弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし
熊谷淵由来
大分県日田市(旧大山町)
赤谷川の淵
大山町から前津江村に通じる山道は、昼なお暗くて車を走らせていても心細くなるくらい。大山川(筑後川の別名)に注ぐ赤谷川のそのまた支流の川には、大小の滝が連なり冷気が覆う。小川に下りて手をつけると、痺れるように冷たい。この地は田来原(たらいばる)といって、椎茸栽培が盛んなところ。そんな山中に、土地の人が「熊谷淵」と呼ぶ澱んだ水辺がある。「熊谷」とは、謡曲やお芝居で有名な、平家の敦盛の首を掻き切った熊谷次郎直実に由来するらしい。
1年前のつれあい鳥を殺める
時は壇ノ浦での源平合戦に決着がついた寿永4(1185)年から10年くらいが経過した頃のこと。田来原の山中を、髭面の猟師が獲物を追ってやってきた。次郎と名乗るこの猟師、獲物に恵まれず少々苛立っているようだ。加えて、喉もカラカラに渇いている。
水を飲もうと水辺に下りると、地味な羽毛を隠すように、雌(めす)の鴛鴦(おしどり)が1羽、澱んだ淵を泳いでいた。猟師という生業(なりわい)からくる性(さが)なのか、次郎はつい自慢の弓をひいた。矢は鳥の首筋を射抜いた。獲物をとりあげてびっくり、手羽の下から美しい羽毛の雄の鴛鴦の首がこぼれ落ちたではないか。
「まさか!」 1年前に、同じ場所で同じように鴛鴦を仕留めたことを次郎は思い出した。あのときは、雄雌仲良く2羽で泳いでいるところに矢を放った。腹が減っていたこともあって、次郎はその場で鳥の首を落とし、丸焼きにして食べた。「まさか、あの時切り落した雄の首を、今射止めた雌鳥が抱いていたのではあるまいな」
残酷なことをしたと悔やむ気持ちが頭の中を駆け回り、前後の見境もなくその場を転げまわった。
公達の首を取ったことと重なる
「熊谷直実ともあろう武芸者が、これしきのことで…」と、大声で叫んだ。この猟師、実の名前を熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)という。8年前には、源氏の武将として平家一門を追い詰めた。あれは寿永3(1184)年の2月だった。平家が結集する攝津福原(現神戸市)の本陣に迫り、吠えた。
「我、武蔵国の住人、熊谷次郎直実なり。伝えても聞くらん、今は目にも見よや。我と思わんものは盾の面に出でよ」と。
戦いは果てしなく続き、直実は平家の公達と対峙した。
「やーやー、我こそは平経盛(清盛の弟)の子敦盛なり」
公達で無冠の太夫と謳われた平敦盛であった。が、百戦錬磨の直実にとって、目の前の公達は敵ではなく、難なくねじ伏せて首を掻きにかかった。よく見れば、相手は我が子と同じ15歳か16歳の少年である。しかも、その容姿は男の目にも妖艶に写り、手許が震えた。
「この若者を殺したら、彼の父親はどんなにか嘆き悲しむことだろう。助けたい、だが、戦場においてそのような情けは許されない」
自分でも説明がつかない理屈を唱えて、直実は敦盛の生首を掲げることになった。首は、哀れを乞うように哀しい目を開いたままであった。直実には、それが呪に映った。
殺生への懺悔から
やがて、源平の戦いは屋島から壇ノ浦へと展開していった。関門海峡の壇ノ浦では、安徳幼帝が三種の神器とともに海峡の藻屑と消え、世は源頼朝を頂点とする鎌倉時代へと移り変わっていった。
時代が変わっても、熊谷直実は敦盛の呪文から逃れられなかった。気がつけば、豊後の山中に紛れ込んでいた。そんなこともあってか、射止めた鴛鴦の躯を見て体中が強張った。
「この鳥、あの時の敦盛の顔に似ている」
あの時、本当に敦盛を殺すほかに方法(みち)はなかったのか。脳裏では、8年前の敦盛殺傷から目の前の鴛鴦の躯へと移り変わりながら駆け巡る。鴛鴦の夫婦の絆は固く、愛するものの遺体を羽の下で温め続けていたのだ。それに比べ、自分がこれまでに犯してきたことの軽さよ、罪の重さよ。
「哀れ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずば、何とてかかる憂き目をば見るべき、情けなうも討ち奉るものかな」(平家物語より)
次郎は、鴛鴦の雄の首と雌の体をしっかりと結んで、淵の傍らに葬った。村人は、猟師の名が「熊谷」であったことから、鴛鴦を葬った淵を「熊谷淵」と呼ぶようになったのだそうな。
その日を限りに弓矢を捨てた直実は、都の法然上人のもとに走り入門した。(完)
法然上人:(1133−1212)平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で、浄土宗の開祖。法然は房号で、諱(いみな)を源空という。浄土真宗の七高僧の一人。
今は日田市に吸収された大山町の田来原は、「第115話 大蛇の復讐」で紹介した椎茸栽培の盛んな山村である。
主人公の熊谷次郎直実は、一の谷の合戦で一躍名をあげた武将である。彼のことが特に有名なのは、その後の「平家物語」から始まった幸若や謡曲・歌舞伎などで脚色された「敦盛」に因るところが大きい。源氏きっての豪の者であった直実が、柔な平敦盛を組み伏せて、首を掻く場面の両者の哀れみを表現したものだとか。その後、武芸者であることを嫌って浄土宗を開いた法然の門を叩くというのがお芝居の筋立てになっている。
だが、現実の直実とはそんなに細い神経の持ち主ではなかったろう。壇ノ浦から8年経過して、伯父の久下直光と領地争いの最中、頼朝の面前で返答に窮し、かっとなって髻(もとどり)を切り仏門に逃げ込んだとも。
「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度この世に生を受け 滅ぼせぬ者のあるべきか」
有名な謡曲「敦盛」の一節である。熊谷直実が、年若い敦盛を討って無常観に苛まれ、仏門に入るという世阿(ぜあみ)の世界。後の世の織田信長が、幸若を好んで歌い舞ったあの歌のことである。
さて、熊谷直実は本当に豊後の大山にやってきたのだろうか。どの歴史書やお芝居にも、彼が九州に足跡を残したとは書いてない。壇ノ浦から出家までの8年間、空白になった彼の足跡を埋めてあげようとした九州の方々のお情けなのかもしれないな。
幸若:幸若舞の略。中世芸能の一つ。室町後期、幼名を幸若丸と称した桃井直詮が声明(しょうみょう)・平曲(平家琵琶)などの曲節を採り入れて創始したという声曲。
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