北欧神話とサガをひとまとめにしている本もあるくらい、北欧神話を語るには、アイスランド・サガを避けては通れない。
北欧神話は、ノルウェーからアイスランドへ移住した人々が、本国から持っていった伝承だ。
対して、アイスランド・サガは、アイスランドへ移住した人々自身の物語である。そのため、双方の語り手は同じ人々ということになる。
北欧神話とアイスランド・サガが、同時代・同地域に、同一言語で書かれたものだ。
たとえば、北欧神話の主要な文献の1つに、スノリ・ストルルソンの書いた「散文エッダ」があるが、同時にスノリは、ノルウェー王家の歴史をつづった「ヘイムスクリングラ」の著者でもある。
サガの世界に生きる人々は、神話の中の神々が実際に信仰されていた時代を生きている。
だが、スノリの時代、既に北欧神話は消えかかっていたようで、実際にスノリは「これが忘れられないために記す」と、「エッダ」のなかに書いている。
スノリがアイスランドで「エッダ」を記録していたその頃、本国ノルウェーでは、北欧神話の神々は既に死んでいた。
早い段階からヨーロッパの影響を受け、キリスト教の伝播によって、元々あった神話伝承が廃れていったのである。古い伝統を踏破し、神々を讃えたスカルド詩人たちが出なくなったのも、そのためだ。
海を越えた先、離島アイスランドではキリスト教の影響がまだ弱く、神話伝承が辛うじて生き残っていた。影響がゆるやかだったために、キリスト教えの伝来とともに文字の文化や、紙に書いて記録する文化が浸透してから、以前からの伝統を記録するだけの猶予があったのである。
アイスランド・サガは、人々が、実際にどのように神々を信仰してしたのかを示した、貴重な資料である。
サガの中には、ケニングという独特の技法がある。
「戦の光のオーディンに墓を与えたり」と言えば、剣もつ戦士を殺したのは自分である、と殺害を告白していることになる。ぽっと口からそういった言葉が出て相手にも伝わるということは、言っているほうも、聞いているほうも、神話を日常的なものとして知っていたことになる。神話が、どんな社会的状況で生き、成長していったのかを考えるうえで、サガが描き出す当時の光景が重要になってくる。
神話はもちろん、人によって語られたものだ。その神話を、いかなる社会、いかなる人々が語っていたのかを知ることは重要だろう。北欧神話が血なまぐさく、意味不明に見えるなら、それは現代社会の常識を基盤に考えてしまっているからだろう。
法律を乱すことが何よりの悪とされ、集団を守ることが第一と考えられた時代には、その手段として殺人のような厳しい罰が持ち出されることも、決して不思議ではなかった。集団のおきてを破った者が生きていては、おきて自体の権威が落ち、結束が乱れて外部からの攻撃に弱くなる。おきてに反した者は、必ず殺されなくてはならなかった。
そういった社会では神々も厳しく、法律や約束事に関係する場合が多い。神々は法をたて、裁判を開き、人の運命に介入する。また女神たちは復讐を請負い、約束ごとの後見人をつとめ、あるいは結婚を契約として扱う。
サガの世界を知れば、その中の人々が見ていただろう神々の世界もまた、理解できてくるはずだ。
北欧神話は、北欧だけで語られたものとは限らない。
ゲルマン民族はヨーロッパ中を大移動してた民族だ。
人が移動するということは、その人たちが持つ神話も移動していくということである。北欧神話の生息地は、北欧に限らない。たとえばドイツやスイスでも、オーディンやフレイヤのような古代の神々を信仰した記録や伝承が残されている。それらを伝えているのは、過去に移住していったゲルマン人の子孫たちだ。
だが、アイスランド・サガは、「アイスランド人のサガ文学」なのだから、北欧を舞台にした、北欧のみで書かれた作品である。(だから「アイスランド」サガと呼ばれる)
アイスランド・サガの世界は、よく知られている北欧神話と同じ時代に、同じ世界観の中で語られた物語であり、神話の世界を語る上では重要なものになる。