。
その後の後藤又兵衛については、さまざまな説が伝えられている。
寺子屋を開いて子供たちに読み書き剣術を教えた。
伊福の郷から1里ほど西に向かったカマドガ岩で、念仏を唱えながら豊臣再興の時を待った、など。
風の便りでは、夏の陣で豊臣方は壊滅し、秀頼公も淀の方の最期を知った又兵衛、絶望のあまりに腹を切って果てたとも。
伊福の郷人が、静かに余生を送る老兵を、後藤又兵衛だと知ったのはずっと後のことであった。村の伊福茂助が、かつての長槍の名手であったお人が、この村に滞在したことを後世に残そうと、墓を建造することになったのだそうな。大坂夏の陣から40年を経過した承応3(1654)年のことであったという。(完)
後藤又兵衛の墓が中津市にあることをNHKの番組で知って出かけた。旧耶馬溪町の伊福温泉郷には、「又兵衛」という民宿もあって、里人の自慢の一つだ。立派な墓所には、これまた長年かけて出来上がった枝振りのよい松が植え込まれている。見渡す周囲の山の、石灰岩と雑木のコントラストが素晴らしい。立ち昇る白煙は温泉の湯煙か。なんとも素朴な感じだ。
後藤又兵衛といえば、黒田武士の一人であるはず。同じ黒田二十四騎の茂里太兵衛の子孫や住みかなどは現在もなお福岡の町に保存されているのに、又兵衛のそれらは見当たらない。それもそのはず、初代福岡藩主の黒田長政と衝突して出奔したというのだから。
むかし住んだことがあるといっても、生きながらえて九州は豊前国まで逃げてくることもなかろうに。やっぱり、むかしの彼女(お豊)が忘れられなかったというわけか。
又兵衛の墓の在り処を教えてくれたおばさんが、「ここは極楽のごたるよかとこですばい。秋になると、あの山が真っ赤に染まりますけん。不思議な岩との取り合わせがそれはあなた、うっとりしますたい。秋にまた又兵衛さん会いに来てください」だって。皆さん、いつまでもお幸せに。
2014年のNHK大河ドラマは、黒田官兵衛が主人公の「軍師官兵衛」である。お陰で、官兵衛縁の地は、観光客誘致で騒がしいこと。地元紙も、連日官兵衛記事で埋まる。
本編の後藤又兵衛は、官兵衛の第一の家来である。2014年8月7日の西日本新聞は、「黒田二十四騎伝」のなかで、耶馬渓又兵衛の墓を次のように紹介している。参考までに。
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