アイスランド・サガ −ICELANDIC SAGA

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サガの真実


法則というのは、たとえば、こういうことだ――

「良き事は存在し、悪しきことは存在しない。良き事を信じるのは良いこととされたが、悪しきことを信じるのは良くないこととされた。」
これが、アイスランド・サガに描かれる世界観、サガを語った人々の考え方だ。
良き事は存在するが、悪しきことは存在しない。それはつまり、悪しきこと、望ましくないことは記録に残さない、ということでもある。彼らにとって真実とは「良き事」であり、悪しきことは、たとえ聞いても存在しないものとして後世に伝えるものに入れなかったのである。

古代北欧の世界では、子供の名づけに関して、家系の中の有名人や良いことをした人の名前をつけることが多い。これは、サガの中の登場人物に同名の人がわらわら出てくる一因にもなっているのだが、それはともかく、名前に関する呪術信仰のようなものを感じる。つまり、よき名前を得た子は存在するが、悪しき名前を得た子は存在しないのである。

また、これは、サガの中で、登場する人物の行動が紋切り型になっていることの理由でもある。
たとえば戦いの場面があったとする。死に際して怯えるのは悪しきことであり、臆病者のすることである。だから主人公格の人物や、好ましく描かれている人々は決して怯えず、悔いる言葉を口にすることは無い。もし実際は口にしていたのだとしても、その描写は後世に残らない。好ましい人物は、あくまで理想的な行動、物語としての「お約束」的な行動しかとらないのである。


真実とは何か

サガを読む上で重要なことは、その中に含まれる真実とは何か、ということである。
アイスランド・サガは、しばしば、歴史的なものとして扱われる。実在したことが知られている人物が登場することも少なくなく、物証として名前が残っていることもある。また、サガの中で起きている出来事について年表を作り、時間を特定することが可能である場合もある。
つまりサガは、完全な架空の物語ではない。中で起きている出来事も、一部の呪術に関する記述などを除けば、現実的なものとして、現代人が受け入れることも難しくない。

しかし、(ここが重要なのだが)サガの中に書かれたことは、すべてが真実ではない。
それは日本の伝説的な偉人、たとえば源義経だとか、聖徳太子だとかについて記された記録と同じことだ。義経が弁慶と戦ったとき、本当に弁慶が刀を集めていたかどうかなんて分からない。が、義経と弁慶は実在したらしい。…そのようなものである。

そして最初にあるとおり、「好ましくない出来事は、記録に残さない」。
現実に起きた出来事と、人々の意識の中にある出来事は違う。客観的な現実と、主観的な現実の違いである。サガの書かれた時代に「客観的に見た出来事を記録する」という概念は無かった。現代の意味で「歴史」を定義するならば、サガは歴史ではない。人々がかくあるべし、と望んだ形に整えられた、過去の出来事なのである。

ただし、アイスランド・サガは決して、実在しなかった人物を存在させることはない。
(神話的なサガを除けば、他のジャンルに分類されるものでも同じ。これは、サガ文学の特徴といえるかもしれない)

サガの中では、名前は実在そのものである。家系と肩書き(あだ名)、その人の行った偉業、というセットで語られる名前は、現代人からするとひどく薄っぺらく、個性がないように思えるが当時の人々にとっては非常に重要なものだった。その一行、その一言に残ることが、つまり何百年も後まで自分の名前が語られることが、サガの時代に生きた人々の目指すところだったのである。


運命とは何か

「詩のエッダ」に含まれる「巫女の予言」の中で、巫女は神々の死と世界の終焉について語る。トール、オーディン、フレイといった有名な神々の戦いと敗北、神々の世界や大木ユグドラシルの消失…それは既に決まっている未来であり、寸分たりとも変えることは出来ない。

それと同じことが、サガの世界にも書かれている。
サガの世界、というより古代北欧の世界における「運命」とは、たとえ成就が未来であっても、「既に終わってしまったこと」と同じ意味で扱われる。戦士たちの運命は、戦いに赴く前に既に決まっている。起きるべく争いは、場合によっては、起きる何年も前から予言されている。

だが現実的に考えて、運命が決まっているなと゜ということは、ありえないのである。
サガは、サガの中に語られる出来事が「終ってしまった」後に作られる。つまりサガ、およびエッダ詩は、それが語られている時間より過去の出来事を描写している。
運命についての描写は、サガが未来に作られたことの証明であり、未来だからこそ付け足すことの出来た「フィクション」だと言える。悲劇的な出来事について、何の理由もなく淡々と書くよりも、「それは過去に、運命づけられていたことなのだから、仕方が無い」と書くほうが、納得はいくだろう。事実、サガの中で運命によって予言されるものは、すべて「悲劇」である。サガの中では運命による予言は、夢の解釈や女たちの直感によってもたらされるものだが、「成功」について、そのようにして予言されるものはない。


時間とは何か

サガの中における時間は、暦によって客観的に計られたものではない。「xxx暦xxx年」などという記述はサガの中には一切なく、年代を特定するものは、「オーラーヴ王がxxxをした年の春」などといった、出来事による記述になる。
サガの書かれた時代に時計は存在しない。また暦も無い。年月を数えることはあっても、それがすべての人に共通の、暦というモノサシの上でのどの地点であるかは、重要ではなかった。時間は、特筆すべき「出来事」を基準として計算される。そして、「出来事」がない間の時間は、サガの中では語られない。あるシーンからあるシーンへ、何年も場面が飛ぶことは当たり前で、何もなかった時間は存在しなかったのと同じことになっている。


実在とは何か

サガの中に登場する人物は、名前と、それに付属する長ったらしい家系だけであることが多い。
たったそれだけなのだが、それこそがサガの中で重要なものである。サガの中で言う「実在」とは、過去と結びついたものでなくてはならなかった。氏素性のはっきりしない人物は、存在したのかしなかったのか証明することが出来ない。だが、サガで頻繁に出るように、「▲▲という男がいた。xxの息子で、母のxxはxxの娘だった。xxの祖父はxxであり、かつてxxを行った人である。」の、ように、家系について(ことに、知名度の高い勇名な祖先、あるいは子孫について)語ることは、始まりにある▲▲の実在を証明するための記述であり、いわば身元証明のようなものである。


サガの作者たちは、サガに語られる内容が、内容が「彼らにとっての真実」であることを目指していた。
それは、現代で言うところの「客観的な真実」ではない。だからサガは、現代的な意味での「歴史」ではない。サガの作者たちは過去の出来事を「歴史」としては語らなかった。だが、嘘を伝えているつもりは、まったく無い。ここまで挙げたような法則に従って、「彼らの真実」を語っているのである。

サガの中の真実とは、「彼らにとっての真実」とは何か。
それは、良き事だけを存在するものとし、好ましくない出来事は存在しないものとして消去した理想的な形での伝記である。
良くない出来事については、それは運命によつて予言されていたものとし、過去に遡って予言のシーンを付け加える。
多くの家系によって証明された、実在する人物を記録し、実際にあった出来事を語る。(だから小説などというものは論外。)
時間は、皆のよく知っている出来事を基準にし、聞き手が「ああ、あの頃の話なんだね」と、回想できるようにする。

サガの世界は、それを語った人々の持つ概念と切り離しては理解できない。
「真実」や「過去」や「時間」という言葉の概念は、今の時代、21世紀におけるそれとは異なるものなのだ。



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