伝説紀行 修学院の地蔵さん 吉野ヶ里町
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僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。 |
修学院のお地蔵さん 【参考資料:九州の戦国史】 佐賀県東脊振村 「背振(せふり)山脈」という名前は、龍が背を振る姿に似ているところからつけられたといわれる。一番高い背振山(1055b)を中心にして対称に広がり、筑前(福岡)と肥前(佐賀)を遮る屏風の役割を果たしている。この山地、1300年もむかしから、霊山として人々の信仰を集めてきた。山頂には、かつてこの山に降りたったと伝えられる弁財天女を祀る上宮が、中腹には中宮の霊仙寺が設けられていたが、今はその全容を見ることはできない。写真:脊振山頂に祭られる弁財天宮 明治維新以降背振山地に残る寺は修学院のみとなった。そんな修学院も、戦国時代には、地元佐嘉(佐賀)の武将・龍造寺隆信と豊後の大友義鎮(宗麟)が覇権を競う戦場ともなっている。 小僧が大友の兵に声かけられた 時は元亀元(1570)年のある日。背振の山中を寺の小僧が歩いていた。小僧が坂本峠にさしかかると、道端に寝そべっていた男が体を起こした。この峠、以前から筑前福岡と肥前の佐賀を結ぶ重要な往還であった。
子供扱いをされて、竹林と名乗る小僧は怒っている。 戦を嫌いな仏さま 「それなら、道を教えるわけにはいきません」 地蔵さまが寺を救った でも、所詮は大人と子供。そのうちに竹林は袈裟斬りにあって倒れた。痛かったのは小僧の竹林より鎧兜の兵(つわもの)の方だった。子供相手に何時間も費やして、小川内の大友本陣に敵情報告が遅れてしまったからである。既に陽が落ちて、大友の大軍が峠を降りたとき、龍造寺軍は既に本城に引き揚げた後だった。 気持ちが治まらない大友の大将は、通報した兵の言に従い修学院に攻め入った。写真上、六体地蔵尊 夏の盛りに修学院を訪れた。福岡から坂本峠を経由して、佐賀の吉野ヶ里に通じる国道端で案内板を見つけた。急階段を登ると地蔵堂が建っている。お堂の中の地蔵さまは、たくさんの子供たちに慕われるようにして、厳かに下界を見下ろしておられた。地蔵堂脇には、これまた等身大の地蔵さまが6体並んで立っておられた。 |