伝説 玉鶴姫 柳川市(大和町)


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第044話 2002年01月27日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことが目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所でだれかれとなく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

玉鶴姫の意地
塩塚の百八人塚由来

【関係資料:柳川藩史外】

福岡県柳川市(旧大和町)


宗樹寺境内の百八人塚

 400年以上もむかしの戦国時代、柳河(柳川)城主だった蒲池鎮並(かまちしげなみ)の夫人が今回の主人公。

実家から夫に招待状

 佐嘉(佐賀)の藩主龍造寺隆信から蒲池鎮並に親書が届いた。
「娘の輿入れ以来、婿殿とは一度も会っていない。当方に新しい城もできたことだし、ぜひとも婿殿に見てもらいたい」という内容の招待状であった。娘とは、鎮並の妻玉鶴のことである。

 義父からの誘いを断れず、鎮並は天正9(1581)年5月26日、家来・芸人など300人を率いて柳河城を出立した。

身も心も夫に捧げる妻

 織田信長が琵琶湖畔に安土城を築いて間もない頃である。九州でも大内・少弐・大友など大物大名たちが、「隙あらば」と他国領土の奪取を狙っていた
 龍造寺隆信もそんな野望を抱く武将の一人である。目に入れても痛くない玉鶴姫を鎮並に嫁がせたのも、末は筑後を我が支配下に置こうとの魂胆からであった。柳河に輿入れした玉鶴姫は、祝言の席で鎮並に誓った。

「蒲池鎮並殿の嫁となったからは、身も心も柳河の人間でございます。例え父隆信の意志がどうあろうと、私はあなたさまにお尽くしいたします」と。
 鎮並が薩摩の島津と結んだらしいとの噂を聞いた龍造寺は、柳河を力づくで制圧することを考えた。そんな折りの龍造寺隆信から鎮並に宛てた招待状である。
「お殿さま、けっして父の誘いに乗ってはなりません。あの父のこと、腹の底で何を考えているかわかりません」
 玉鶴が止めるのを振り切って、鎮並は大川(筑後川)を渡り佐嘉(佐賀)に向かった。

愛する人を父に殺され

 玉鶴がいっときも落ち着けないでいるとき、城内に早馬が駆け込んできた。乗っているのは鎮並一行の護衛にあたっているはずの吉田歌右衛門であった。
「大変でございます。お殿さまが龍造寺に殺されました。ついて行った家来衆や芸人も皆殺しにあいました」
 歌右衛門が話すには…、
 柳河城を出た鎮並の一行は、筑後川を渡って肥前の与賀明神(佐賀市近く)にさしかかったとき、龍造寺の家来に襲われた。無防備の鎮並一行が全滅するのに時間はかからなかった。一行の先導役として、行列の一里先を行く歌右衛門が異常を感じて引き返したときはすべてが終った後だった。(写真は、復元された塩塚城)
 抱いていた不安が的中し、玉鶴は悲しさのあまりその場に崩れた。「なんで旦那さまは私の言うことを聞いてはくれなかったのか」と悔しがっても、すべてが後の祭りであった。

支城に籠もる

 柳河城では家老以下重役が協議を重ねたうえで徹底抗戦を決めた。龍造寺は、かねて通じあっていた蒲池の家来筋田尻鑑種(たじりあきたね)に柳河攻めを命じた。城に立て籠もる蒲池勢を田尻軍は容赦なく攻め立てた。家老は、玉鶴姫に一里(4`)離れた支城の塩塚城へ避難するよう勧告した。
「柳河の家来までも巻き込むような卑怯な父に、最愛の夫鎮並の血筋を絶やさせてなるものか」
 玉鶴姫は生後間もない姫を忍びの者に預け、500余名の家来を引き連れて、塩塚城に立て籠もった。
 攻める田尻鑑種の兵も、追い詰められた鎮並勢も、きのうまでの兄弟であり同士である。彼らが槍を突き立て、剣を切り結んで殺しあう様は、まさしく地獄絵であった。戦いは延々と続いた。そして、城内いたるところに息耐えた兵士の亡骸(なきがら)が転がった。

 その時、龍造寺から遣わされた忍者が玉鶴姫の前にづいた。写真は、柳川城址
「姫、お父上の命によりお助けに参りました」
 玉鶴は忍者に言い放った。
「帰って父に伝えるがよい。わらわは龍造寺隆信に闇討ちされた蒲池鎮並の女房なるぞ、と」
 国盗りの鬼と化した隆信は、せっかくの救いの手を拒否した娘を許さなかった。姫もろとも塩塚城殲滅(せんめつ)の手段に出た。抵抗もこれまでと判断した玉鶴姫は、お付の者と水盃を交わした後、真っ先に懐剣を喉に突きたてた。姫に仕える女たちも、次々に生命を絶っていった。このとき姫といっしょに死出の旅に発ったもの108人だったという。

 500年前に蒲池一族が創建した柳河城は、北原白秋の生家の近くにある。天守閣があった高台には、樹齢を重ねたケヤキが一本、木の根元には誰がお祭したのかお地蔵さんが佇んでおられる。国道208号線を南下すると西鉄電車の塩塚駅がある。食堂のおかみさんに訊いて、「百八人塚」のある宗樹寺にたどり着いた。農民が、玉鶴姫と行動をともにした侍女たちに同情して築いた供養塚だとか。
 塚の標識には、「蒲池漣並
(鎮並のこと)夫人外百八名塩塚落城殉難の地」と書かれてある。住職の奥さんは、「私が嫁にきた頃は、ここに大きな土盛が残っていました」と説明してくれた。
 道を尋ねるために立ち寄った仕出屋の女将さんは、「ほら、久留米出身で、赤いスイトッピーを歌っとる人気歌手がおりまっしょうが。あの人が蒲池の殿さまの子孫げなですよ」だと。

 玉鶴姫のあのときの執念が、いま紅白歌合戦のNHKホールに甦ったのだろうか。(2002年1月)

柳川城(昔は柳河または簗河とも言った)
 文亀年間(1501〜1501)に蒲池治久によって築かれ、蒲池氏の本城となった。蒲池治久の曾孫(ひまご)・鎮並が天正9(1581)に龍造寺隆信によって謀殺され、蒲池氏は滅亡する。
天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州平定後に筑前立花城主の立花宗茂が13万石の城主に。関ヶ原の戦で西軍についたために立花氏は追放され、代わって三河の岡崎から田中吉政が赴任した。その後田中吉政と継嗣が相次いで死去してお家断絶。再び立花宗茂が柳河に呼び戻される。以後、立花氏12代の居城として明治まで続いた。

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