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新王国時代 第18王朝
ThutmoseV
綴りはバラバラ→ Thutmosis Tuthmosis Thothmes
王朝の首都;テーベ 埋葬地;テーベにある王家の谷(KV34) 出身地;テーベ
家族構成;
父/トトメス2世 母/イシス 妻たち/ネフェルウラー(ハトシェプスト女王の娘)、ハトシェプスト・メリエトラー(再婚後の第一夫人)、メンヘト、メンウィ、メルティ、スィトイアハ 息子/アメンヘテプ2世、メンケペルラーなど 娘/ネベトイウネト、メリトアメン、イシスなど
治世が長いが、即位当時は6歳くらいだったと考えられているので妥当。軍事的な業績から色んな本で「古代エジプトのナポレオン」という呼び方をされるが、ナポレオンのほうが後の時代の人なので、ナポレオンこそ「フランスのトトメス3世」でいい気がする。なお、この二つ名の命名者は、アメリカ生まれのエジプト学者、ジェームズ・ヘンリー・ブレステッド(James
Henry Breasted)のようだ。
ハトシェプストとは常に共同統治であったが、逆に言えばトトメス3世は常に「王」であった。
中でも「メギドの戦い」は有名で、西アジア方面への遠征は17回を数え(実際に戦闘によって敵首長を討ち取ったのは初回のみで、あとは脅しのようだが)、国土を大きく広げた。
この王の代に西アジアへ何回も遠征した理由として、義母ハトシェプストの時代に外交がおろそかにされアジアの国々がエジプトからミタンニ王国に乗り換えていたためで、北西の、アジア方面の国境線を強化する必要があったのだという説があるが、ハトシェプストのせいというよりは、当時の微妙な国際情勢のせいと考えるほうが妥当だろう。ファラオの幼い時期はファラオ自らが直接戦場に出られないので、前線の士気を上げることは難しいし、大国に挟まれた小国としても、どちらに尽けばより安定するのかの判断が難しい。
この王は成長後に軍事遠征を繰り返し、エジプト王国史上最大とも言われる広大な版図を作り上げる。妻たちのうちメンヘト、メンウィ、メルティは異国(シリア系?)出身とされ、属国化したシリア・パレスティナ方面の小国の王女たちを輿入れさせていたのではないかと推測される。
●義母との関係
ハトシェプストの名や記録を抹消した行為は有名だが、しかしハトシェプスト葬祭殿オペリスク付近から出土したハトシェプストとの関係を示す像などから、それは政治的意図からによるもので、憎しみによるものではなかったことが知られるようになった。ハトシェプストとの共同統治時代に自ら命令を下していたこともあり、完全に主権を奪われていたわけではない。「ハトシェプストが生きていた時代には王権を振るえなかったため憎んでいた」というのは古い説である。
●弓引く王
この王の時代にエジプトにおける射的競技が重要になり、碑文などで大きく取り上げられるようになる。ミン神を息子アメンヘテプの「師匠」として選び、自らの墓の壁画にミン神が王子に弓の稽古をつけているさまを描かせた。
●アメン信仰と建造物
”アメン神の旗の御許に。” 自らの華々しい戦歴をアメン神殿に記すことによって、アメンの威光を高め、先代のハトシェプスト女王と同じく、この神と王家のつながりを強調した。
と同時に、正反対とも思える母性の女神ハトホルの礼拝所も、テーベ近郊に建造した。
このあたりから、王家の財産によって潤った神官団の権力と、聖俗一体政治の微妙さが浮き彫りになってくる。子孫のアクエンアテンがアメン神官団と決別するのは、およそ100年後のことである。
●遠征の伝説―「ヨッパ奪取の物語」
トトメス3世の軍がヨッパ(ヤッファ)の町を攻め落とした、という内容の伝説がある。
古代エジプトのファンタジー戦記文学「ヨッパ奪取の物語」
また、この物語に登場する将軍ジェフティは実在する人物で、墓も見つかっている。ただし、その墓の位置は記録が不十分なため埋もれてしまい現在では不明。取り出された遺物だけは各地の博物館に展示されている。
トトメス3世の将軍ジェフティの失われた墓と伝説
●ガラス作りのイノベーション
「ガラスの起源は古代エジプト」という不思議な説が出回っている件
ガラス作りの技術が遠征によって西アジアから持ち込まれるのは、この王様の時代。トトメス3世の時代は、エジプトに多くの技術や要素が流れ込んだ変革の時代でもある。
●おまけ
トトメス3世を「古代エジプトのナポレオン」と呼んだのは誰だったのか。まさかのあの考古学者だった
トトメス3世「オロンテス川でゾウ狩ったで!」シリアにゾウはいるのか問題について
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