伝説紀行 三太夫地蔵  三潴郡


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第228話 2005年10月09日版
再編:2017.12.10 2019.03.10
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

関ヶ原のツケ、八院合戦
三太夫地蔵由来

【参考資料:柳川藩、蒲池・立花史】

福岡県大川市ほか旧三潴郡一帯


中八院の三太夫地蔵

 筑後川下流域の城島町(現福岡県久留米市城島)と大川市・大木町の境界に八院なる地名が残っている。クリーク岸辺の植え込み(右写真)の中には、等身大のお地蔵さんが立っておられた。近所では「立花さん」と呼んでいるそうな。八院合戦で戦死した立花三太夫を供養するための「三太夫地蔵」だとか。
 ここでいう「八院合戦(または江上合戦)」とは、徳川家康が、関ヶ原合戦で西軍についた柳川城の立花宗茂を、懲らしめのために起こした内戦のこと。 関ヶ原の戦いは1600年9月

眼光鋭い旅人が現われた

 時は慶長5(1600)年の9月(旧暦)末。皮のカッパに三度笠、腰に長ドス1本をさした三十過ぎの眼光鋭い旅人(たびにん)が、青木の渡し(現久留米市城島町)を上がってきた。男は、武蔵国の生まれで高幡の弥五郎と名乗り、「前金でござんす」と、流暢な関東弁で旅籠の主人に小判を渡した。
「何百日お泊りのつもりか知りませんが、こんなにたくさんはいただけません」
 主人の徳蔵が押し返そうとする。
「すまねえが、取っといておくんなさい。一人部屋を強請(ねだ)ったり、いろいろ頼みごともしなきゃならねえし、これでも少ねえって思ってるくれえだ」
 弥五郎は、みやげ代わりだと断って、道中関ヶ原で見聞きした東軍と西軍の合戦を面白おかしく語って聞かせた。

柳河攻めが始まるよ

「ところで、西軍にお味方されたうちのお殿さまは、これからどうなるんでしょうね?」
 お殿さまとは、柳川城主立花宗茂のことである。
「さあな。徳川さまときたら、いたって気が短けえ方だと聞いてるから・・・。そんなに遠くねえ時期にこの辺で戦(いくさ)が始まるかもしれねえな」
 他人事のように評論する旅人を、不思議そうに見つめる徳蔵だった。翌日早朝、弥五郎はふいと旅籠を出て行った。10日もたって戻ってきたところで、主人の徳蔵が訊いた。
「なあにね、生まれつき喧嘩とバクチが大好きなもんでさ。それで、柳河とか佐嘉とか、中津、それに熊本の城下も歩いて、いろいろ面白えところを見さしてもらったってことよ」
 聞いている徳蔵の頭のほうがおかしくなりそう。一見何の脈絡もない行き先の何に興味を持ったのか、徳蔵には弥五郎の考えることがわからなかった。

穀倉地帯が血の海に

 弥五郎が予言した「戦(いくさ)が現実のものになった。まず、豊後中津にいる黒田如水(長政の父)が、5000の兵を率いて筑後の水田村(現筑後市水田)まで進軍した。直後に如水の使者が肥前に飛んだ。すると間もなく、佐嘉藩主の鍋島勝茂が2万の兵を率い、大川(筑後川)を越えて柳河領に進攻した。慶長5(1600)年10月19日のことであった。

 鍋島の動きを察知した柳河の藩主・立花宗茂が迎撃しようとするのを、家老以下重臣たちが体を張って阻止した。宗茂の代わりは蒲池城々番(柳河の支城)の小野和泉があたり、僅か1千の兵力で2万の敵に対することになった。写真は、鍋島軍が渡河したといわれる久留米市大善寺(黒田)あたりの旧筑後川
 立花・鍋島の両軍が激突。麦をまくために起こした田は、たちまち血で血を洗う戦場に変貌した。現在の地図で示せば、福岡県の大川市から旧城島町と大木町に跨る広い範囲で死闘が繰広げられたことになる。
 これら一連の動きは、すべて弥五郎が旅から戻ったすぐあとに起こっている。旅籠の主人が彼の行動を不思議がるのも当然であった。当の弥五郎、合戦が始まると、密かに物陰から戦況を眺めていた。
 その鋭い目に、柳河の軍で先鋒を勤める、未だ少年の面影を残す立花三太夫の姿が写った。「無謀だ、やめろ!」と叫ぶが、興奮の坩堝(るつぼ)の中にある三太夫に聞こえるはずがない。「正義は我にあり!」 三太夫は栗毛に跨り、長刀を振りかざして敵陣に突入していったが、たちまち敵の矢弾を受けて落馬し、息絶えた。

大勢死んで城を渡して、・・・終結した

 立花三太夫の戦死を機に、鍋島方の勝利は確実なものになった。宗茂を討つべく、勝茂は柳河の本城に向け進軍を始めた。そこに、黒田如水からの早馬が飛び込んできた。
「待たれい、待たれい。貴殿らの兵は直ちに肥前に引き揚げるべし」 何がなんだかわからないまま、黒田の背後にある徳川に恐れをなす勝茂は、しぶしぶ肥前国に帰っていった。
 柳河の立花宗茂はというと、家老以下に説得されて城を明け渡し、自らの身体を肥後の加藤清正に預けることになった。
 こうして「八院合戦」が終結し、久しぶりに宿でくつろぐ弥五郎に、主人の徳蔵が声をかけた。
「さっぱりわかりませんね、今度の戦(いくさ)は」
「どこが?」
「柳河のご家老さまたちはどうして殿さまの出陣を止めなさったり、城を明け渡すよう説得なさったんですかね? それに、柳河本城を攻めようと言う鍋島さまを、黒田さまが止めなさったわけもわかりませんや」
 しきりに小首をかしげる徳蔵であった。弥五郎は、「権力闘争ってのは非情なものよ」と一言だけ言って、あとは向こうを向いて黙んまりを決め込んだ。
「お客さんはいったい何者なんだい?」 
 改めて徳蔵が訊くと弥五郎、「戦(いくさ)見物が三度の飯より大好きな、江戸の野次馬さあ」と、はぐらかした。

あの戦争って、何だったんだ?

 それから20年近くが経過した。旅籠を閉めて隠居暮らしの徳蔵に、立花宗茂の柳河城復帰の噂が入った。城を明け渡したあと、肥後の加藤清正のもとで謹慎生活を送ったところまでは聞いていた。その後、城に入った田中吉政の血筋が途絶えたたためにお家断絶。その後釜に、奥州にあった立花宗茂に話が舞い込んだということらしい。写真は、城島町の供養塚
 八院合戦で立花と死闘を演じた鍋島も、今では揺るぎない大名の列にいる。めでたし、めでたし。だが待てよ。だったら、あの八院合戦ってのはいったい何だったんだ。やっぱり、豊臣から徳川への政権移譲に伴う、一種の儀式だったのか。
 天下を掌握した徳川は、初めから立花宗茂を殺すつもりなどなかったんだ。それでも、西軍についた大名へのけじめはつけなければならなかった。関ヶ原の合戦から僅かひと月足らずで、未だ権力の態勢すらままならないはずの徳川に、九州の一地方でのケジメというところまで手が回るものかどうか。
 徳蔵は改めて高幡の弥五郎と名乗った旅人のことを思い出した。

「そうか、そうだったのか!」徳蔵は、腕組みをしたまま唸った。あの時の弥五郎と名乗った旅人こそ、徳川家が放った戦後処理の密使だったのだ。中津の黒田如水や柳河の家老ら、肥前の鍋島勝茂、そして肥後の加藤清正にも弥五郎が指示して、一連のことを処理したとすれば、すべて疑問は解ける。

 だが、やっぱり腑に落ちない。徳蔵は村の顔役らと相談して、合戦で犠牲になった兵士や農民を供養する塚の上に石の地蔵を祀った。地蔵には、犠牲者の中の立花三太夫の名を借りて「三太夫地蔵」と名づけた。中八院の人々は、その後もずっと地蔵さんの前で「立花さん祭り」を開催して供養してきたいう。(完)

 街道筋の店のおやじさんが「三太夫は知らないが、立花さんなら知ってるよ」と言って「三太夫地蔵」の在り処を教えてくれた。他人の田んぼを横切って、ようやく三太夫地蔵に巡り会えた。掃除も行き届いているし、前掛けやお供えも新しい。田んぼの持ち主がしっかり面倒を見てくれているんだ。
写真は、一面ヒシ(浮き草)に覆われたクリーク
「俺が子供の頃まで、8月になると立花さん祭りをやっていたがね。村中のもんがお参りしたもんだ。お参りしなきゃ、イナゴが大量発生するって言い伝えがあるもんでね」お祭りがなくなったのがいつの頃だったか、おやじさんにもわからなくなっている。八院合戦の戦場となった八院地区は、筑後地方が誇る典型的な穀倉地帯である。網の目のように張り巡らされたクリークは、何百年経っても現役選手として役割を果たし続けている。
 それにしても、似たような話しがあるもんだ。時の首相が提案した法案に反対した議員に、「政治とは非情なものですね」と嘯
(うそぶ)いて刺客を送り、政治生命を絶とうとするところあたりがね。でもやっぱり、立花さんのクビまでもは欲しがらなかった徳川さんのほうが、少しは人間らしいかな。

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