お江戸に続く綾瀬川   はた織り始め 結婚・出産  ふるさと後に 
 第2章 生国、宮ヶ谷塔

お江戸に続く綾瀬川

 トクは、今日も賽の子河岸(さいのこがし)の荷揚げ場に座り込んで、人夫たちの動作を見ていた。賽の子河岸とは、彼女が住む宮ヶ谷塔近くを流れる綾瀬川に造られた川港のこと。トクは、今年8歳(数え年)になったばかりの女の子である。


かつての賽の子河岸

「また来てるね」
 河岸で荷の揚げ下ろしを仕切る政三が、仕事の手を休めてトクの隣に腰を下ろした。
「あの船には何が積んであるの?」
 知りたいと思ったわけではないのに、聞いてしまった。
「ああ、積荷のことか。あいつらが下ろしているのは、みんな江戸から運んできたものさ」
「江戸って? この川はお江戸に続いているの?」
「そうさ。ずっと下っていけば荒川に出て、そこから江戸の真ん中に行きつくのさ」
「へえ、お江戸に繋(つな)がっているんだ。それで、荷物の中身は?」
「田んぼや畑に撒(ま)く肥やしだよ。それに、酒とか油とか、塩なんかもな」
「どうして、お江戸から?」
「肥やしとか酒は、この辺では造っていないからね」
 こうなったら、トクの質問は止まらない。
「この船は、またお江戸に戻るの?」
「船も俺たちも休んでる暇なんかあるもんか。積荷を下ろしたら、今度はこちらの荷を載せて江戸まで運ぶのさ」
「こちらの荷物って?」
「ほら、原市道(はらいちどう)を通って馬車がたくさん寄ってくるだろう。あの車に乗っている米や麦や野菜を江戸に運ぶのさ」
 目の前の荷物が、昨日まではお江戸のどこかにあったと思うだけで、トクには不思議な気持ちが湧(わ)く。この川港、江戸期から明治〜大正まで、東京(江戸)と岩槻(いわつき)・大宮地域を結ぶ貨物輸送手段として、重要な役割を担っていた。綾瀬川には、賽の子河岸のほかにも、上流・下流にいくつもの川港が連なっていた。
「それじゃ、あたいもこの船に乗っていれば、明日にはお江戸に行けるんだね」
「おいおい、物騒なことを考えるんじゃないよ。この船は人さまを乗せるもんじゃないからね」
 笑いながら政三が立ち上がった。
「おまえら、いつまで荷下ろしに手間取ってるんだ。下ろしたら、さっさとそこの俵を積み込め」
 政三に怒鳴られて、若い衆の作業が忙しくなった。河岸にある荷を軽々と担ぎ、次々に甲板に積み上げていく。
「さあ、出港だ」
 政三の合図で、それまで荷の揚げ下ろしをしていた連中が、今度は両岸に分かれて、船の舳先(へさき)に括りつけてある綱を引っ張った。
 当時この手の運搬船には発動機はついておらず、人間が両岸からロープで引っ張っていた。下流に出れば川幅も広くなり、そこで大きな帆掛け船に積み替えられて大川に出る。賽の子河岸の男たちの仕事はそこまでで、船は賽の子河岸から妙見河岸(柏崎村)、新河岸(新和村)、蒲生河岸(蒲生村)、谷古宇河岸(北足立郡草加町)で荷を積み足しながら、隅田川を経て江戸の港に着くことになっていた。綱で船を引っ張る男たちにとって、下りは楽だが、流れに逆らう上りは4〜5人が力任せで船を引く重労働であった。
 トクは翌日も朝から賽の子河岸に来て、昨日と同じ場所で同じように男たちの力仕事を眺めていた。遊び仲間が、村中(むらなか)の覚蔵院(かくぞういん)に設けられた寺子屋に出かける間の暇つぶしである。


覚蔵院(宮ヶ谷塔歴史巡り案内)


トクが住む宮ヶ谷塔村は、現在の東北自動車道岩槻インターに近く、東武野田線の七里(ななさと)駅と岩槻駅(いわつきえき)の中間にあたる。始発の大宮からだと、15分も乗っていれば七里駅に到着する距離である。
 トクは、明治維新から遡ること30年ほど以前の天保10(1839)年12月1日に、農業を営む小川家の善五郎・チエ夫婦の間に生まれた。彼女が6歳になった頃に、両親ともはやり病に襲われてこの世を去った。両親の遺体は、家の裏にある小川家の墓に埋葬された。
 父母の法要の日、トクは両親が眠る墓の前にいた。菩提寺である覚蔵院の住職は、線香を立てるとすぐに読経を始めた。トクには住職が唱える経の抑揚が、父と母を責め立てているように聞こえた。
「いやだ、父ちゃん、母ちゃんをいじめるもんは好かん」
 突然住職に食ってかかると、そのまま駆け出した。原市道から少し入ったところの氷川神社(ひかわじんじゃ)に着くと、拝殿の階段に額を押しつけて泣きじゃくった。何が悲しいのか、自分でもわからない。
 祖父と祖母は、すぐに泣いたり拗(す)ねたりする孫娘に、ほとほと手を焼いていた。それでも、小川家を存続させるためには、この一人娘を粗末にすることはできない。


宮ヶ谷塔の氷川神社

「早よう大きゅうなって、婿養子を貰うて、丈夫な男の子を産んでくれ」
 祖父は、成長する孫に向かって、そのことばかりを繰り返した。父ちゃんと母ちゃんだったら、そんなことは言わなかったろうと思い、両親の墓の前で泣いてしまう。目の前の墓石は、唯一甘えられる相手なのである。
 トクが10歳になった。この日も、足は賽の子河岸に向いていた。船が出た後で、河岸に男たちの姿はなかった。仕方なく引き返すうちに、2歳年上の清吉の家の前で立ち止まった。清吉は物心ついた頃から、木登りや独楽(こま)まわしを教えてくれた大好きなお兄ちゃんである。

はた織り始め

「ご免ね、あの子は、小深作(こふかさく)の叔父さんとこに使いに行ったわ」
 清吉の母親の郁枝は、はた織りを続けながらトクに謝った。このまま家に帰ってもつまらないし、しばらく郁枝の仕事を見ていることにした。郁枝は一時も休むことなく、交互に踏木(ふみき)を動かしている。足の動きに連動させて、右から左へと杼(ひ)を投げる。杼がタテ糸の間を潜ると、今度はヨコ糸を筬(おさ)で力強く締め付ける。同じ動作が繰り返されるたびに、織物の面積が広がっていく。トクには郁枝の動作が魔法使いのそれに見えた。


埼玉地方の高機(蕨市歴史民俗資料館)

「あれ、おトクちゃん、まだそこにいたの」
 取り付かれたように見入っているトクに気がついて、郁枝が忙しい手を休めた。
「そんなに、はた織りが面白いかい?」
 トクが黙ったまま頷(うなず)くと、郁枝は息子の清吉に代わって、しばらく相手を務めることにした。
「はた織りのどこがそんなに面白いの?」
「おばちゃんが、足と手を動かすと、布(きれ)がどんどん出来上がるところ」
「おトクちゃんも、やってみるかい」
 郁枝に促されると、トクは嬉しそうにはたの前に座った。指図されるままに杼を投げ、タテ糸の間に通したヨコ糸を筬(おさ)で締め付ける。踏機まで届かない足は、その都度交互に片足を伸ばして動かした。足と手の動きに合わせて、「カタリンコ、トントン」と快い音が返ってくる。
 トクは、帰宅するなり祖母のムツヨに、清吉の家でのことを報告した。祖母は孫娘がはた織りに興味を示したことを喜んだ。早速納屋から古い織機を取り出してきて縁側に据えた。トクは時間が経つのも忘れて杼を投げ続けた。やっていてわからないことがあると清吉の家に飛んで行き、郁枝に教えを請う。それがまた楽しかった。
 ムツヨは、孫のために綿の種を撒いた。埼玉地方でも秩父や川越など比較的高地では、桑を栽培して生糸を生産したが、岩槻(いわつき)など低地では綿花栽培が盛んであった。岩槻に近い宮ヶ谷塔の農家も、麦の裏作として盛んに綿を栽培していた。
「こんなにきれいな布(きれ)を織ることを、誰が考えだしたの?」
 トクは、木綿織りのことをもっと知りたくて、郁枝に質した。
「おトクちゃんが生まれるずっと前のことだけどね。塚越村に高橋新五郎さんという人がいてね。そのお人が工夫して、ここにあるようなはた織り機械を作りなさったそうだよ」
 郁枝が語る高橋新五郎は、宮ヶ谷塔から南方に3里(12`)の塚越村(現蕨市)に住む百姓であった。農業だけでは暮らしが厳しくて、自家で紡いだ綿糸を、15里(60k)も離れた足利まで売りに出かけていた。
 新五郎の息子(世襲)は、商売先の足利で購入した高機(たかばた)で青縞(あおしま)を織り始めた。青縞とは、半纏(はんてん)などに使う藍染めの木綿織りのことである。大消費地である江戸に近いこともあって、商いは大成功した。これが、高橋家での本格的な織物稼業の始まりである。
 高橋新五郎は、青縞を売り出した後、今度は江戸の町民が好む絹織りや絹に似せた縞を織った。これがまた江戸の女性に大いに受けた。そこで高橋は自家生産を打ち切り、すべて出機(だしばた)制に切り替え、自らは親機(おやばた)に徹することになった。「出機(だしばた)」とは、親機が糸を買って下ごしらえをして、農家などに賃織りさせることである。
 高橋の出機(だしばた)方式は、たちまち類を呼び、近隣に何軒ものはた屋が誕生する。農家の女たちは現金収入の手段として、はた屋からタテ糸とヨコ糸を預かって布を織り、手間賃を稼ぐ。織機を持たない農家には、その都度はた屋が貸し出した。女たちの副業としてのはた織りは、その後日光御成街道(にっこうおなりかいどう)を伝うようにして、江戸との境を流れる荒川近くまで広がったという。
 更にその息子の高橋新五郎(世襲)の時代になって、絹織りや絹に似せた縞織りを進めて繁盛することになる。その内に、川越からやってきた商人が、輸入糸を駆使した二タ子織を伝授したことで、蕨地方の縞織はますます進化することになる。これが後に小川トクが久留米地方で興す双子織のおおよその前身である。新五郎の二タ子織は、縦に42番、横に30番など比較的太目の糸で織った丈夫一点張りの布地なので、農民や商店の奉公人などの着衣として重宝がられた。二タ子織が流行り出したのは、トクが宮ヶ谷塔を後にして、江戸に向かう丁度その頃であった。

結婚そして出産

 はた織りに興味を示したトクは、一日中織り機の前から離れなくなった。杼を投げるだけの作業では物足りなくなると、タテ糸の間にヨコ糸を導く杼の滑りや、タテ糸の張り具合を工夫するようにもなった。15歳の頃である。
「少し休みましょうか」
 放っておけば次から次に教えを請うトクに、郁枝が水をさした。お盆に盛った草加せんべいを取り出すと、奥にいる清吉を呼んだ。
「何がそんなに面白いのかね、木綿を織るくらいのことが」
「男にはわからないのよ」
 トクが言い返すと、郁枝も彼女に味方をした。
「そんなことばかりしていると、嫁さんにしてやらないからな」
「あんたなんかの嫁さんになるくらいなら、死んだほうがましだわよ」
 二人の口喧嘩を、郁枝はせんべいを頬張りながら嬉しそうに聞いていた。
 18歳になると、トクのはた織りの腕は、近所の誰にも負けないくらいに上達した。苦しい農業経営を強いられる時代であり、彼女がはた屋から受け取る手間賃は、家計を大いに助けることになる。
 清吉も20歳を過ぎて、賽の子河岸の政三のもとで働くようになった。大八車が河岸に着くたびに、江戸に向かう船に荷を積み込む重労働である。その頃のトクは、将来清吉の嫁さんになることを心に決めていた。2人は、清吉の仕事が終わると、氷川神社境内での語らいを楽しんだ。

 そんな折、祖父の為太郎がトクに真顔で話しかけた。
「お前の婿を決めたから」
 突然の話で、どう応えてよいか迷ったまま、トクは首を横に振った。
「お前と清吉のことは村でも評判だ。だが、あいつは長男だし、うちとは家柄も違う。お前の婿養子にはできねえ」
 為太郎の表情には、一歩も譲らない強い意思がにじんでいる。祖母もまた祖父の言い分にいちいち同調した。祖父母とトクの真剣勝負はそれから幾晩も続いた。
 そんなことがあってしばらくして、清吉が村から消えた。郁枝に行き先を尋ねるが、「江戸に行った」と答えるだけで、詳しいことは何も教えてくれない。


宮ヶ谷塔の旧道

 結局、トクは祖父が用意した縁談を受けるしかなかった。相手は隣村の虎蔵といい、大きな農家の次男坊だった。中に立った伯父の話だと、大変まじめな男で働き者だという。これで小川家も万々歳だと、祖父母は有頂天であった。
「まじめで働き者」とは、伯父や祖父がトクを説得するために作り上げた触れ込みでしかなかった。祝言が済んで何日たっても、虎蔵に働く気配は見えない。朝から座敷で横になったきりで、畑に出ようともしない。夕方になると、ムツヨにねだって金を持ち出し、夜遅くまで飲み歩いた。
 こんなグウタラ男とは1日も早く別れなければと思うのだが、祖父が許してくれない。「辛抱、辛抱」を繰り返すばかりである。トクは、自分が妊娠していることに気がついた。次第に膨らんでいくお腹を見ながら、あんな男の子供なんか産みたくないと悩んだ。それもままならず、難産の末に男の子を生み落とした。祖父はその子に「栄三郎」と名付けた。あんなに嫌がった出産であったが、乳首に食らいつく子供の目を見ていると、この子だけは我が身を犠牲にしてでも立派に育て上げなければと心底から思うのだった。
 子供ができても夫の遊び癖はいっこうに改まらなかった。それどころか、最近では家を出たまま3日も4日も帰らないことが多くなった。たまに帰っても、ムツヨに金の無心をするためで、我が子を抱こうともしない。
 今からでも遅くない、別れたいと何度も為太郎に願い出た。だが、祖父は世間体を気にするあまりにまともに応えてくれない。そのうちに、ムツヨがトクに泣きついた。
「最近虎蔵さんは、街に出て悪い仲間と付き合っているって噂だよ。家の金もなくなったし、こうなれば田んぼを売るしかない。虎蔵さんに何とか言っておくれでないか」
 だから言ったじゃない、と言い返したくもなるが、祖母に食ってかかったところで何の解決策にもならないことくらいわかっている。
 日ごとに成長する栄三郎のためにも、働いてお金を稼がなければならない。トクは、はた織りの手間賃だけでは間に合わず、はた屋(親機)と織り手の繋ぎ役まで引き受けた。いわゆる出機(だしばた)屋の使い走りである。はた屋からタテ糸とヨコ糸を預かり、それを織り手である農 家の主婦に届ける。織り終わる頃を見計らって出向き、完成した布地を回収してはた屋に渡す仕事であった。
 農家では縁先に座り込んで、はたを織る主婦と世間話を交わした。トクから織り手の意見を聞いたはた屋は、また新しい柄や技術を開発した。決められた仕事をこなすだけでは飽き足らず、機械の構造から布地の模様まで考え出す快感を会得したのはこの頃である。

ふるさと後に

 いくら仕事が順調にいっても、女手一つで祖父母と夫・子供を食べさせていくのは容易なことではない。為太郎は、少しだけ残った畑に野菜を植えて自給の足しにした。それでも虎蔵の遊び癖はいっこうに改まらない。そのうちにムツヨやトクの着るものまで持ち出して金に換える始末。このままでは、自分はただの働き蜂に終ってしまう。たとえ大好きなはた織りができなくても、女が生き甲斐を持てる道を見つけなければ・・・。夫のだらしなさを見るにつけ、トクは考え込んだ。
 そんな時、突然清吉から呼び出された。トクは、高まる気持ちを抑えて氷川神社の境内に出向いた。彼は2年前に姿を消した理由(わけ)を話した。母郁枝に、トクの幸せを思うなら、宮ヶ谷塔をしばらく離れるよう促されたのだと言う。その間の事情はトクにも薄々わかっていたことではあったが、自分はさっさと結婚してしまった手前、清吉に恨みを言うことはできなかった。
「お江戸か、いいなあ。あたしも行きたいな」
 トクの口から、つい本音が漏れた。
「お前、子供もできたっていうじゃないか。何がそんなに面白くねえんだ」
 一度は結婚の相手にと思った男を前にして気が緩んだのか、これまでの辛い日々のことを告げた。
「ここを離れて、子供はどうする?」
「もちろん一緒さ。でも、亭主や祖父(じい)ちゃんに知れたらただでは済まないだろうな。だから、内緒で・・・。江戸で母子(おやこ)が暮らしていける働き口を探してくれないかな」
「それはいいとして、お前にとって飯より好きなはた織りはどうする?」
「栄三郎が大きくなるまで、頭の隅にでも仕舞っておくわ」
 ひと月もたって、賽の子河岸で働く男が清吉の伝言をもってきた。八丁堀の口入屋(くちいれや)に頼んでいた働き口が見つかったと言う。この機会を逃して、今の生活から抜け出すことはできない。トクは未だ乳飲み子の栄三郎と一緒に家出をする決心を固めた。亭主はもちろんのこと、親代わりに育ててくれた祖父母も、ふるさとまでもきっぱり捨てる覚悟であった。
 江戸に出るのにそれほど不安はなかった。朝早く宮ヶ谷塔を発てばその日のうちに着ける距離だし、あちらには頼りにする清吉が待っていてくれる。江戸の事情についても、清吉や賽の子河岸の人夫などから聞いていて、そんなに遠い国には思えなかった。
 夜明け前、眠っている栄三郎を背負って裏口を出たところに、為太郎が立ち塞(ふさ)がった。
「出て行くなら一人で行け。栄三郎は小川家の大事な跡取りだ。こんなこともあろうかと少しばかりの金子(きんす)を用意しておいた。苦労をかけたお前への、せめてもの餞別だ。虎蔵との離縁の手はずはこちらでとっておくから・・・。病気するなよ」
 為太郎は、金包みをトクの懐にねじ込むと、泣き叫ぶ栄三郎を背中から剥ぎ取った。子供と別れたくないと哀願しても為太郎の意思は固く、トクは単身江戸に向かうしかなかった。朝霧が身を揺する宮ヶ谷塔の寒い朝だった。


中山道蕨宿

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