伝説紀行 清水の観音さん  瀬高町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第236話 2005年12月04日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

伸長なんと5メートル
清水の観音さん

福岡県瀬高町

【関連伝説:第7話 エツとお坊さん第95話 伝教大師の如来像 第46話 清水の仁王】

 
清水寺本堂と1丈6尺の千手観音像

 町の東部に、なだらかな傾斜の清水山(きよみずやま=標高350b)が見える。山頂から望むと、筑後平野の中央を大蛇のように矢部川が這っている。行き着く先は波静かな有明海で、その向こうに雲仙の普賢岳が聳え立つ。
 清水山の中腹には、本吉山清水寺という天台宗の古刹がある。地元では寺のことを、親しみを込めて「本吉の観音さん」と呼んできた。ご本尊は、1丈6尺(約5b)にも及ぶ千手観音菩薩である。秘仏であるため、日頃は1bほどのミニュチア観音さんで我慢しなければならない。運良くご開帳日にお参りできれば、4万6000日お参りしたと同じ功徳が受けられるというから有り難い話だ。
 この仏さん、ねむの木を立ち木のままで彫ったものだと伝えられてきた。しかも彫った人が、天台宗を興した最澄上人・つまり伝教大師だというから驚きだ。なんでまた、そんな偉いお坊さんが九州の矢部川辺までおいでなさったのか。

最澄:(767〜822)。近江に生まれる。比叡山に登って修学し、小堂を営んだ。804(延暦23)年、遣唐使に従って入唐し、法華経を中心とする天台の教えを受けて多くの経典をもって帰国し、比叡山に延暦寺を建てて天台宗を開いた。
天台宗:平安初期、最澄が開いた法華経を拠り所とする仏教宗派。805年、最澄が唐から帰って開祖。南都六宗に対立して大乗戒壇を設立。ついで円仁・円珍が出て、やがて山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)に分裂。また次第に密教化(台密)し、加持祈祷を主とする貴族宗教に堕した。

坊さんが矢部川を遡ってきた

 時は平安時代の初めの頃。現在の瀬高町の南半分がじめじめした湿地帯で、現在内陸部の江浦漁港(高田町)は未だ波打ち際だった。そんな折、有明の海での漁を終えて中島村(現福岡県大和町)に帰る虎松を、浜辺で手を振って呼ぶ僧がいた。近づくと今夜の宿を頼むと言う。
「何のお構いもでけんばってん…」ということで、家に連れて行くことになった。
「愚僧は2年前に海の向こうの唐の国に渡り、仏の道を教わってきた最澄といいます。きのう平戸に着いたばかりで、これから都へ帰る途中です」
「それはそれはご苦労さまですね」
 虎松は、目の前の僧と年齢が近いせいもあって、初対面とは思えない親しみを覚え、舟上での会話をはずませた。
「虎松さん、あれはいったい…? ほれ、向こうの山の中ほどで、キラキラ光っているあれですよ」
 翌朝まだ夜が開けきれない時刻であった。そう言われても、虎松には光るものなどまったく見えない。写真は、瀬高町を流れる矢部川堤防の大楠
「お坊さん、疲れていなさって目までおかしくなったんじゃなかね。何にも見えないよ」
「いえ見えます。あの光は、唐で見た仏の後光に似ています。愚僧を誘っているように思えるのです」

山の案内は雉に任せて

 虎松がウロウロしてる間に、坊さんは旅支度を終えてもう外に出ていた。いったん山に入れば、獣道すら見当たらない昼なお暗い大樹の林である。唯一目印は、山頂から流れ落ちてくる谷川のみ。手を差し伸べると、指が切れそうに冷たかった。
「はて、ここはどこでしょう?」 坊さんが虎松の顔を窺がった。
「俺は生まれつきの魚とりじゃけんね。海のことならなんでもわかっとるばってん、山となると…」
 2人は、周囲を大樹で囲まれた場所で、お互いの顔を見合わせた。
「あれは?」 虎松が10間先で餌を啄(ついば)んでいる雉(きじ)を指差した。気づかれた雉は、枝から枝へと飛んでいった。
「あの雉のあとについて行きましょう」
「はあ?」
 虎松には、坊さんが何を考えているのかさっぱりわからない。
「そちらですね?」「まだ、その場所は遠いのですか?」 坊さんがしきりと雉に話しかける。先を行く雉は、坊さんの問いに答えるように、振り返った。

立ち木のままのねむを彫る

 ものの1時間も歩いたところで、雉は幹周り5メートルもあるねむの大樹の枝に止まった。そこで坊さんは、地面に向かって合掌した。
「ここから、お呼びでしたか?」
 虎松には、坊さんの独り言と合掌の意味がまったく理解できない。
「あなたの家から見えた光は、この木の根元から出ていたのですよ」
 もともと、光るものすら見えなかったのだから、虎松の頭はこんがらがるばかりだった。
「お願いがあります」
 坊さんは、虎松の疑問には答えずに、鑿(のみ)を持ってきてほしいと頼んだ。雉が止まったねむの木で、観音像を彫るためだと言う。
 坊さんは、立ったままのねむの大樹に鑿を打ち込んだ。漁に出るため虎松が山を下りた後も、無心に彫り続けた。休むのは、運んでくれる食事をとるときと、僅かの睡眠時間だけだった。

完成した仏像は1丈6尺

「ちょっとばっかし訊きたかつばってん。…何で、仏さんば彫ると? それから、何でこんねむの木でなきゃいかんと?」
 ある時、虎松が問い糾した。
「それはですね。荒れる大海原を渡って無事帰国できたことを神や仏に感謝するためですよ。観音さまには、有明の海を見渡せるこの場所から、末永く民の暮らしを見守ってもらいたいのです。道案内をしてくれたあの雉は、実は観音さまのお遣いなのです。仏の道を極めたものには、雉の言葉が聞き取れます」
 十分にはわからなくとも、これ以上坊さんの手を休ませるわけにもいかずに、質問を打ち切った。
 二十一日間の仏像製作が大詰めを迎えた頃、山を登ってきた虎松が仰天した。根を張ったままで1丈6尺(約5b)の千手観世音菩薩像が立っておられたからである。思わず膝まづいて手を合わせる虎松であった。

 この時、最澄が彫った千手観音像が、現在も多方面から信仰を集めている清水寺のご本尊だと由緒には記してあった。上人は、この時ほかに2体の観音像を造っているという。その一つは小城(佐賀県)の清水寺に、もう一つが京都の清水寺に安置されているあの観音像だという。
 本吉(瀬高町)の清水寺は、その後山全体を霊場として、平安時代に山伏の修験道場として大いに栄えた。一方都に戻った最澄上人は、少年時代に修行を積んだ比叡山に天台宗の総本山(延暦寺)を開き、天皇から「伝教大師」の称号を貰うことになる。
そして、
最澄を清水山のねむの木まで案内した雉は、その後地元の人々の尊敬を集めることになった。その表れが、郷土玩具として有名なキジ車として残っている。(完)

 以前、8月のご開帳日に訪ねたことがある。護摩を焚く住職の前に立つ1丈6尺のご本尊は、被写体がカメラからはみ出して困ったことを思い出す。
 瀬高の千手観音像が最澄上人の製作であるとして、あの有名な京都清水さんの観音さまが、その時造られたものかどうか、公式由緒などには出てこない。

 今回訪ねたのは、山全体が朱に染まる紅葉真っ只中の11月末であった。相変わらず大勢の参拝客で賑わっていた。寺内には三重塔や山門、五百羅漢など芸術性の高い建造物や仏像が目白押しである。中でも最大の感動ものは、国指定名勝の本坊庭園であった。雪舟の作だと伝えられるだけあって、それは見事なもの。もみじとイチョウの大木・古木が、それに背後の借景が、見る人をして幽玄の世界に誘い込む。これならわざわざ京都まで出かけずとも、十分に日本の秋を楽しめるというものだ。
「もみじも肉うどんもおいしかですね。満足、満足」と出店のおやじさんにお世辞を言ったら、「ありがとうございます」と真顔で頭を下げられた。見ようによっては京都の清水さんより美しいことから、おやじさんのような先人が言い出して、それが伝説になったのかもしれないな。

ページ頭へ    目次へ    表紙へ