伝説紀行 竹ノ首と田北塔 大友宗麟 日田市(大山町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第196話 2005年02月20日版
再編:2017.03.26 2019.03.10     
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です。

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るとき、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

血で血を洗う身内戦争

竹ノ首と田北塔

大分県大山町


古戦場を見つめる田北塔

 国道212号を日田から杖立方面に向った先の、松原ダムのすぐ下流に、「田北塔」なる聞きなれない看板がたっている。 この塔、戦国時代に古戦場で滅んだ大友宗麟の家臣を供養するものだそうな。
 塔が見下ろす弓なりの川原が、大友軍と家臣一族の激闘の跡だって。血で血を洗う戦国の世とはいえ、身内同士の争いほど凄惨なものはない。

13人の女が山道を西へ

 天正時代のある秋晴れの五馬(いつま)高原。男に案内されて13人の女たちが西に向かっていた。主人風の女は、竹田城(岡城)の主・田北大和守鑑重(入道名:紹鉄軒)の妻の弥生で、お供が家来の女房たちであった。
「もうすぐ、河原という部落が見えてきます。そこの酒屋で弟の文六と落ち合うことになっておりますゆえ、お殿さまと合流できるのも間もなくでございます」
 道端の切り株に腰を下して疲れを癒している弥生に、男が告げた。男は、紹鉄軒入道に仕えてきた下男であった。
「そこな酒屋の主は、真に味方であろうな?」
 弥生の身辺を警護する侍女の玉江が訊いた。
「それはもう。屋号を臼屋と言いまして、以前竹田の城下で商売をしていた者でございます。お城の皆さま方にお世話になった者ですから安心です。先日奥方さまをお迎えに上がる際立ち寄りまして、くれぐれも粗相のないよう言いつけております故」

告げ口がもとで

「田原近江の謀(はかりごと)さえなければ・・・」
 玉枝の口からは、つい繰言が出てしまう。
「愚痴は言うまいぞ、玉江」
 そんな侍女を弥生が諌めた。その玉枝の愚痴とは・・・
 大友義鎮(よししげ・宗麟)の覚えもめでたかった田北鑑重は、竹田の城(岡城)を任されている。その頃の宗麟は、宿敵の毛利氏を九州から退けて豊後・豊前・筑後・筑前・肥前・日向と四国と伊予の半分を手に入れ、大大名へとのし上がっていく時期であった。


写真:古戦場跡の集落

 紹鉄軒入道の出世を快く思わない同じ家老格の田原近江は、ありもしないことをでっち上げて宗麟に告げ口をした。田北が、敵方の龍造寺隆信と通じていると言い出したのである。それを聞いた宗麟が烈火のごとく怒った。
 その様子を聞きつけた府内の武士が、恩ある田北さまの一大事とばかりに竹田に向けて早馬を飛ばした。知らせを受けた田北入道は、このままだと一族すべてが打ち首か切腹を免れまいと判断する。宗麟の誤解が解けるまで、持てるだけの財宝と生活用品を馬の背に乗せて、隣接する熊群山に逃れた。
 田原近江が紹鉄軒入道を捕まえに竹田に着いたとき、城は既にもぬけの殻であった。近江は豊後国全域にお触れを出した。
「田北大和守が大殿に反逆した上に、無責任にも預かりし岡城(竹田城)を投げ捨てて他国に逃亡せるは許し難きことなり。よって、それなる罪人を見かけたるもの、直ちに近接の役所に届け出るべし。届けたる者には、大殿より過分の褒美が下される」と。
 かくして、妻の弥生をはじめ13人の女房を隠れ家に残して、入道一行のあてどない逃避行が始まったのであった。

か弱い女が険しい山道を

 取り残された弥生と女房ら12人は、隠れ家で殿からの知らせを待っていた。そこに夜陰をついて下男の与助が飛び込んできたというわけ。
「お殿さまは久住の南側を通って五馬の荘へと進まれました。お殿さまは芋作台で、私めに『大山川の急流を渡ってしまえば、永久に離れ離れになるゆえ、奥方さまを迎えに上がれ』とのことでございました。五馬市の河原(地名)の臼屋まで行けば、弟の文六がその先を案内する手はずになっております」
 弥生と女らは、慌てて旅立つことになった。
 行けども行けども山また山で、人の気配などまったくない。持ち合わせの食料も乏しくなり、肌着の洗濯さえもままならず、それまでの貴婦人としての誇りも捨てなければならなかった。


写真:竹の首を流れる大山川

 臼屋に着いた一行は、主人の又兵衛に案内されて2階の座敷に通された。与助と長刀(なぎなた)使いの女房が、交代で外の見張りにあたった。それから待つこと3日。百姓姿に身なりを変えた与助の弟の文六が、疲れきった表情でやってきた。
「残念ですが、お殿さま以下お身内のすべての方があえない最期を遂げられました」
 泣きじゃくりながら話す文六の口元を、弥生はもどかしさを我慢しながら見つめていた。

行く先々に手配書が・・・

 紹鉄軒一行100人は、熊群山から久住の山伝いに五馬の高原へ。芋作台で与助に弥生を迎えに行くよう言いつけて、大山川に出ようとした。しかし、行く先々に田原近江のお触れが行き届いていて、人里にはまったく近寄れない。仕方なく山道を選ぼうとすれば、そこは鹿でさえ越えられない断崖絶壁であった。それでも一族が生き延びるためにと、獣道を頼りに先に進むしかなかった。
 ようやく大山川の岸辺の竹ノ首にたどりついた。だが、川幅いっぱいに流れる激流は、ちっぽけな人間を寄せ付けてくれそうになかった。
「女どもが追いついてくるまでに、邪魔な馬は殺せ。それから、財宝は河原の地中に埋めるよう。目印を立てておけば、やがてまた、我がもとに還ってこよう」
 紹鉄軒入道の一行は、川岸での野営を始めることにした。その間に、家来たちは黙々と筏を編んだ。急流を渡る仮橋を作るためである。その様子を向こう岸から見ている者がいた。

密告から戦闘に

 大山の荘で百姓を仕切る養父右馬丞とその輩下であった。右馬丞は入道の動きを日田常駐の老中に密告した。もちろん、「通告者への褒美」が目当てである。右馬丞も紹鉄軒とその一族の薦めで今の地位を得たものだったのだが。彼は、百姓を総動員して行く手を完全に封鎖し、日田からの役人の到着を待った。
 紹鉄軒入道の家来が、対岸の怪しげな動きを察知した。
「こうなれば、女たちの到着を待つわけにはいかぬ。ただちに仮橋を渡って筑紫に向かうべし」
 入道は、下男の文六に弥生への知らせを託して、渡河を始めようとした。そのとき背後から、味方の10倍もの兵士が一行目掛けて襲いかかった。


「捕えられて死ぬのは武士の恥。最後の一兵まで戦おうぞ!」
 紹鉄軒入道の采配で、竹ノ首の川原は一瞬にして戦場と化した。だが、勝敗の行方は戦う前からわかっている。抵抗を続ける田北勢は、見る見るうちに急流に飲まれて数を減らしていった。そして、大将も、名もない雑兵の竹槍に首筋を射抜かれて最期を遂げた。

裏切り者の餌食に

「皆さま、田北の名に恥じぬ立派なお働きでございました」
 竹ノ首での戦闘の一部始終を物陰から見ていた文六が、涙ながらに奥方の弥生に語った。そのとき、臼屋の表が騒がしくなった。駆け上がってきた与助の口元が、破れんばかりに震えている。
「臼屋は、日田の役人が100人ほどの兵に取り巻かれました」
 それまで弥生を庇うようにしていた玉枝が、与助の襟首を掴んだ。
「誰じゃ、我らがここにいることを田原方に密告した者は?まさか・・・」
 どやどやと階段を駆け上がってくる役人たち。その先頭に臼屋の主人又兵衛がいた。
「ご免なさいよ。私らだって豊後で生きていくためには、こうするよりほかなかったんですよ」
 又兵衛は、鋭い槍の矛先に守られるようにして、弥生主従に開き直って見せた。間もなく女13人と与助兄弟は荒縄で縛られて捕り物籠に閉じ込められた。これまた、日を置かずして全員処刑台の露と消える。

 後年、歴史を紐解くうちに、臼屋から引っ立てられた女は、入道夫人を含めて一人少ない12人だったと言う人が出た。役人のお縄を掻い潜った女は、戦場となった竹ノ首から杖立川(筑後川の上流)を遡っていき、やがて小国の里の知り合いに匿われたとのこと。彼女の子孫が現在も北里の汐井川の付近に住んでいるとも聞いた。(完)

「田北塔」の看板を左に、脇道を進んだ後急斜面を登っていくと、いにしえの戦で破れた武将の供養塔が建っている。石祠から真下を覗くと、曲がりくねった大山川が見え、その向こう岸が古戦場の竹ノ首である。そして、遥か上流には、巨大な松原ダムのアーチが望めた。
 味方の裏切りの連続から、悲しい伝説の舞台となる竹ノ首の川原だが、ダム建設のお陰で当時の激流渦巻く荒々しい流れは想像するしかなかった。
 さてさて、またも変な空想が頭をもたげ始めた。紹鉄軒入道が竹ノ首の川原に埋めたという財宝の行方である。度重なる大水やダム建設の際流されてしまったか。それともまだどこかに隠れたままなのか。そうであれば、目印がどこかに潜んでいるはずだが・・・

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