伝説紀行  湯平温泉  由布市


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作:古賀 勝

第273話 2006年09月10日版

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             【禁無断転載】
        

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

美肌請合いの湯

湯平温泉水かけ幽霊

大分県由布市


湯平温泉街を流れる花合野川

「湯平」は、九重連山を源にして流れ落ちる花合野川(かごのがわ)のほとりに湧く温泉である。川沿いの急坂に敷き詰められた石畳の両側には、40軒の宿がひしめく。煌(きら)びやかな湯布院や黒川温泉とは違い、むかしながらの鄙(ひなび)びた湯治場の雰囲気がプンプンの観光地。泉質は塩化ナトリュウム系で湯温が45度から90度と幅広い。効能書きには、神経痛や慢性消化器病など何でもござれとある。モヤモヤする腰をいつもさすっている者なら、一度は浸かってみたい温泉である。写真は、石畳の湯平温泉街
 湯治場としての歴史は300年ほどだが、温泉の存在はもっと大むかしから噂されていたらしい。特に女性が浸かると、美人になること請け合いの湯だとして。

美しくなければ欲は満たせぬ

 1000年以上もむかし。豊後の飯田高原(九重)一帯を朝日長者が支配していた時代のことだ。長者の娘月姫は、密かに裏千町・表千町の広大な田畑を我が物にして、財宝を独り占めにする野望に燃えていた。
「姫さま、ご機嫌はいかが?」
 乳母の小枝が様子を伺いにやってきた。
「わらわの相手をする男はまだ見つからぬのか」
 姫が決まり文句の質問を発すると、これまた乳母がいつものように首を横に振った。
「でも姫さま…」
 小枝が言い難そうに口ごもった。
「なんじゃ?言いたいことがあるならさっさと言ってみよ」
「姫さまが高原一の美人であれば、世の殿御はみな、ひれ伏しましょうに。さすれば幾千の民も…」
「わらわは美しゅうないと申すのか、小枝!」
 乳母の一言が相当堪えたらしく、月姫はそのまま自室に籠もってしまった。

“美貌”を求めて川下へ

 翌朝、月姫が旅姿で出てきた。
「いずこへ?」、小枝が心配そうに尋ねた。
「昨夜そなたに美しゅうないと言われて、悲しゅうて。泣きながら眠ると、夢枕に観世音菩薩が立たれて…」
「観音さまが、姫さまに何と?」
「願いを叶えて欲しければ、男池(おいけ)から流れる川に沿って湖に向うがよいと。それもたった一人でじゃと」
 月姫が黒岳麓の男池を源とする小川に沿って行くと、鬱そうとした森の中の湖(現山下湖)に着いた。男池からの距離は、凡そ100丁(1kは109b)ほどであった。湖の周りを彷徨(さまよ)いながら、誰か案内してくれる者がいないものかと目を配った。写真は、山下湖
 それも無駄骨だった。「あれは、わらわをあざ笑うための観音さまの悪戯だったのか」と考えると、どっと疲れが襲ってきた。だが、高原一の美しい女になりたい欲望は、薄まるどころかますます高まった。

怖さで欲望が薄れた

 月姫は真っ暗闇の川沿いを、せせらぎを頼りに下っていった。梢から「ホー、ホー」と気味の悪い鳥の声が。「ガォー」、野獣の吠える声も近づいてくる。
「死ぬのが怖い。誰か援けて!」、どんなに泣いても叫んでも、月姫を助けるものはどこにもいない。「高原の覇者になりたい」との野望は、疲れとともにどうでもよくなってきた。ふと前方を見ると川面から煙のようなものが立ち昇っている。
 月姫は着ているものを脱ぎ捨て、生まれたままの姿で川に飛び込んだ。秋も深まっているというのに、水の中は春が来たように暖かい。大きな岩を背もたれにして深い眠りについた。
 目の前に、いつかの観世音菩薩が…。
「そなたは、今でも高原の覇者になって、金銀財宝を独り占めにしたいのか?」
 月姫が涙ながらに答えた。
「観音さま、私が間違っていました。川を下ってきて暗闇の森に取り残されて、ようやくそのことに気がつきました。いかに田畑があろうとも、民との間に心が通わなくては穀物は稔りません。私の手元で金銀財宝が唸っていても、それがいかほどのものでありましょう」
「覇権の野望を捨てて、そなたはこれからどのように生きるのか?」
「長者の娘として、高原の民すべてに富が分配されるよう努めまする」

でも、やっぱり女は…

「もう一つ尋ねるが、美しい女性になりたいというそなたの望みはいかがする?」
「いえ、それは…」
「女がきれいになりたいのは、野望ではなくて本能です」とでも言いたげに、月姫が俯いている間に、観音さまの姿は消えた。まるで母の胎内にいるような温もりを感じながら、目が覚めた。川底から湧き出す湯が、眠っている月姫の体を包んでいたのだった。
「今度もまた、夢だったか」
 月姫は、岩に囲われた水たまりに写っている女性を見た。「美しい」、それが自分の姿だとはどうしても信じられなかった。改めて自らの体を水面にかざしてみる。透き通るような色白の肌が、水面で踊っていた。
“もの”の欲望から解き放たれた月姫に、もう怖いものなど何一つない。暗い森も、静まり返った湖も、すべてが自分を励ましているようだ。
 それからというもの、花合野川(かごのがわ)の川原には、美を追求する女たちの水(湯)浴びが絶えなくなったそうな。現在の湯平温泉の本当の起源はそこにあると信じる人もいる。(完)

 湯平を訪ねたのは梅雨も終わりの頃だった。駐車場についた途端、耳も劈くような雷がなり響き、叩きつける雨で温泉街の坂道は急流に変じた。500bにも伸びる石畳をゆったり散策して、五つもある共同浴場をハシゴして、それから名物だご汁を食って、なんて計画も吹っ飛んでしまった。
 物語の月姫は、第75話「九重高原の朝日長者」に通じている。あの壮大な観光地の九重高原の大昔がどうだったのか。歴史家ならずとも、多様な人々がさまざまに空想してきたのだろう。
 湯平温泉については、外にも言い伝えがある。木こりが猿の湯浴みを見つけて、温泉場にしたという話。花合野川の川底には黄金が埋まっていて、その金汁が湧き出てきたものだから、飲むと効き目がてあるのだとか。天気さえよければ、山下湖を一周して湯布院に出るドライブコースが最適なのだが…。そうしたら、由布岳も元気よく手を振って歓迎してくれたものを。
 ところで湯平温泉に浸かると、女性は本当に美しく変身できるのかな。雨の中出会った観光客は、みなおじさんだった。

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