序章 新聞記者

 松本高志は、久留米駅に降り立つとすぐ、町中を流れる池町川べりに立った。明治43(1910)年8月の暑い盛りであった。川幅4間(約7b)足らずの岸辺には、人の丈ほどもある葦(よし)の葉が生い茂っている。


明治23年頃の久留米駅

 松本は、九州鉄道に乗ってやってきた。明治22年に博多と久留米間が開通して、上等81銭、中等54銭、下等27銭の運賃を払えば、10里(40`)の道程(みちのり)を片道わずか1時間20分で着く。便利になったものである。
 目指す小川トクの家は、池町川に架かる土橋を渡って、南に5分ほど歩いたところにあった。
「トンカラリン、トンカラリン、トントン」
 麦藁屋根(むぎわらやね)の小さな一軒家から、心地よいはた織りの音が聞こえてきた。表戸をあけると、中は薄暗くて、縁側にいる女の顔がはっきり見えない。
「小川トクさんですよね。先日郵便で取材をお願いした福岡日日新聞の松本です。お忙しいでしょうが、しばらくお付き合いを願います」
 玄関からの声に、はた織りの手を止めて女が立ち上がった。
「こちらからもお返事を出しましたように、私は新聞で取り上げていただくような、そんな立派なことは何もしておりません。でも、せっかく遠いところからおいでいただいたのですから、どうぞ粗茶でも飲んでいってくださいな」
 下調べをしたところでは、女性の年齢は既に70歳を過ぎているはず。背が高くて色白で、顔の皺が目立たないせいか、実年齢より遥かに若く見える。促されて、8畳一間の座敷に上がった松本は、本題に入る糸口を探した。
「先ほども申しましたように、私は他人(ひと)さまに威張れるようなことは何もしておりません。それなのに、私の何を新聞に載せようと言うのです?」
 逆襲されたようで妙な気分であった。
「そんなことはありません。あなたは、久留米絣(くるめがすり)や博多織(はかたおり)と並ぶ、立派な特産品を創りあげた人ではありませんか。そのお方が、この度久留米を離れられると聞きました。寂しい限りです」


久留米市内を流れる現在の池町川

「買いかぶらないでくださいな。私は遠い国からやってきて、ただただ食べるために縞織(しまお)りを始めただけなのですから。たまたまその商いが当りましたからといって、自慢することでもなんでもありませんよ。それに、今では一人暮らしの貧乏な年寄りなのです」
「何と言われても、あなたは輝かしい功績を残して筑後を去られるお方です。こちらにいらっしゃる間にお話を聞いて、読者に伝えなければなりません」
 放っておけば世間話だけで済んでしまいそうで、松本は不安だった。
「あなたが久留米に来られたのはいつですか?」
「かれこれ40年もむかしのことです。そうそう徳川さまの世が終わって、明治に移った丁度その時でしたよ。慶応4(1868)年の夏の初めでした」
「こちらに来られる前は、久留米藩の江戸屋敷におられたと聞きました。華やかな都からどうしてこのような田舎町へ?」
「いえね。久留米に参りますまで、こんなに長いことお国(筑後)にお世話になろうとは思ってもいませんでしたよ。それがつい、ずるずると・・・」
 松本は、次の「江戸に未練は残らなかったですか?」の質問で、相手の表情が微妙に険しくなったのを見逃さなかった。
「未練が残らないなんて、そんなわけはないでしょう。江戸というより、生まれ故郷が遠くなることがとても辛かったですよ。久留米の街を目前にして、そのまま引き返したい気持ちになったものです」
 当時のことが甦(よみがえ)ったのか、トクの口元がかすかに震えた。それが、彼女にとって何を意味するものなのか、その時松本にはまだわからなかった。
 陽が真上に上って、庭のひまわりがまぶしく輝いている。松本は思い切って、話題を小川トクの縞織り人生に移した。
「久留米の縞織物は、どうしてこんなに評判が良いのですか。特にあなたが織ったものは、全国的に人気が高いですよね。他と何がどのように違うのです?」
 トクは、「ご存じと思いますが・・・」と前置きした後、にこやかな表情に一変して、縞織物のそもそもから話し始めた。
「縞といいますのは、縦とか横へ筋のように描かれた模様が入った織物のことです。明治に入りましてからは、その模様もますます複雑になりましてね。例えば、色の違う糸をタテ糸とかヨコ糸に混ぜ合わせます。縦の配合を縦縞(たてじま)、横の配合を緯縞(よこじま)なんて言うんです。縦と横に色を混ぜ合わせて交差させれば、格子縞(こうしじま)とも言いますのよ。面白いでしょう」
 この女性、話が縞織に及ぶと、止まらなくなるようだ。
「私がこの地に参りました折にも、縞の織物はございましたのよ。でもね・・・」
 そこで、トクの話が一瞬途切れた。
「あなたが思っていた織物とは違っていた」
「そうです。こちらのみなさん、冬場はかすりを身に着けておられましたが、暑い夏場は縞織でした。ですが、自分で紡いだ木綿糸を自分の腰に捲きつけて織るのです。そのような織り機のことをいざり機(ばた)と言いましてね。出来上がった布(きれ)も、それは粗末なものでした。縞柄は一応、大柄小柄とありましたが、おかしなものばかりでした」


代表的な双子縞織物

 久留米での縞織稼業の始まりを、江戸周辺で織るものとの比較から紐解(ひもと)こうとする気持ちが伝わってくる。
「最近のことですよ、こんなに縞柄の種類が多くなったのは。私が娘時代に織っていたのは、ほとんどが縦縞でした。それが、こちらに来てからというもの、千筋・万筋の外にも瓦斯糸縞(がすいとじま)、綾地織(あやじおり)、畦織(あぜおり)、並縞(なみじま)などと、どんどん増えましたね。縞の種類が増えるのに合わせて、当然のことながら、織り子たちの腕前も上がりました」
 松本の目は、縞織りを始めた頃を振り返るトクの口もとに引き込まれていった。
「私が織ります久留米縞は、双子織(ふたごおり)と言いましてね。久留米に参ります少し前の江戸で、盛んに着られた縞織でございますよ。タテ糸とかヨコ糸に2本の糸を撚り合わせた糸で織るのです。その後私が、紡績糸2本を強く撚(よ)り合わせた双糸(そうし)をタテ糸とかヨコ糸にして使ったのです。ですから、出来上がった生地は強いですよ。町屋でも農家でも、そんな強い木綿布で縫った着物が、重宝されるわけですよ。縞を織る地糸には、唐糸(からいと)を用いました。ご存じでしょう、唐糸とは外国から輸入した糸のことだってこと。ですから、久留米縞は何度洗っても、縫い直しても色が褪せないで長持ちするのです。そしてもう一つの特徴は、これが一番大切なことですが、かすり織に比べて織る時間が短くて済みますから、安い値段で売れるわけでございますよ」
 松本には、滑らかになっていくトクの語りが、かえって難解になった。
「紡績糸とか双糸(そうし)とか、そこのところを少し詳しく教えていただけませんか」
「そうだわね。私だけが分かっていても、仕方のないことですね」
トクは、話をもとに戻した。
「紡績糸には単糸(たんし)と双糸(そうし)があります。単糸とは、綿から糸車で紡いだままの糸のことを言います。もう一方の双糸は、単糸を2本撚(よ)り合わせたものですね。糸の太さは、太い方から順番に、1番から120番糸まであります。先程申し上げました単糸とは40番までの太い糸のことで、41番より先の細い糸は、撚り合わせて双糸にするのです」
「だんだんわかってきました。だから、細い糸を撚(よ)り合わせた双糸で織る縞のことを双子織(ふたごおり)というのですね。ところで・・・」
「まだ、納得いかないですか」
「そうではありません。そのようにして出来る双子織は、1反織るのにいったいどのくらいの時間がかかるものです?」
 トクは、どのように答えれば記者に分かってもらえるか、右手を額に当てて考えた。
「そうね、朝早くから織り始めて夜の11時まで動かして、上手の人で1日に1反半くらいでしょうか。言い換えれば45尺くらいでしたね。それは太い糸でのことで、細い糸になりますれば、1反に2日もかかりましたよ」
「それでは、寝る時間以外はすべて仕事をしていることになりませんか」
「そうですよ。今日のように、機械が人間に替わりますまでは、問屋の要望に応えるためにも、寝る間を惜しんだものです」
 聞いている松本も、縞織りに従事する人たちの苦労を知るにつけ、次の質問に戸惑った。
「ところで、あなたのはた織りの技術は、どこで培(つちか)われたのですか」
 新聞記者としては、自然な疑問であった。
「それはね、子供の時から、縞織物の本場で経験を積んできたからじゃないかしら」
「あなたが生まれたのは・・・」
「武蔵国(むさしのくに)の宮ヶ谷塔村(みやがやとうむら)という田舎です。今日風で申せば埼玉県北足立郡春岡村の宮ヶ谷塔ということになりましょうか」
 平成の今日風では、さいたま市見沼区宮ヶ谷塔にあたる。
「ご両親は?」
「二人とも私が小さい時に亡くなりましたので、祖父母によって育てられました。一人娘ということもあって、気ままに育てたと祖父は言っていました。家が百姓だったものですから、読み書きなどを習わせる必要もないと考えていたようです。今からみますと、まことに馬鹿の大将でございますよ。そんなこともありまして、私ははた織りを覚えたのです。大きくなって婿養子をとるまで、ずっと縞を織っていました。その頃、江戸市中では、私の田舎で織る縞織物が大流行(はや)りしていましてね。だから、江戸まで8里半(34`)の宮ヶ谷塔村では、はた織りがますます忙しくなるわけです」
 トクは、最初の遠慮を忘れたかのように、生まれ故郷での思い出を語り始めた。

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