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第三中間期 第22王朝
Shoshenq I
在位年代;前943年-923年頃
王朝の首都;タニス 埋葬地;タニス 出身地;ブバスティス
家族構成; 父 ニムロト(リビア人、マー族の首長)、 妻 マアトカーラー(プスセンネス2世の娘)
この時代はごく短期間しか統一王朝が存在せず、平行して何人もの王が存在する時代が多いので注意。また継承順も変わることがある。
とりあえず22王朝については、最初がショシェンク1世だったというあたりは、ほぼ確定している。ちなみに名前は、昔は「シェションク」となっていたが、現在は古代エジプト語からの音価復元により「ショシェンク」で統一されるようになっている。
第22王朝はリビア人王朝と言われるが、このショシェンク王はリビア人で、第21王朝のプスセンネス2世の将軍だった人物。
旧約聖書の中で「シシャク王」と呼ばれている王と同一人物だろうと言われている。
肩書きに、「異国の首長」「メシェウェシュ(リビア人が居住していたブバスティス周辺の町)の支配者」といったものがあり、エジプトに移住してきていたリビア人集団の出身であったことが伺える。この時代のブバスティス付近には、傭兵として雇われ、定住したリビア人がある程度住んでいたようだ。
婚姻による王権の継承なので、第21王朝から22王朝への変遷には特に争いなどは無かったようだ。また、テーベの司祭国家の併合も、後継者がいなくなったテーベ王朝に息子を送ることで実現している。そのため、ショシェンク1世の時代には、短期間ながらエジプト統一王朝が復活している。
リビア人出身ながら、ファラオとしての描かれ方や名乗りはエジプトの伝統に従っているため、見た目ではエジプト人と区別はつかない。(ただし「ショシェンク」という名前だけは、おそらくリビア人の話すベルベル語に従ったもの。)
●エルサレム陥落と失われた聖櫃
ショシェンク王の時代はエジプトが安定していたため、エルサレムへの遠征が行われている。旧約聖書のシシャク王が攻めてきたという記述と、メギドから出土した王名の刻まれた碑文断片、息子イウプトの時代にカルナック神殿内につくられた門の浮き彫りなどが証拠となっている。
エルサレム攻略に成功後、ショシェンク1世はエルサレムの民に税を課したらしい。また、このときエルサレムにあったモーセの十戒を収めた聖櫃が行方不明になっていることから、エジプトに奪われたのか、戦乱で避難させたが隠し場所が分からなくなってしまったのか、議論の的になっている。
●旧約聖書の「イスラエルに嫁いだファラオの娘」の記述
一説では、この王の時代ではないかとされる。しかし、歴史的な証拠はエジプト側にもイスラエル側にも存在しておらず、ファラオの王女が外国に嫁ぐことがあったのかは不明。また、ファラオの娘が降嫁したということでエジプトとイスラエルが対等になった証拠と論じられることもあるが、政略結婚による併合と見なすことも出来るため、もし仮に歴史的事実であったとしても、イスラエルの勢力拡大を意味するとは断定できない。(史実としてはむしろ、この時代はエジプトがイエラエルを安定して支配下に置いている。)
[>ファラオの娘はソロモンのもとに嫁いだか? 旧約聖書の記述を巡る信憑性と意味
●おまけ
ベルベル人だからって、アルジェリア人ではないよね…と総ツッコミ食らった件。
[.>アルジェリアに古代エジプト王ショシェンク一世の像が立ち、物議をかもす
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