ニーベルンゲンの歌-Das Nibelungenlied

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ジーフリトを正々堂々と殺せるか



 よくある批判に、「ハゲネはジーフリトを騙し、背後から襲って殺した。だから卑怯者だ」というものがある。
 そのように思って読んだ人は、物語が後半に入り、ハゲネが正々堂々たる武将として描かれるのを読んだ時、奇妙に思ってしまうだろう。
 一体、どちらのハゲネが本来の姿なのか。彼は本当に卑怯者だったのか?
 ジーフリト殺害の背景。まずは、ここから始めたいと思う。

 「そのほかにも私はあの男についていろいろ知っております。
 あの男は、あるとき竜をも退治しました。彼はその血を全身に浴びて、
 そのため肌が不死身の甲羅と化したのです。
 どんな武器も彼を傷つけ得ないことが度々証明されました。」
(詩節100)

 …と、「ニーベルンゲンの歌」序盤でハゲネ自身によって語られているとおり、ジーフリトは過去に竜を殺したことがあり、竜の血によって、全身が硬質化し、刃物の通らない体となっている。
 その彼の唯一の弱点が、ハゲネがクリエムヒルトから聞き出し、実際に暗殺に使われた「肩甲骨の間」であった。
 そこは、竜の血を浴びるとき、木から落ちてきた一枚の菩提樹の葉によって隠されていたため、「竜の血を浴びていない」、唯一の生身の部分である。ハゲネが槍で貫いたのは、まさにそこ、彼の唯一の弱点だった部分であった。


 さて、ここで、問題である。
 当時の武器といったら剣、槍、弓矢。もちろん鉄砲など、便利なものは無い。
 この手もちの武器だけで、背中のド真ん中の一点しか刃物の通らない相手を真正面から殺すことは、可能だろうか?
    答えはもちろん、"不可能"

 ハゲネが後ろからジーフリトを襲ったのには、避けて通れない理由があったのだということを理解しておくべきである。
 そもそもジーフリトの体には、背中からしか刃物が通らないのである。従って、殺すためには、背後から襲うしかない。
 物語の都合上、またはハゲネ自身が抱く確固たる決意によって、どうしても死ななくてはならないこの人物を殺すには、ハゲネがとった、一見卑怯とも見える方法しか無かったのだ。
 ハゲネを卑怯と呼ぶのであれば、最初から卑怯な方法でしか倒せないような魔法を身につけたジーフリト自身もまた、卑怯である。
 全編をとおして、魔法で武装している人などジーフリトだけなのだ。
 魔法禁止の世界なのに、前提からして有利に立っているとは、これいかに。

 それでも「正々堂々と戦えよ!」と、仰るかたがおられるかたは、ひとつ、考えてみて欲しい。
 ハゲネは、いくら強くても生身の人間。対してジーフリトは、竜の血を浴びた半神の英雄だ。
 人間は神には勝てない。人間は英雄には勝てない。これは大原則である。たとえば、生身の人間がギリシア神話のヘラクレスと正々堂々戦って倒すのは、物語のお約束と世の中の原則上、不可能だ。
 それだけではない。ジーフリトは、アーティファクトの一種と考えられるニーベルンゲンの剣、バルムンクを手にしているのに対し、ハゲネは、特殊な武器など何も持っていない。装備品にしても相手のほうが格上なのだ。戦ったら、確実に負けることは決まっていた。

 そんな状況で、あなたなら、全身が鎧のように硬く、急所の一点以外は刃物の通らない恐ろしい人間の背後に回って、その急所を襲えるだろうか。
 少しでも狙いを外したら刃物は通らない。しくじったら、振り返ったジーフリトが怒ってあなたを殺すのだ。
 ヤツが死ぬか、自分が死ぬか。まさに命がけの一撃である。

 しかもハゲネは、グンテルとともに直前のシーンで武装を解除している。(詩節976)
 殴られたら確実に死に至る肌着一丁の状態で、この一撃必殺の暗殺を成し遂げたのだ。凡人には到底、そんな勇気はもてない。

 もちろん知将と呼ばれたハゲネであれば、勝てないことは、よくわかっているはずだ。彼は分かっていて突っ込んでいくほど若くなく、無謀でもない。激情家にもかかわらず、第三歌章でジーフリトが理不尽な申し立てをした時でさえ、怒りを押さえて沈黙していたくらいなのだ。
 しかし、それでも彼には「ジーフリトを殺さねばならない理由」があった。それほどまでに彼を駆り立てた不誠実が、ジーフリトにはあった。それについては後で述べるとするが、生身の人間でありながら、この半神の英雄に立ち向かったハゲネの勇気と決意は褒められるべきである。

 英雄は、普通の人間がかなわない超人だから英雄と呼ばれる。ハゲネは、「決して倒せない」ものに己一人の挑み、勝利した、神話史上稀に見る人物なのである。
 背後からジーフリトを襲った卑怯者、との謗りは、撤回されねばなるまい。


***余談

 この部分は、 「ニーベルンゲンの歌」と起源を同じくする、もう一つの物語「ヴォルスンガ・サガ」でも、同じように圧倒的な力の差のもとに戦いが展開される。
 シグルド(ジーフリト)は、オーディンの血をひくヴォルスンガ家の者…つまり、神の子孫。
 一部のサガによれば、ハゲネは小人アルプフリーヒの子(つまり半分は妖精族)だとされているが、神の子孫と小人の息子では、ちょっと格差がありすぎる。ハゲネには、ジーフリトにかなうほどの血筋は無いのである。 
 だいたい、小人というのは神話でもサガでも、魔法に秀で、魔法の道具を作ることには長けていても、本人自身がすぐれた戦士というわけではない。魔法の道具(アーティファクト)も無しに神の子と戦ったら、まず負けるだろう。

 また、「ニーベルンゲンの歌」以降の物語は、キリスト教時代のため、過去の神話や神々が消えたあとに書かれたものであった。
 ジーフリトもハゲネも、過去の伝説を引きずってはいるものの、キリスト教徒である。キリスト教徒が、異教の神や小人の子孫であるはずはない。従って、ハゲネの「小人の子孫」という部分は後世に削られ、正真正銘、普通の人間として描かれるようになっていた。かつては持っていたかもしれない、小人の魔力は持ち合わせていない。
 にもかかわらず、ジーフリトだけは、依然として「半神の英雄」としての能力を備えたまま描かれ続けた。
 魔法など認めないキリスト教時代において、ハゲネは正々堂々と魔法の援護を捨てて生身の人間として生きているのに、ジーフリトは、魔法の助けを借りて生きている。竜の血のおかげで、すっぱだかで戦ったってへいちゃらなのだ。

 本当に卑怯なのは、どっちだったのだろうか。


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