ここでは、二度のペルシア支配の時代の王たちについて、ペルシア史からエジプト関連の記述を抜粋して記載している。
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第27王朝
第一次ペルシア支配
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■カンビュセス2世
エジプト王としての治世 紀元前525年〜522年
ペルシア語: カンブージヤ
父: クールシュ2世
妻: ウタウサ(姉) リタストゥーナー(妹)
紀元前530年、父によりバビロンの王とされる。
父クールシュ2世はエジプトを後回しに中央アジアの征服に乗り出し、父の没後に満を持してエジプト遠征に乗り出した。
エジプト側の歴史からすると「第27王朝が成立した」だが、ペルシア側の歴史では「支配地域が一つ増えた」という認識。ファラオとして即位したというのもエジプト側の認識で、ペルシア側からは支配地域の称号として「上下エジプトの王」がひとつ増えただけである。
ヘロドトスの「歴史」では、カンビュセス2世はエジプトに対する理解がなく、酷いことをして現地民の反感を買ったことになっているが、歴史的な証拠からは、ある程度、エジプト側の文化や慣習に従っていたことが知られている。
なお、エジプトまで遠征するのがギリギリで、ヌビアやカルタゴなどへの遠征はすべて失敗に終わっている。
エジプトを支配した後、帰国中にシリアで没。血縁者が後継にならなかったため、この王家としてはいったんここで断絶している。
墓所は2006年にパサルガタエで発見された。
■ダレイオス1世
エジプト王としての治世 紀元前522年〜486年
ペルシア語: ダーラヤワウシュ
父: ウィーシュタースパ
妻: 前王の姉妹であるウタウサ、リタストゥーナー
前王の姪であるパルミーダ
次なる王家の時代。
父は軍高官、自身はかつて王の近衛兵だったという軍人の家柄。カンビュセス2世の死後、後継者争いを制して即位したことになっている。
前王と同じく長い称号を名乗ったが、前王まで「アンシャンの王」だった部分が「ペルシアの王」に代わり、ここで初めてペルシアという地名が帝国の中心部を指す言葉とる。また、帝国(クシャサ)という呼称もこの王から。
ギリシャ人が「ペルシア帝国」と呼んだ実態は、ようやくこの時代に出現する。
また、この時代のペルシア帝国の版図の中で明確に首都と呼べる都市はなく、王はバビロン、スーサ、ハグマターナといった都市を巡回して生活していた。
紀元前486年に病没。墓はペルセポリスの北に作られている。
■クセルクセス
エジプト王としての治世 紀元前486年〜465年
ペルシア語: クシャヤールシャン
妻: アマーストリー
ダレイオス1世の後継者は、正妻ウタウサの嫡男クセルクセス。
妻は従姉妹にあたるアマーストリーで、かなり気性の激しい王妃だったらしく様々な逸話がある。
クセルクセスはバビロンの破壊者として名高い。
自治を認めていたバビロンが反乱を起こすようになったため、バビロンの都市神マルドゥク神を祀る神殿を破壊し、像を持ち去った上で住民も強制移住させた。
バビロンのエサギル神殿の歴史はここで途切れる。
また、同時代にエジプトでも反乱がおきるが、これも鎮圧されている。
帝国の版図が最大だったのは、この王の時代である。
死因は暗殺とされる。その際に皇太子も殺害された、もしくは首謀者が皇太子だったために、弟アルタクシャサが次代の王となる。
■アルタクセルクセス1世
エジプト王としての治世 紀元前465年〜424年
ペルシア語: アルタクシャサ
妻: ジャーマースピー
帝国内の各地で反乱が相次ぎ、エジプトでも再び反乱が起きている。
しかしそれらは何とか鎮圧し、ギリシャとも、デロス同盟との間でカリアスの和議を結ぶ。
軍事的な遠征などはほぼなく、静かで安定した治世が続いた。
そのため影が薄いと評価されることもあるが、40年何事もなく治められたのなら十分に名君だと言える。
■ダレイオス2世
エジプト王としての治世 紀元前423年〜404年
ペルシア語: ダーラヤワウシュ
妻: パリュサティス(異母妹)
前王の没後、後継者争いが勃発し、皇太子クシャヤールシャン、異母弟ソグティアノス(ペルシア語名は不明)が連続して即位するがどちらも短命に終わる。
その後に即位するのがワウシュで、即位刻にダーラヤワウシュと名前を変えている。
治世の末期にエジプトで大規模な反乱が勃発。(アミルタイオスの乱)
それを押さえる力がなく、エジプトはそのまま帝国の支配下から脱してしまう。
■アルタクセルクセス2世
エジプト王としての治世 なし(もしくは紀元前404年の即位直後のみ)
ペルシア語: アルセス
妻: スタテイラ
エジプトの離脱後、隣接する小アジアでも反乱が相次ぎ、さらに宮廷内でも王族の衝突が発生してしまい、エジプトで第28王朝が成立するのを止めることは出来なかった。
なお、その第28王朝も一代限りで途切れ、第29王朝、第30王朝とエジプト国内での王権争いが続く。
次にペルシアがエジプトに戻って来るのは次の王の時代、およそ50年後のことである。
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第31王朝
第二次ペルシア支配
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■アルタクセルクセス3世
エジプト王としての治世 紀元前343年〜338年
ペルシア語: アルタクシャサ
妻: ウタウサ(姉)
最初にエジプトに遠征をおこなったのは紀元前351年と思われるが、その時は失敗している。また同時期にフェニキアで反乱がおきたため、そちらの鎮圧に手を取られており、再侵攻までに時間がかかった。
改めて紀元前343年にエジプト遠征を実施。この時にはギリシャ人の将軍とエジプト出身の宦官を指揮官にすえた、という。
この遠征で最後のエジプト人ファラオである、第30王朝のネクタネボ2世は敗北して南へ逃亡。第31王朝として第二次ペルシア支配がはじまる。
なお、この支配は反乱を起こさせないため苛烈なものとなったようで、それがかえって反乱を引き起こす結果となっていた。
武力による支配の一方、北方ではマケドニアが勢力を蓄えつつあり、いずれ来るアレキサンダーとの衝突の予兆が生まれつつあった。
■アルタクセルクセス4世/アルセス
エジプト王としての治世 紀元前338年〜336年
ペルシア語: アルタクシャサ/アルシャカ(こちらが幼名)
アルタクセルクセス3世の死後、軍事的な力で帝国を締め上げる恐怖政治の反動か、宮廷内では大規模な権力闘争があったようで、即位したのは末子のアルシャカだったとされる。
傀儡の王に近く、マケドニアのフィリッポス2世からの無茶な要求に強硬手段ではこたえられず、帝国の弱体化を知らしめることとなった。
最期は、宮廷内で力を持っていた宦官に殺された、とされる。
■ダレイオス3世
エジプト王としての治世 紀元前336年〜332年
ペルシア語: ダーラヤワウシュ
妻: スタテイラ
王家の男子が全滅してしまい、次に担ぎ出されたのは将軍の一人。王家に連なるという系譜を作成された上で玉座らつけられるが、権威が不足し、各地で反乱がおきる。
バビロンとエジプトは、宮廷内のごたごたが続く中でどさくさに紛れて再独立を宣言する。ただし、エジプトで誰が王として即位していたのかは分からない。
決定的な帝国からの独立は332年、フィリッポス2世の息子アレキサンダーのエジプト奪取から。
紀元前330年には有名なペルセポリス炎上事件が起き、帝国は崩壊する。
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