「湯平」は、九重連山を源にして流れ落ちる花合野川(かごのがわ)のほとりに湧く温泉である。川沿いの急坂に敷き詰められた石畳の両側には、40軒の宿がひしめく。煌(きら)びやかな湯布院や黒川温泉とは違い、むかしながらの鄙(ひなび)びた湯治場の雰囲気がプンプンの観光地。泉質は塩化ナトリュウム系で湯温が45度から90度と幅広い。効能書きには、神経痛や慢性消化器病など何でもござれとある。モヤモヤする腰をいつもさすっている者なら、一度は浸かってみたい温泉である。写真は、石畳の湯平温泉街
湯治場としての歴史は300年ほどだが、温泉の存在はもっと大むかしから噂されていたらしい。特に女性が浸かると、美人になること請け合いの湯だとして。
美しくなければ欲は満たせぬ
1000年以上もむかし。豊後の飯田高原(九重)一帯を朝日長者が支配していた時代のことだ。長者の娘月姫は、密かに裏千町・表千町の広大な田畑を我が物にして、財宝を独り占めにする野望に燃えていた。
「姫さま、ご機嫌はいかが?」
乳母の小枝が様子を伺いにやってきた。
「わらわの相手をする男はまだ見つからぬのか」
姫が決まり文句の質問を発すると、これまた乳母がいつものように首を横に振った。
「でも姫さま…」
小枝が言い難そうに口ごもった。
「なんじゃ?言いたいことがあるならさっさと言ってみよ」
「姫さまが高原一の美人であれば、世の殿御はみな、ひれ伏しましょうに。さすれば幾千の民も…」
「わらわは美しゅうないと申すのか、小枝!」
乳母の一言が相当堪えたらしく、月姫はそのまま自室に籠もってしまった。
“美貌”を求めて川下へ
翌朝、月姫が旅姿で出てきた。
「いずこへ?」、小枝が心配そうに尋ねた。
「昨夜そなたに美しゅうないと言われて、悲しゅうて。泣きながら眠ると、夢枕に観世音菩薩が立たれて…」
「観音さまが、姫さまに何と?」
「願いを叶えて欲しければ、男池(おいけ)から流れる川に沿って湖に向うがよいと。それもたった一人でじゃと」
月姫が黒岳麓の男池を源とする小川に沿って行くと、鬱そうとした森の中の湖(現山下湖)に着いた。男池からの距離は、凡そ100丁(1kは109b)ほどであった。湖の周りを彷徨(さまよ)いながら、誰か案内してくれる者がいないものかと目を配った。写真は、山下湖
それも無駄骨だった。「あれは、わらわをあざ笑うための観音さまの悪戯だったのか」と考えると、どっと疲れが襲ってきた。だが、高原一の美しい女になりたい欲望は、薄まるどころかますます高まった。
怖さで欲望が薄れた
月姫は真っ暗闇の川沿いを、せせらぎを頼りに下っていった。梢から「ホー、ホー」と気味の悪い鳥の声が。「ガォー」、野獣の吠える声も近づいてくる。
「死ぬのが怖い。誰か援けて!」、どんなに泣いても叫んでも、月姫を助けるものはどこにもいない。「高原の覇者になりたい」との野望は、疲れとともにどうでもよくなってきた。ふと前方を見ると川面から煙のようなものが立ち昇っている。
月姫は着ているものを脱ぎ捨て、生まれたままの姿で川に飛び込んだ。秋も深まっているというのに、水の中は春が来たように暖かい。大きな岩を背もたれにして深い眠りについた。
目の前に、いつかの観世音菩薩が…。
「そなたは、今でも高原の覇者になって、金銀財宝を独り占めにしたいのか?」
月姫が涙ながらに答えた。
「観音さま、私が間違っていました。川を下ってきて暗闇の森に取り残されて、ようやくそのことに気がつきました。いかに田畑があろうとも、民との間に心が通わなくては穀物は稔りません。私の手元で金銀財宝が唸っていても、それがいかほどのものでありましょう」
「覇権の野望を捨てて、そなたはこれからどのように生きるのか?」
「長者の娘として、高原の民すべてに富が分配されるよう努めまする」
でも、やっぱり女は…
「もう一つ尋ねるが、美しい女性になりたいというそなたの望みはいかがする?」
「いえ、それは…」
「女がきれいになりたいのは、野望ではなくて本能です」とでも言いたげに、月姫が俯いている間に、観音さまの姿は消えた。まるで母の胎内にいるような温もりを感じながら、目が覚めた。川底から湧き出す湯が、眠っている月姫の体を包んでいたのだった。
「今度もまた、夢だったか」
月姫は、岩に囲われた水たまりに写っている女性を見た。「美しい」、それが自分の姿だとはどうしても信じられなかった。改めて自らの体を水面にかざしてみる。透き通るような色白の肌が、水面で踊っていた。
“もの”の欲望から解き放たれた月姫に、もう怖いものなど何一つない。暗い森も、静まり返った湖も、すべてが自分を励ましているようだ。
それからというもの、花合野川(かごのがわ)の川原には、美を追求する女たちの水(湯)浴びが絶えなくなったそうな。現在の湯平温泉の本当の起源はそこにあると信じる人もいる。(完)
湯平を訪ねたのは梅雨も終わりの頃だった。駐車場についた途端、耳も劈くような雷がなり響き、叩きつける雨で温泉街の坂道は急流に変じた。500bにも伸びる石畳をゆったり散策して、五つもある共同浴場をハシゴして、それから名物だご汁を食って、なんて計画も吹っ飛んでしまった。
物語の月姫は、第75話「九重高原の朝日長者」に通じている。あの壮大な観光地の九重高原の大昔がどうだったのか。歴史家ならずとも、多様な人々がさまざまに空想してきたのだろう。
湯平温泉については、外にも言い伝えがある。木こりが猿の湯浴みを見つけて、温泉場にしたという話。花合野川の川底には黄金が埋まっていて、その金汁が湧き出てきたものだから、飲むと効き目がてあるのだとか。天気さえよければ、山下湖を一周して湯布院に出るドライブコースが最適なのだが…。そうしたら、由布岳も元気よく手を振って歓迎してくれたものを。
ところで湯平温泉に浸かると、女性は本当に美しく変身できるのかな。雨の中出会った観光客は、みなおじさんだった。
|