伝説紀行 南林寺如来像 朝倉市(朝倉)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第95話 2003年01月26日版
再編集:2011年07月03日 2017.07.30 2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

伝教大師の如来像
福岡県朝倉町


南林密寺本尊薬師如来像

最澄が朝倉にやってきた

 ときは奈良から平安に時代が変る頃、一人の旅の僧が朝倉の地にやってきた。僧の名前は最澄(さいちょう)
「お坊さん、その水甘いでしょう?」
 喉が乾いて川の水を一口飲んだところで、後から声をかけられた。背中に薪を背負った10歳くらいの少女だった。
「うまいのう。どうしてこの川の水は甘いのかな?」
「教えてあげましょうか」


写真:今も愛される甘水地区の名水

「・・・・・・」
「それはね、上の方に甘い汁を出す大きな椿の木が生えているからよ。案内してあげましょう」
 加世と名乗る少女は、さっさと先を歩き出した。

命を救ってくれた仏の恩

「お坊さんはどこから来たの?」
「生まれたのはここからずっと遠い近江の国滋賀県てとこさ。気がついたときには、湖の南側に聳える比叡山で勉強していた」
「何を習っていたの?」
「いろんなことをね。世間のこと、世界のこと、人間の体や心のことなど何でもさ」
「へえ、お坊さんは偉いんだ。それがまた、どうしてこんな遠い筑紫までやってきたわけ?」
「比叡山の先生が、学ぶべきは海を渡った唐の国にあると言い、空海(弘法大師)というお坊さんといっしょに大きな船に乗せてもらって出かけたのさ。向うでは、朝から晩まで仏さまの教えを学んだね。5年たってやっと日本に帰ることを許されて、つい5日前に博多に着いたばかりさ」


南淋寺

「お坊さんの先生は、比叡山ってとこで待ってなさるだろうに」
「唐からの帰りの船が難破しそうになって、私は看板で船に乗っている人皆さんの無事を祈った。そのお陰でこうして上陸することができたというわけ」
「だから、…どうして真っ直ぐ都に帰らないのかって訊いてるのに」
 加世は、丁寧に話す最澄の言葉をまどろっこしく感じたようだ。
「ごめん、ごめん。私はどうしても助けていただいた仏さまにお礼がしたくて。そこで思いたったのが、上陸した地で仏さまの像を彫ろうと…」
 やっと事情を飲み込んだ加世は、今度は鼻歌交じりで駆け出した。

甘い椿

「これはきれいだ!」
 最澄が思わず唸った。川を挟んで向こう岸に今満開の花を散りばめて椿の大木が根を張っている。
「お坊さん、もう一度水を飲んでみて」
 言われるままに掌にすくって口元に持っていった。この世のものとは思えない甘酸っぱい香りだった。きっとこのあたりに、探す(かや)の木があるはずと考えた最澄は、東の彼方に聳える古処山に向かって登っていった。
「あった」目の前に、まるで手招きでもするように榧の大木が枝を伸ばしていた。
「手伝いましょう」
 あとを追ってきた加世の祖父が、榧の根元に斧を打ち下ろした。その時、「我が名号、ひとたび聞きぬれば、その耳衆の病(ことごと)く除き身心安楽なり」という薬師教が文になって現れた。そして傍の岩にぼんやりと仏の姿が浮かび上がった。
「うおぉっ、薬師如来さまじゃ。薬師如来さまじゃ」

 大師はそのお姿を目に焼き付けた。
「よし、ここで仏さまを刻もう」


最澄が見出した甘い椿が自生する古処山(秋月から望む)

 最澄は、その場に庵をはって身と心を清めると、一斧彫るたびに三度合掌し、二斧彫れば六度拝んだ。21日間、夜を徹して作業が続いて、ついに7体の薬師如来像が完成した。
「わーっ、すごい。お坊さんは彫刻の名人だね」
 加世が感嘆している間に、祖父は出来上がった仏像の前に、「ありがたや、南無阿弥陀仏…」を唱えまくった。
 こうして出来上がった7体の薬師如来も、その夜の大雨で何処かへ流されてしまった。
「いいのです。仏像は必ずどこかに上陸して、どなたか心有る方の手で祀られるはずですから」
 最澄は、惜しむ加世と祖父を前に笑い飛ばして、都に帰っていった。

大師が彫った南淋寺秘仏

その時最澄(比叡山延暦寺を創建した後、伝教大師の尊号を受ける)が彫った「薬師如来坐像」の一体は、筑後川岸にある南淋寺の住職に拾われ、寺内に安置されることになった。
 薬師如来坐像は、現在国指定の重要文化財に指定されている。また、最澄に甘い椿の水を教えた加世がお坊さんの仏像のことを村人に伝えたのだろう、いつの頃からか甘い水の出る場所を「甘水(あもうず)」と呼ぶようになったそうな。現在の朝倉市甘水(旧甘木市)である。(完)

 医王山南淋寺は、大分自動車道の朝倉インターから北へ2`ほど進んだあたりにひっそりと建っている。近くには、飛鳥時代に斎明天皇がこの地に仮宮殿を築いたという橘広庭宮(たちばなのひろにわのみや)跡があり、歴史のにおいが強烈な場所でもある。田んぼと柿畑を縫いながらお寺に着き急階段を登ると、なるほど700年の歴史を肌身に感じた。
 最澄が彫ったといわれる薬師如来坐像は秘仏で、いつでもは拝むことができない。でも、庭を囲むように置かれている無数の仏さまのお顔を拝んで回るだけで、けっこう気を休めることができた。さてさて、最澄が彫った如来像、残りの6体は今何処?
   写真は、南林寺の薬師堂

 南林寺は、甘木バイパスからさらに奥に入った山手の柿畑の中にある。鳥と蛙の鳴き声しか聞こえない静かな所である。最澄和尚が彫ったといわれる薬師如来が流れついたところは、筑後川のほとりであった。だがそこは、毎年のように洪水の被害が出るところで、村人たちはありがたい仏像を、遠く山方に移したのだという。なるほどここなら、少々の大水でも大丈夫だ。(2011年7月1日)

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