蛍茶屋(01) 雲平と甚兵衛は、民家が連なる川岸に出た。そこは蛍茶屋。現在も、市電の終着駅近くに茶屋の跡が残っている。このあたり、むかしから蛍が飛び交うことで有名だった。 「江戸や京都に向かう人が、家族や友人と別れを惜しんで水盃を交わす場所だ」 甚兵衛は、長崎という土地柄を、雲平に覚えさせようとしている。 「あそこで盃を交わしとる、頭の毛が赤うてえらく大柄の人は?」 雲平が甚兵衛の耳元に口を近づけて尋ねた。 「あの人はオランダ人たい。隣に座っとる日本人は、阿蘭陀通詞(オランダつうじ)というて、オランダ人に日本語の意味を伝える役。あの外人さんたちは、日本に来てからもずっと日本人らしくしようと心がけてきたそうだ。向うの国には、水盃ちいう習慣はなかだろうし」 腹が減っていたせいか、雲平は出された食事を全部平らげた。
写真:蛍茶屋跡に立つ説明板より 「小川源助さんの店は、ここから遠かとですか」 「なんの、もう少しだ。この川に沿って下って行けば西古川町に出る。そこで、長崎屋足袋所と訊けばすぐわかる、・・・はず」 甚兵衛の話ぶりが急に曖昧になった。 「はずって、おっちゃんは長崎のことには詳しかったはずじゃ」 「2年前に、古川町一帯が焼けてしもうてな」 慶応4年(1868年)の1月9日、西古川町の食事処から出た火は、たちまち本古川町、榎津町、万屋町、西浜町を焼き尽くした。甚兵衛は、そのことを博多の店で聞いて心配していたのだという。 「焼けた場所は、長崎でももっとも賑やかなところたいね」 雲平が立ち上がろうとするが、甚兵衛は座ったままである。 「一緒に行って、お師匠さんになる人にひき合わせてもらえんでっしょうか」 知らない土地で心細さが先にたち、情けない声に変わっている。 「雲平と付き合うのもここまでだ。あとは一人で行け」 佐賀宿から一緒してくれた商人の先輩に突き放されて、涙が飛び出るほどに淋しかった。 「気になっとることば訊いてもよかですか」 甚兵衛に確かめたいことだった。 「俺ば小川源助さんの弟子にと世話ばしてくださったのは、実は…」 「ばれたらしようがなか。傘屋の伊三郎さんに、雲平の修業先ば探してくれと頼まれたもんで。それなら、長崎屋の源さんがよかろうということで」
写真:明治期の中島川風景(中島川辺の説明板) 「そんならなお更、おっちゃんに着いてきて欲しか。小川さんのところまで」 「情けなかことば言いなさんな。これからは、何ごとも一人でやっていかなきゃならんのに」 諭されて雲平は、中島川に架かっている橋を指折り数えながらゆっくり歩いていった。橋は、木造のものや石を汲みあげたものなど様ざまである。中には、屋根をつけた橋もある。その橋を坊さんが2人、談笑しながら渡っていった。
長崎屋足袋所(02)
1年前の大火は、未だ復興の緒についたばかりであった。女が井戸端で米を磨いでいた。枯れた立ち木に竹竿を渡して、洗濯物を干す娘もいる。売りものを荷車に乗せたままで商売をしている男のそばを、棒切れをかざした男の子が走りまわっていた。 水面に映っている橋の姿が何とも美しい。平成の今日も「眼鏡橋」として親しまれ、観光客が大勢やってくるところだ。江戸時代初期に架設された日本で最初のアーチ式石橋である。 珍しい橋の姿に目を惹かれて佇んでいると、後ろから肩を叩かれた。長崎に知人などいるはずもないのにと思いながら振り返った。雲平より1尺ほども背の高い男が、苦虫を噛んだような顔をして突っ立っていた。 「わい(あんた)は、久留米から来た雲平じゃなかか?」 顔に似合わず、優しい声で語りかけてきた。 「そげんです。俺は倉田雲平ち言います」 後手に回ってしまったようで、この場で必要な挨拶がなかなか出てこなかった。 「もうそろそろ現れる頃じゃろうと、親方が言うとったけん」 声をかけた男は、自分が長崎屋の番頭の幸六だと名乗った。 小川源助の足袋屋は、中島川に沿って続く職人の町の一角にあった。隣は傘屋でその向うは仏壇屋、畳屋、仕立物屋と連なっている。甚兵衛が言うように、眼鏡橋から50間も離れていない場所に「長崎屋足袋所」の看板が見えた。板を張り付けただけの掘立小屋である。 「親方、久留米から来た新米ば連れてきました」 幸六は、雲平を奥にいる初老の男に引き渡すと、さっさと店先に去っていった。目の前の男の顔は浅黒くて背が低い。師匠になる小川源助である。 「先刻、博多の達磨屋さんが来なさってな。道中ずっと一緒じゃったと話していなさった」
写真:現在の眼鏡橋、奥の街並みに長崎屋足袋所があった 地元に慣れている甚兵衛が、先回りして雲平の到着を知らせていったらしい。母親が持たせてくれた、主人夫婦に渡す久留米絣を差し出した。喜んだのは女房のスズだった。「珍しかね、これが久留米絣」と、肩にかけたりしている。 「これからは、わしのことを親方と呼べ。それから、これのことは奥さんだ」 スズが、長崎の足袋について語り始めた。 「よその国(藩)でも、こちらの畝足袋(うねたび)に叶うものはなかち言う人が多かとよ。上方からまで、わざわざ買いに来らすと」 店内は積まれた材料や商品で隙間がないほど。店員たちは、その中を遠慮がちに行き来していた。
身近な異人(03)
源助は番頭の幸六に、そこらへんを案内するように言いつけた。連れて行かれたところは、中島川河口の港の桟橋だった。生まれて始めて間近に見る海である。雲平が生まれ育った久留米からでは、有明海や博多湾に出るにも10里(40㌔)は歩かなければならない。日常久留米の城下で暮らす者にとって、海は遠い存在だった。 長崎には、むかしから貿易や布教を目的として、多くの西欧人がやってきた。日本国内でも有数の良港をもつ町である。 「でっかい船ですね。びっくりしました」 目の前に停泊する巨大な鉄の塊は、それまで抱いていた想像を遥かに超えている。帆船であったり蒸気だけで動く船だったり、その姿はさまざまである。狭い港湾では、手漕ぎボートや運搬船も忙しく行き来していた。波止場では派手な制服姿の外国人船員も多く見かけた。 「この港には、どげな大っか船でん停泊でけるとたい」 幸六は、話しながら港の先端を指差した。 「向うに扇の形ばした島が見ゆるじゃろ。あれが200年以上も前に、海ば埋め立てて造った出島たい。オランダの商人が活躍するところ」 「オランダの人は、あげな狭か島で何ばしござったとですか」 「貿易ちいうて、オランダとか他の国の品物ば日本に持ってきて売ったり、逆に日本の品物ば東南アジアとかヨーロッパまで運んで行って売る、そげんして利ざやば稼いでおった」 「あげなこまか島で、そげん大袈裟な商いばしよらしたとですか」
写真:風頭公園から望む長崎湾 「お江戸の将軍さまは、鎖国中でもオランダ人が長崎で貿易ばすることば許しとりなさった。その方が幕府にとっても都合がよかけんな。世界がどげんなっとるか、よその国にはどげな便利なもんがあるか、幕府も知っておきたかろうしな」 幸六が雄弁を振るう元は、みんなお客さんや親方から聞いた話だと言い訳をして苦笑いした。もう一つ長崎らしい場所を見せると言って、幸六が歩きだした。 「長崎の町ばさるく(歩く)と、きつか(急な)坂が多かもんな」 幸六に言われるまでもなく、町を歩いていて平らな道がないことに雲平は気がついていた。 案内された坂道には、筑後ではついぞ見かけない、色や形が珍しい家屋が建ち並んでいる。きれいに整えられた花壇の向こうに、港が一望できる。オランダ人の居住地区である。
足袋の価値(04)
生まれて初めて見る異人の住む町に興奮冷めやらぬまま、西古川町の店に戻ってきた。夕食は、親方夫妻と10人の弟子たちが、一緒の食卓を囲む。 「見たとおり、大火事でこの辺一帯が丸焼けになってしもうた。それでも、うちがこげんして早う店を開けられたのはどうしてかわかるか、そこの新米さん」 突然、親方から話を振られて、雲平は下を向いてしまった。 「よかか、雲平。人間は、食うものがなけりゃ生きてはいけん。食うだけでもでけん。夏でん冬でん、きもん(着物)がなけりゃ外にも出られん。寒か冬に裸じゃと凍えて死んでしまう。そうせんためには、厚着をしたりして凌がにゃならん」 それが、店の再興とどこで結びつくのかわからない。 「足袋も同じだ。足袋は、足ば温めるためにだけにあるとじゃなかぞ」 親方の話の展開に、どうしてもついていけないで困った。 「芸者や金持ちの奥様方ば見て見ろ。きれいかきもんば着とらすじゃろう。その時、足が裸足じゃ話にならん。白い足袋ば履くとたい。大工やとび職が履く足袋も、仕事には欠かすことができん。そげなわけで、火事の後でも足袋ば欲しがるお客さんから急きたてられてな。どこよりも早う仮の作業場がでけたというわけだ」 長崎到着のその日から、日本人にとっての足袋の価値を詰め込まれた。 「1日も早う、足袋ば縫えるごと、兄弟子たちに習わにゃない」 食事が終わると親方が立ちあがり、その次に幸六が、続いて先輩から順番に席を離れる。1ヵ月前に弟子入りした六太郎と新米の雲平だけが残って、後片付けをする。翌朝の仕事がすぐ開始できるように、親方や兄弟子たちの道具の汚れをとったり、整理しておくのも大事な仕事だ。 すべての作業を終えて布団にもぐりこむのは夜中である。春はまだ先のことで、せんべい蒲団では寒過ぎる。それに、先輩のいびきが耳について寝付けそうにない。想像していた以上に厳しい、足袋職人への第一歩であった。 職人集団の朝は早い。まだ夜が明けきらないうちに、六太郎と雲平が最初に起きて店を開ける。奥さんの手ほどきを受けながら、10人分の朝飯をつくる。2人が最後に食卓に着く頃、親方と番頭の幸六は、既に店先に出た後だった。
作業場の隅に雲平の仕事場が設けられた。雲平に手順を教えるのは、最古参弟子の国松である。 「足袋の先は、親指とほかの指に分かれとるじゃろう。何でか」 「それは、下駄とか草鞋とか履くときに、鼻緒ば挟むのに便利なごつでっしょか」 「そうだ、その調子だ。それじゃ、足袋の文数はどうして決められたか」 「知りまっせん」 足袋の生地は、表生地と裏生地、更に底生地の3種類からなる。次に足の裏にあてる底生地と重ねた部分をとめる鉤(はぜ)が片足に5個ずつ。その鉤を縫いつけるための専用の糸も必要となる。 材料がそろえば、文数(大きさ)によって表・裏の生地と底生地をそれぞれ裁断する。外甲にあたる生地に鉤を縫いつける。爪先部分から、甲と底を縫う。作業はすべて裏返しの状態で行われるから、最後に木型を使って表に向けると、縫い糸や縫代などが内側に隠れてしまう。形が出来上がったものを、更に木型に入れて叩きながら、縫い目が皮膚を刺激しないように整えて、完成となる。 「うちの客はな、植木屋なんぞが作業をするとき履くもんから、丸山の芸者が履くお座敷足袋までいろいろたい。長崎には、足袋作りの店や職人がウヨウヨしとるけん、客の注文も半端じゃなか」 足袋の始まりは鎌倉時代だといわれる。用途は草鞋掛けと防寒、後に正装する時の必需品として用いられるようになった。防寒が主のときは、生地は、なめし皮を筒状にしたものだったようだ。皮製品が割高になることから、生地が木綿に替ったのは寛永20年(1643年)頃だといわれる。従って、雲平が弟子入りした頃から遡ること230年も前のことである。 「今作っとる黒足袋は、普段着のときに履くもんたい。誰もが毎日履くもんじゃけん、すり減り方もひどかたいね。じゃから、底生地には何度も太うて強か糸ば刺しとかんといかん」 国松は、つきっきりで底生地と表生地の裁断から鉤のとりつけ、足の甲部分と底生地の縫い合わせを教えた。
長崎くんち(05)
長崎屋足袋所から中島川を挟んで、北側に諏訪神社、南側の高台には唐風の崇福寺や興福寺などが並ぶ。港から近い新地は、大陸から渡ってきた中国人が住む町。今日もなお、中華料理街として賑わっているところだ。また、唐人屋敷跡も、当時を思い起こさせるに十分な保存地区となっている。
慶応4年の大火で丸焼けになった西古川町一帯も、日を追って落ち着きを取り戻していた。粋な半纏とねじり鉢巻き姿の大工が、槌の音を心地よく打ち鳴らしている。板の屋根を組み合わせている若者や、壁塗りに余念のない老いた左官など、すべてが手際よい。荒れた庭を整備する植木屋は、慣れた手つきで鋏を使い、火災前の状態に回復していった。彼らは皆、黒くて膝下までの長い足袋を履いている。 小川源助の長崎屋足袋所は、間もなくして仮小屋から本格的な店構えに変わった。作業場も前とは比べものにならないほどに広くなった。雲平が小川源助に弟子入りして8ヶ月が経過した頃である。 「ピーヒャラ、ピーヒャラ」「トントントン」、町のあちこちから、軽快な横笛と小太鼓の音が響いてきた。 「早かな、もうおくんちが来る」 「小屋入りが済むと、次は若かもんの出番たい。俺たちの傘鉾は、見物人に一番人気があるもん」 雲平の指導役である国松が、持っている刺し針を針山に戻しながら声を弾ませた。長崎くんちとは、諏訪神社の秋の大祭のことである。中国の風習(重陽の日)に従って「9」の数を重んじ、9月9日(旧暦)が祭り本番となる。(現在は、太陽暦に従って、毎年10月7日から3日間) 祭りの始まりは、寛永11年(1634年)というから、三代将軍徳川家光の時代である。その2年後の寛永13年(1636年)には、長崎の人工島・出島が完成した。更に3年後の寛永16年(1639年)には、幕府がポルトガル船の来航を禁じる令を発した。因みに出島完成の翌年、寛永14年(1637年)の10月は、島原半島を舞台にした「島原の乱」が勃発した年でもある。また、「くんち」が始まった寛永11年には、中島川に「眼鏡橋」が架けられた。 「むかしのおくんちは、ほんに賑やかじゃったな」 離れた場所で、帳面を見ている番頭の幸六が、ため息交じりに呟いた。町の職人は、賑やかな祭りに心を躍らせるもの。それが最近では、祭りの華となる飾りや音色、踊りなどに制限が加えられていると言うのだ。 明治維新に合わせて、長崎奉行が祭事に際しての華美禁止令を発したためである。神輿行列は縮小、傘鉾は直径4尺までに制限されて、飾りも質素でなければならない。 「なしてお諏訪さんの祭りば派手にやったらいかんとですか?」
絵:西古川町の傘鉾(諏訪神社付近の歩道掲示) 雲平としては、この土地に来て何でも知っておきたい欲望から出る疑問であった。 「諏訪神社も13年前に丸焼けになったけん。復興がなかなか進まんもんで、お奉行さんも我慢ばしきれんで緊縮令ば出しなさったらしい」
「着いてこい」 作業場に現れた小川源助が、雲平を連れ出した。 「足袋作りも、大分上手になったな」 源助は川岸を歩きながら、前を向いたままで雲平に話しかけた。 「そげんでしょうか。俺には上手になりよるかどうかわかりません」 謙遜したつもりの返事であった。源助は、店から東に向かった先に建つ宿屋に入っていった。源助は、地方から仕入れに来る商人たちの宿泊を世話したりして商売に協力しているという。 「相変わらず繁盛しとるな」 源助と主人の会話は、上がり口で茶をすすりながらの挨拶から始まる。 「お陰さんで。徳川さまの時代も終わって、これからは新しか時代ですけんね。これまでの旅籠も、旅館と言うようになります。亀山におらした坂本竜馬さんは殺されなさったばってん、残ったお仲間衆が活躍なさるとでしょうけん」 「そういうことになりますかな。ところで…」 しばらくたって、ようやく2人の会話が本題に入った。そこで源助が、玄関口に突っ立っている雲平を招き寄せた。 「これが、博多の達磨屋さんが久留米から連れてきなさった雲平ですたい。この男ば早う一人前にするために、稲益屋さんにも加勢ばお願いしようと思いまして」 「源さんの言うこつなら、嫌とも言えんでしょう」 話の内容が分からないままに、稲益屋は笑い飛ばした。 「この男は、筑後の方で腕の立つお方に裁縫ば習うとったそうです。それで、半年ちいう割には覚えも早かし、仕事も丁寧か」 「それで…、そちらのお弟子さんを、私にどうしろと?」 「こいつを2年で一人前にして久留米に帰さにゃならんとですよ、達磨屋さんとの約束で。そのためには、そろそろと思いましてね」 そばで聞いている雲平だが、話がなかなか先に進まないことに、目の持っていきようが分からなくなってしまった。
明治3(1870年)年の8月(旧暦)晦日。諏訪神社に真新しい注連縄が張られた。長崎くんち(諏訪神社秋季大祭)の幕開けである。9月に入ると、家々の食卓には赤飯、どじょう汁、ざくろ、煮しめ、二色卵、紅白の蒲鉾、甘酒などが並ぶ。 9月9日は祭り本番の日。長崎屋足袋所では、女房のスズが大忙しである。得意先など来訪者に備えて、ご馳走の準備に余念がない。 国松ら兄弟子は、神輿の担い手として、朝早くから気もそぞろ。一方新人の雲平は、兄弟弟子の六太郎と示し合せて諏訪神社に出かけた。長坂下の踊り馬場では、丸山町と寄合町のきれいどころによる奉納踊りが始まっていた。お旅に出立される神さまの、露払いをするための神事である。
写真:諏訪神社の踊り場
長崎くんちは、慶長年間に、遊女の音羽と高尾が踊りを奉納したのが始まりだと伝えられている。 「雲平、芸者さんは、どうしてあげん別嬪さんばっかりかいの」 六太郎が異常に興奮している。雲平はというと、踊る芸者が履いている白足袋の動きに気をとられて、国松の囁きも聞こえない。 一通りの演技が終わると神さまのお旅立ち。お供町に続いて、大鉾、3体の神輿、その後には神輿に乗った神官たち、着飾った男女、長崎奉行(名代)、地の顔役、最後にオランダ商館の面々と中国人が行列をなしている。雲平は、初めて見る長崎くんちに、胸の高鳴りを抑えきれないでいた。 2人は、膝まで届く黒足袋を履いた神輿の担ぎ手に紛れて一緒に走った。行列は諏訪神社下の馬町から現在の市役所や公会堂がある桜町へと進む。途中、長崎代官所などで踊りを披露しながらお旅所(元船町)に到着。お旅所には中国人やオランダ商館員の観覧席が設えてあって、長崎特有の国際色を醸し出していた。 「こげんすごか祭りは、久留米にはなか」 興奮が冷めやらぬ雲平らは、日暮れも近い時刻になって店に戻ってきた。
久留米から来た武士(07)
くんちが終わると、長崎の秋は一気に深まっていく。源助に伴われて稲益屋を訪問して以来、雲平名指しの注文が増えた。出来上がった品物を稲益屋に届けるのも、雲平の日課となった。たまたま帳場にいた主人の寅之助が、泊り客を引き合わせたいと言う。2階の部屋では髭面の大男が寝そべっていた。 「久留米から来なさった山田さんちいうお方たい」 起き上った男は、細い目をますます細くして、雲平と向きあった。見たところ、40歳に届くか届かないかの年頃である。 「米屋町か、おぬしの家は。久留米では仕立物屋ばやっとったそうだが、拙者、いや俺はおぬしのことを知らんぞ」 そんなことを言うために、わざわざ呼びつけたのかと腹がたつ。 「俺の名は山田平四郎。2年前までは、武士の片割れとしてお城に上がっておった。ばってん、ご維新で武士とか藩士とかの身分ば根こそぎ剥ぎ取られてしもうた。お上からは家禄ちいうもんばいただけるそうだが、それだけでは心もとない。女房や子供にひもじか思いをさせんためにも、自分の食い扶持くらいは自分で稼がにゃならん。そこで、よか仕事がなかろうかと思うて長崎にやってきたというわけよ。そこはおぬしと同じだ」 何が同じなもんかと反発したくもなる。早々に座を立とうとする雲平を稲益屋が止めた。ここは、少しの時間だけ、客の相手をしてやって欲しい、と目で合図している。 「ちょっと付き合わんか、よかったら稲益屋さんもご一緒に」 山田は相手の都合も聞かずに、さっさと階段を下りていった。連れていかれたところは、万屋町にある飯屋であった。暖簾には「牛鍋屋 よこはま」と書いてある。引き戸を開けるなり、寅之助が知り合いらしい店の主人に挨拶をした。 3人は、衝立で仕切られた場所に陣取った。 「牛の肉ば食わせる店たい、ここは」 「牛ですか。まさか、あの4本足の…」 驚きの前に、身震いが走った。
絵:牛鍋屋風景(山川出版「日本史図録」 「そのまさかば、おぬしに食わせようち思うてな」 山田平四郎と名乗る元武士は、勝ち誇ったように、細い目を更に細くした。 「どうだ、うまかろう。この頃、横浜あたりで大そう流行っとるそうじゃ」 山田は、「もっと食え」と勧める。食べる前から、何とも食欲をそそる匂いが部屋中に充満していた。七輪に土鍋をかけ、牛肉とネギや白菜をいっしょに煮る。目の前で煮えたぎる肉の塊が、思わず箸を持つ手を伸ばさせる。 「ところで…」 ひとしきり、牛肉を腹に詰め込んだところで、山田が切りだした。 「この牛鍋ば久留米で売ろうち思うとる。おぬしはどげん思うか。久留米ん人間にも聞いておかんとな」 「この肉鍋ば久留米でですか?」 「そうよ、よか考えちは思わんか」 賛成できないとも言えず、雲平は黙り込んだ。そこで寅之助が口を挟んだ。 「この店の大将は、おい(俺)の幼馴染でな。2年前に、横浜から長崎に帰ってきて、あちらで覚えた牛鍋料理の店ば開きおって。その話ばお泊りのお客さんに聞かせたもんで、それをまた聞きした山田さまが、ぜひ久留米でもやりたいと…」 山田平四郎は、長崎に来るなり、稲益屋旅館を根城にして牛鍋屋に通った。道具の見立てから材料の仕入れ、調理法まで熱心に教わって、そろそろ久留米に帰る支度にかかっているところだという。 2月に長崎にやってきて、やがて年の瀬を迎えようとする雲平だけに、生まれ故郷の人間に会えたというだけで気持ちが温もった。山田平四郎とは、その後も、何かと付き合いが続くことになる。
色町御用達(08)
稲益屋からくる雲平名指しの注文は、日ごとに増えた。それも、大人の女性が履くお座敷足袋(白足袋)ばかりである。誰が履くやら分からないが、それが女性用というだけで、気持ちが高ぶる年頃である。裁断するときから、くんちで踊っていた芸者の裾からのぞく、艶めかしい白足袋が頭の中を占領してしまう。 そんな折、店に現れた稲益屋の寅之助が、雲平の側に座り込んだ。 「ええ手つきやな。頼んどった品物はいつ上がるんか」 話しかける寅之助の声がいつになく小さい。 「夕方には、持って行こうち思うとります」 寅之助の声が更に小さくなった。 「そん時は、そげんよっそわしか(汚い)作業着じゃのうて、一張羅ば着て来い」 「親方には断っとくけん」と言うなり、寅之助は雲平の肩に軽く掌をおいてその場から消えた。 「今夜は遅うなるばいね」 隣から国松が、意味ありげに囁いた。 わけのわからないままに、出来上がった白足袋10足を持って稲益屋に出向いた。待っていた寅之助は、無口のままで万屋町から浜町に向かった。 「この橋は、思案橋」 寅之助と雲平は、銅座川に架かる橋を渡るとき説明した。 「この橋には、なしてそげな不思議な名前がついとるとですか」 寅之助は、解説なら任せとけと言いたげに格好をつけた。 「にやにや顔でやってきた助べえ男。橋のあっちは、怖ろしか地獄の国だわい。渡れば不幸が待っておる。いや、あっちは極楽島に相違なか。試しに一度は渡ってみるもんよ。ああ、この橋渡るべきやろうかそれともやめとくべきなのか、どげんしたらよかんべえと、思案投げ首」 手振りを交えて語る仕草が面白くて、雲平もつい乗せられてしまった。 「そんなら、俺たちも渡ってよかかどうか、自分の胸に訊かなきゃならんとですか」 「そりゃ、渡ってよかくさ。足袋を売るためじゃけん」 更にいろいろ聞きだそうとするが、寅之助は黙ったまま橋を渡りきった。平成の今日、長崎を訪れても「思案橋」という橋を見ることはできない。橋の下を流れる川が塞がれてしまったからだ。僅かながら、市電の停留所と亡くなった青江美奈の歌(思案橋ブルース)に名前が残るだけ。 寅之助が言うように、歩いている者に前掛けをした者や草鞋を履いたものなどはいない。丁髷が似合う武士崩れや、どこかの大店の息子みたいな男ばかりだ。向うからは、広い廂の帽子と派手な色遣いの洋服を着た西洋人が、見るからにお座敷が仕事場だとわかる女を従えて、通り過ぎていった。 「あの店は?」 思案橋からしばらく歩くと、そこは江戸の吉原や京都の島原と並び称される花町(丸山遊郭)である。街の入り口付近では、何軒かの「足袋屋」の看板が目に入った。 「気がついたか。『山ノ口足袋』とあるじゃろう。丸山町入り口の足袋屋という意味たい。丸山のことを地のもんはヤマと言うけんな。丸山芸者御用達の店ちいう意味たい」 寅之助が、奥まったところの足袋屋に入っていった。
写真:長崎山ノ口の足袋屋 「待たせたない。注文の足袋ば持ってきたけん。この若いもんが、長崎屋の職人たい」 寅之助が、番頭らしい年配の男に雲平を引き合わせた。足袋の届け先が丸山の足袋屋であったことを、その時初めて知らされた。 「この店は、芸者衆ば相手に足袋ば売りよらすと。このところ、注文が多過ぎて間に合わんもんで、この番頭さんに頼まれて、俺が源さんに繋いだと。そしたら源さんも、雲平の仕事がでけた言うて喜んでな」 「親方は、なして俺に芸者さんが履く足袋ば作らせたかとですか」 「雲平に、1日も早う一人前の職人になってもらいたかけんじゃろうない」 よく飲み込めないままに2人は外に出た。客引きをする婆さんや女たちが出入りする建物が連なる賑やかな丸山本通りである。ひときわ目を惹く建物が「妓楼・引田屋」、別称「花月」である。平成の今日でも、当時の遊郭のあり様をしのぶことができる。更に進むと、長崎検番の建物が。こちらは、芸者の手配をする場所だとか。 寅之助は、天満宮の先の茶屋に入っていった。 「親方の許しばもろうとるけん、心配せんで飲め」 寅之助の、威勢のいい開宴宣言に誘われて、出てきた3人の芸者が2人に酒を注いだ。 飲み食いがひと段落すると、下座に設けられた舞台では、紋付姿の芸妓による踊りが始まった。 踊り手の後ろでは、年配の女が三味線と太鼓を鳴らして賑やかに音頭をとる。生まれて初めて飲む酒と芸妓の艶っぽさに、雲平の頭が尋常ではなくなってきた。 「まだ、酔っぱらうのは早かぞ」 隣に座る寅之助が、雲平の頭を小突いた。 「見ろ、踊る姉さんの足元ば」 華やかな模様の裾から見え隠れする白い足袋が、雲平の目に飛び込んだ。 「あの芸者が履いとる足袋は、ひょっとして雲平が縫ったもんかもしれんな」
写真:長崎観光協会のパンフより 踊る芸者は、頭から足のつま先まで、1分の隙も見せない。自分が縫ったかもしれない白足袋も、頭上に置いた舞扇と同じように、完全に踊り手の体の一部をなしていた。
弟子終了(09)
雲平が弟子入りした明治3年(旧暦)が暮れて、修行も2年目に入った。 長崎の正月は、久留米とは相当趣きを異にする。オランダ人や中国人が、祖国から持ってきた食文化をすっかり地元に溶け込ませているためだ。中国人の正月料理は、肉や魚をふんだんに使う。家族や親類が寄りあって、大皿の料理を分け合って食べる。食卓を挟んで、自国の言葉がすさまじいまでに行き交う。更に街に出て、爆竹を鳴らしながら踊る。何しろ、賑やかである。 長崎屋足袋所の正月も、久留米のそれとは大いに異なる。年が明けると、年数の少ない順に起き出して動き出した。番頭の幸六が、恵方の井戸から若水を汲み出して湯を沸かす。親方が出来上がった雑煮を神棚に供え、奥さんと弟子たちを従えて柏手を打つ。 雑煮の具は、唐人菜(青葉)・鰤・鶏肉・巻はんぺん・大根・里芋・椎茸・蒲鉾・するめなど。縁起を担いで種類を奇数使うのが常識である。出汁は、昆布と鰹節・醤油・酒を混ぜておすましとする。 食卓にはその他、紅白のなます・黒豆・ごまめ・数の子・紅さし南蛮漬け・寒天寄・紅白蒲鉾・煮しめなどが盛りつけられた。向こう側の皿には、ウラジロの上に塩鰯が並ぶ。お屠蘇が済んだところで、奥さんから弟子たちに、紙に包んだお小遣いが渡された。 正月2日は商い初め。夜明け前に起き出した弟子たちが、店の内外を掃き清める。親方は、番頭の幸六と一緒に、用意していた真新しい暖簾を店先に飾った。 「とーらご~」と、甲高い声が表通りから聞こえてきた。「とーらご」とは、なまこのこと。あちこちから出てきた主婦や弟子たちが、競って縁起もののとーらごを買い求めた。どの家も紙に包んだ銭を魚屋に渡した。これまた長崎ならではの正月の風習である。朝食が済むと、親方も番頭も弟子たちも、いっせいに初仕事にかかる。
正月3ヶ日が過ぎると、店と作業場は一気に熱を帯びた。土間にござを敷いただけの作業場で、表生地・裏生地・底生地を注文者の文数に合わせて裁断していくいつもの風景だ。 雲平がいま取りかかっているのは、大工が履く底の厚い黒足袋である。諏訪神社や興福寺など規模の大きな寺社の修理だったり、普通の民家の新築・改修であったり、彼らの働き場所はさまざまである。小さな家の工事でも、気を緩めたら命に関わることだってある。それぞれの作業現場を頭に浮かべながら、雲平は作業に集中した。
写真:むかしの足袋製造風景
雲平が、師匠夫妻に修業の終了を告げられたのは、明治5年の9月であった。弟子入りして2年半が経過していた。 「この道は、手が器用というだけでは通用しねえ。じゃからといって、要領がよかだけでも駄目だ。要はだな…」 源助が言いかけたところで、女房のスズが止めた。 「分かってるよ、この子なら」 雲平は、師匠の次の言葉を聞きたかった。 「だろう。足袋づくりは、手が器用なだけでもよくねえし、頭でっかちでも駄目だ。となりゃ、分かるよな」 「いえ、そこんところがもう一つ分からんとです」 「要はだな。職人が、足袋を履いてくれる人の気持ちに立てるかどうかだ」 「足袋を履く女の人や職人なら、大概に見てきましたばってん。親方が言われる『足袋ば履くもんの気持ち』というところがもう一つピンとこんのです。教えて下さい」 このような形で、師匠に教えを請うことなど、かつてなかったような気がする。 「足袋ば履いておる人にぴったりかどうか、本当のところは履いた本人しかわからん。そうじゃろう」 「はい、そげんです」 「足袋の文数が合えばそれでええというものでもねえ。そこのところを、相手の身になって作りゃ、必ずお客はお前に付く」 話しながら源助は、何度も洟をすすった。スズが懐から紙袋と麻袋を取りだした。 「ちょっとしか入っとらんばってん、わしからの餞別だ。なあに、自分で働いた分の駄賃だと思って受け取れ。それから、こっちの袋には裁鋏(たちばさみ)と縫い針が入っとる。鋏と針は、足袋職人にとっては命の次に大切なもんだ。一本立ちしたら、この鋏に足袋職人の魂ば詰め込め」 紙袋の中には、2円もの金が入っていた。その夜は、稲益屋に席を移して、弟子たち全員で賑やかな送別の宴が張られた。 「長崎は、これまでも今からもずっと、日本人と外国が行き交う街だ。長崎には1万人もの中国人がおるよな。あの人たちが作る料理は、これから日本中に広がるじゃろうし、オランダ人が着ておる西洋服や革靴も、すぐに流行りだす。最近も久留米から来たお方が、鉛を溶かして活字をつくる印刷機ば、わざわざ長崎まで買いに来なさったげな。博多の達磨屋さんだって、長崎通いがますます多くなるだろうけんな」 珍しい幸六の長話であった。自分を長崎屋足袋所に引き合わせてくれた甚兵衛は、修行の間ついに一度も顔を見せなかった。
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