伝説紀行 向き合い観音  佐賀市(三瀬村)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第220話 2005年08月07日版
再編2019.04.28
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

向き合い観音の由来

佐賀県三瀬村

【関連資料:九州戦国史】


東(手前)と西(向こう側)で向き合う観音さまと

 福岡市内から三瀬峠を越えて、国道263号を佐賀方面に向かうと、左手に観光牧場「どんぐり村」が見えてくる。牧場正面から更に200bほど佐賀方面に向かうと、三瀬村と大和町の町境にあたる向合峠に。別名「向き合い観音峠」ともいう。名前の由来はというと、峠の往来を挟んで西側と東側で観音さまが向き合って祀られているから。
 この道が県道から国道に昇格し、拡張工事を経て開通したのが昭和45(1970)年のこと。それ以前は、写真の階段の最上段(西側)あたりに路面があり、手前(東側)の観音さまと狭い道を挟んで向き合っておられた。(手前が後退りされた)
 むかしからこの道は、博多と肥前(佐賀)を行き来する大切な往還だった。長雨や雪で、旅人が先に進めないほどに混乱したと記録されている。立ち往生した人たちが、右と左の観音さまに手を合わせて、「早く雨がやみますように」とか、「雪が解けて通れるようになりますように」とか、お願いしている姿が目に浮かぶ。だが、向き合い観音さまの由来は、そんな「交通安全」とは別のところにあったらしい。

念仏三昧の女が

 時は国盗り合戦真っ最中の天正時代。街道脇の土盛りに立てられた墓標に向かって、朝な夕な経を唱える女がいた。女は、剃髪して染衣(せんえ)をまとっているから仏門に帰依した尼であろう。博多から佐嘉(佐賀)に商売で出かける中川忠兵衛が声をかけた。


向きあい観音さま

「この観音さまの下には、私の大切なお方が眠っておいででございます」
 尼は、初めて声をかけてくれた忠兵衛に親しみを覚えたのか、墓に眠る仏のことを寂しく語った。

両雄睨みあうなかで、弱小集団は

 尼は元の名前をマツと称し、峠から南東方向に山ひとつ隔てた鳥羽院城の腰元であった。城主の名前は西川伊豫守といい、彼は山内一帯(現三瀬・富士町など山岳と高原)を本拠として勢力をはる神代勝利(くましろかつとし)の支配下にあった。
 当時、肥前国は天下取りの野望に燃える龍造寺隆信と、最近めきめき勢力を伸ばしてきた神代勝利が北と南から睨みあう構図が定着していた。両氏は、時によって睨み合いから戦闘へとエスカレートするが、なかなか決着がつかない。苛つく龍造寺は、神代勝利暗殺の計略をたてた。

 ある夜、鳥羽院の城の塀を乗り越えて忍び込む人影をマツが目撃した。彼女はそのことを家老の三角善政に告げた。怪しい人影は、龍造寺隆信がしたためた文を伊豫守に手渡した。伊豫守は、忍びの者に向かって「謹んで承知仕った」と答えた。西川伊豫守が神代勝利から龍造寺に乗り換えた瞬間であった。写真:神代勝利の墓(旧富士町)
 三角善政は、そこで()るか()るかの勝負に出る。善政は、伊豫守が狩りに出た隙をみて、神代勝利が根城にしている三瀬城に向かった。 

騙したつもりが騙されて

 自分の寝返りが神代に通じているなどとは思わない伊豫守は、次なる手段に動いていた。強力な神代を向こうに回すとなれば、味方は一人でも多いほうが心強い。そこで、三養基の綾部城主や近くの腹巻城主など、日頃近しくしている豪族に同一行動を呼びかけた。伊豫守は、重大な過ちを犯していることに気がついていなかった。それは、家臣や家族、親しい仲間を過信したことであった。近代の政治や経済界でも、指導者と呼ばれる(やから)が、ときとしてこのような過ちを犯すことがよくある。善政だけではなく、複数の豪族からも伊豫守の寝返りが神代勝利に報告された。
 永禄5(1563)年9月9日、恒例の重陽の節句(ちょうようのせっく)が、三瀬城で執り行われた。四方八方から、刃が自分に向いていることなぞ考えもしない伊豫守は、正装して三瀬城に登った。大広間で諸侯を代表して「殿には相変わらずのご健勝で、謹んでお慶び申し上げます」と、挨拶するつもりだった。

重陽:陽数の極である九を重ねるの意味。五節句の一つ。陰暦9月9日の節句。

たった一言が大事に

 ところが、伊豫守が登城するやすぐに別室に通され、一時(いっとき)ほど待たされた後、入ってきた刺客の一突きによって葬りさられた。もちろん、供の者も全員血の海に泳がされた。間髪をおかずに鳥羽院城は神代の軍によって包囲され、城内にいるもの全員が斬り殺された。その中には、伊豫守の寝返りを通報した家老・三角善政も含まれていた。
 たまたま遣いで城外に出ていたマツは、命拾いをした。
「お殿さまもご家老さまも、おかわいそうに…」
 マツは、火の手があがる鳥羽院城を遠くから眺めながら、龍造寺の忍びのことを伯父に告げたことを悔やんだ。彼女は、伝手(つて)(縁故)を頼って西川伊豫守と伯父・三角善政の遺骨を貰い受け、三瀬から佐嘉に通じる往還の峠に埋葬した。

「これがいくさというものです」

 神代勢による鳥羽院城襲撃から3年経って、仏門に帰依したマツは、今もってあのときの無念が晴れることはなかった。
「私が伯父に、忍びを見たことさえ話さなかったら、お殿さまもご家老もあのような最期をお迎えにならずともすんだのです。一生かけて罪の償いをと経を唱えているのでございます」
 マツは、心から同情して聞いてくれた中川忠兵衛に深々と頭を下げた。でも、忠兵衛には符に落ちないことが残った。
「ご家老は神代の危機を救ったんですよね。言わば命の恩人であるお方の命まで取るということ。私ら商人には、どうしても理解できません」


写真:向き合い観音そばのどんぐり村

「これがというものでございますよ。人が人を殺しあうところに正義とか理屈など初めからありはしません。お殿さまの寝返りを密告した家老ですから、神代にとっても、いつ何時自分が狙われる相手になるかわかったものじゃありませんでしょう?」
 何年かたって、中川忠兵衛が再びマツ尼に会おうと庵を訪ねた。しかし、そこはもぬけの空だった。
 それから200年もたった安永年間、奇特なお方が峠の往還を挟んで西と東に一体ずつ観音像を寄進なさった。西川伊豫守と三角善政の墓の真上にである。このところの峠周辺には、黒髪を垂らして口が耳まで裂けた女の幽霊が出没するという噂が耐えない。また、荷を運ぶ牛や馬が崖下に転落する、旅人が神隠しに遭う、など峠には不可解な事件や事故が相次いだ。占い師によると、戦国時代に殺された武将や女房らの怨霊だろうということになった。
 これが、今も「向合観音」として残る峠の名前の始まりだそうな。偶然なのかどうか定かでないが、仏門に入ったマツが庵を結んだという場所には、「比丘尼田(びくにだ)」という地字名が残っている。(完)比丘尼:出家した20歳以上の女。尼。

 「向合観音」が祀られている国道263号は、福岡市早良区の修猷館高校前を基点にして佐賀市に至る46キロの一般国道である。一昔前までは、三瀬峠を越えるのも、高原から川上峡に降りるヘアピンカーブも並みではなかった。峠に立つと、長雨や降雪・強風に悩まされた旅人の苦労が手に取るようにわかる。そんな折り、道の両側の観音さまがどれだけ励ましてくれたことか。
 嘉瀬川べりの高台にある神代勝利の墓を訪ねた(2019年現在は嘉瀬川ダム脇に移転している)。周囲に並ぶ墓石には、「・・大和尚」などお坊さんの名前が連なっている。神代勝利が、死出の道案内をお坊さんに頼んだのだろう。
「これが戦
というものでございますよ」と答えた腰元マツの台詞(せりふ)を思い出した。「大量破壊兵器を持つからイラクを攻める」と言った大義名分が消え去ってもなお、戦争を続けるアメリカ。日本の政治家は、憲法九条の「戦争放棄」を削除しようと必死。総理大臣は、何百万人もの犠牲者を出した戦争犯罪人を尊敬してやまないのだ。
 そんな世相の戦後60年である。日本全国あらゆる場所が「合戦場」と化した400年前の戦国時代を振り返るのも無駄ではないかもしれない。そんなことを考えながら、神代勝利の墓周辺を歩いていると、いたるところで「テロ警戒中」の看板が目に付いた。国民の反対を押し切って巨大なダムを造る人も、寝首をかかれる恐怖で慄く時代なのかもしれないな。

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