アイスランド・サガ −ICELANDIC SAGA

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アイスランドの植民事情


 アイスランドへの移住が始まったのは、870年ごろと言われている。
 この出来事を記録する資料こそ、アイスランド語でのはじめての歴史書である「アイスランド人の書」(原題:Libelluus Islandorum)だ。
 書いた人物は、アイスランド西部のヘルガフェル出身の人物、アリ・ソルギルスソン(1068-1148)。彼は歴史に興味を持ち、自分の書くものが客観的であるようにとの注意を払って、この書物を書いた。つまり、口伝えにより面白く語られたサガと違って、最初から歴史書として、この記録を残したのである。

 この書物の和訳はサガ選集(東海大学出版会)にある。
 といっても一般の書店では滅多に扱わないと思われるので、一部を抜粋してみる。
 まず、殖民が始まったのは、「黒のハルヴダンの息子、美髪のハラルドが世を治めていた頃」であるという。
 『美髪のハラルドが16歳の時、ノルウェーからはじめてアイスランドに到着したノルウェー人はインゴルヴという名であった。また二度目は数年後であった。彼は南の方のレイキャヴィークに居を定めた。』
 現在のアイスランド首都、レイキャビクのことである。

 アイスランドは、大規模な移住が始まるより前に、既に発見されていた。
 では、なぜ、ハラルドの時代に移住が始まったか? それは、ハラルドが王として、自分に反逆する者たちに圧制を強いたからである。
 ノルウェーでは文献記録がラテン語で書かれることが多かった。その一つ、トロントヘイムの僧、テオドリクスによる「ノルウェー王の古代史」(Historia de antiquitate regum norwagiensium)の記述は、ハラルド王の時代から始まり、1130年で終わる。
 また、スノリ・ストルルソンの「ヘイムスクリングラ」には、、ハラルド美髪王については、こんな話がある――

 ハラルドは、ある有力な首長の娘に求婚に行った。だが気位の高い娘は、「私はノルウェーの王でもない男の嫁にはなりません」と、ハラルドを突っぱねた。当時、ノルウェーは有力な首長たちが地域ごとに治めていたわけで、王はいない。娘としては、ハラルドの持つ領地や財産に不満があり、「ノルウェー全土を治められるくらい立派な人でないと夫にはしたくない」と言ったつもりなのだろう。
 しかし、ハラルドはよっぽど、この娘に惚れていたのか、悔しかったのか、「よーし、じゃあ今日からノルウェーを支配しにかかってやるさ!」と、本当に戦争をはじめてしまった。そして、願掛けのため、王になるまで髪を切らないと言い出したのである。
 こうしてハラルドは、ノルウェー最初の王になるのであった。――

 このとき、戦に破れた地方の豪族や支配者たちに突きつけられたのは、「服従か死か」で、あったという。服従を拒んだ有力者たちは、ハラルドの支配を逃れて、こぞってアイスランドへ渡った。つまり、アイスランドへの入植者たちは、本国では、かなり地位の近かった人々に限られる、ということだ。もちろん、人々とともに、おびただしい財産もノルウェーから流出することになった。
 これにより、国が貧しくなることを恐れたハラルドは、のちに無断で海外へ移住することを禁止する。そして、移住の際には「出国税(ランドアウラル)」を払うように、という法律が作られる。額は時代ごとに異なっていたようだが、税をとる決まりは、その後もずっと、続けられたのである。

 入植は、その後、60年で完了する。
 完了はフロンティアの終了、つまり、誰のものでもない土地が無くなった時点での完了ということになる。それまでは誰のものでもない土地に行って、適当に線引きして自分の土地を決めていればよかったのだが、既に誰かのものになってしまったあとでは、金を払うなり、交渉するなりしなければ、移住は出来ない。
 そして、アイスランドは、人の住める土地――氷で覆われておらず、屋敷を建てることのできるような平坦な土地が、それほど多くない。
 入植できる人数に限界があるのもうなづける話で、それゆえに、人々はさらなる未開地を求めた。それが、グリーンランドの発見へとつながっていく。ただし、グリーンランドへの入植は、結局、失敗に終わっている。


 さて、入植者たちは、ヴァイキング行で攫ってきたアイルランドやスコットランドの奴隷も連れて行った。その奴隷たちは、もともと、キリスト教徒である。
 だが当時、ノルウェーはまだ、本格的なキリスト教化はされていない。アイスランドへ移住した人々も、トールやオーディンの神託によって入植地を決めたり、移住してすぐ神殿を建てたりと、ゲルマン的な信仰を持っていたことが伺える。
 その、彼らにとっての「法」が、「ウルヴリョート法」である。
 これは、アイスランドに移住してきたウルヴリョートという法律家のもたらしたもので、ノルウェーのベルゲン地方の集会ゴラシングに由来するという。実際にアイスランドで使われた法は、このウルヴリョート法に加筆・修正を加えたもので、もちろん、時代ごとに少しずつ変化していった。
 アイスランドでは、国家は作られなかった。
 島全体を4つの地域に分け、それぞれで自治するという方法が取られ、それぞれの地域で集会を持ち、基本的に、その地域のことは、その地域の集会で話し合われた。
 集会は「議会」であり、「法廷」でもあったのである。

 この自治は、1262年まで続く。そしてその後、アイスランドには、1944年に再度独立するまで、長い長いノルウェー支配の時代が続くのである。


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