【ここの概要(歴史、自然など)】
西山荘は財団法人水府明徳会が管理しており、写真/ビデオ撮影を禁じている(家庭での個人的使用は認めているが)。従って、ここでの写真紹介はできない。
水戸光圀は寛永5年(1628年)に3男として生まれ、6歳で世継ぎとなり、36歳で藩主となった。没したのは元禄13年(1700年)で73歳の時。義公[ぎこう]と称される。
光圀は藩主として高く評価されている。特に評価されるのは学問に力を入れたことであろう。彰考館を置き、歴史を編纂するために各地の学者を招聘した。藩の財政を傾けるほどに力を入れた「大日本史」の編纂は明治36年(1906年)に完成するまで250年間継続された。
西山荘は元禄4年(1691年)に隠棲してから没するまでの約10年間、光圀が過ごしたところである。天下の副将軍だったにもかかわらず、領民と分け隔てなく接し、悠々自適な余生を楽しみながら大日本史の編纂をしたといわれる。このような人柄が、諸国漫遊記の原点なのであろう。ちなみに、光圀自身は諸国(江戸と水戸藩近辺以外)を漫遊した歴史的事実はないのだとか。関東圏内の視察旅行はあるようですが。
西山公園は、西山荘を含む一帯を指し、水戸八景の「山寺の晩鐘」もその中にある。
【行ってみた感想】 2002.4
西山公園は広く、公園の駐車場に車を止めてから西山荘まで歩くのはつらい。桜の名所で、春には多くの客がやってくるが、それ以外の時期は閑散としている。公園の手入れは行き届いており、公園からの眺望は素晴らしい。
駐車場に車を停め、西山の里のレストハウスを抜けて西山荘へ向かう。入場券売り場のむこうが西山荘。鬱蒼と木々が生い茂り、しかしよく手入れされている。説明看板も充実していて、事前準備(勉強)なしでもよく分かる作りになっている。もみじが多く、紅葉の時期がうつくしそうだ。ただし、西山荘は、上にも書いたように、写真撮影はよいが、それを公の場で紹介することは禁じられている。
余談だが、このページを作るにあたって、西山荘のページを検索してみたが、ヒットしなかった。水府明徳会には、是非充実したサイトを作って運営してもらいたい。
【看板説明文】
● 太田県立自然公園案内
太田県立自然公園は、徳川光圀(水戸黄門)の隠居地の西山荘、義公廟、久昌寺[きゅうしょうじ]、水戸八景の一つ山寺の晩鐘、国指定重要文化財の佐竹寺本堂などの文化遺産とそれを取りまく良好な自然環境が一体となった史跡公園です。
この静かな風格ある自然環境をいつまでも残していくため皆様の御協力をお願いします。
● 山寺の晩鐘
この地は、旧久昌寺の三昧堂檀林[さんまいどうだんりん](僧侶の学校)のあった所で、天和三年(一六八三年)に水戸第二代藩主徳川光圀卿が、檀林を開かれてから天保一四年(一八四三年)に廃されるまで一六〇年間にわたって、全国から学僧が集りその盛時には数千人の学僧が修行に励んだといわれている。天保四年(一八三三年)水戸第九代藩主徳川斉昭卿(烈公)は水戸八景のひとつとしてこの地を選んだ。当時、周囲の寺々より打出す鐘の音を、松籟[しょうらい]と共に聞き、「山寺の晩鐘幽壑に響き」と詩に詠み、「山寺の晩鐘」と命名した。
斉昭卿は、水戸藩子弟たちを、八景勝地約八十キロを一日に一巡させ、自然への親しみと心身の鍛練をさせることを計った。
つくつくと聞くにつけても山寺の 霜夜の鐘の音ぞ寂しき 斉昭
常陸太田市
● 天下の魁 水戸のこころ(天保のウォークラリー)
水戸八景
水戸八景とは、水戸徳川家第九代藩主斉昭公が、天保四年(一八三三年)に領内を巡視し八つの景勝地を選定したものである。
斉昭が、藩主を継いだ頃の世情は、決して無事安穏ではなかった。英明で覇気に富んでいた公であっても、心を煩わすことが多かったであろうから、八景の風景は公の憂いを散らすに役だったに相違ない。しかし、八景設定の大きな目的は、藩内の子弟に八景巡りをすすめて、自然観賞と健脚鍛錬を謀ることにあったのである。当時の流行語を用いれば、正に「文武両道の修練」に資せられたもので、公の深慮の程には全く、感嘆してしまう。
水戸八景(徳川斉昭
作)
雪時嘗で賞す仙湖の景
雨夜更に遊ぶ青柳の頭
山寺の晩鐘幽壑に響き
太田の落雁芳洲を渡る
花香爛漫岩船の夕べ
月色玲瓏たり広浦の秋
遙かに望む村松晴嵐の後
水門の帰帆高楼に映ず
● 市指定史跡 元太田山埴輪窯跡
昭和三十七年一月末、旧太田山一帯の県立太田公園内に駐車場の建設が推定された時に偶然にもこの遺跡が発見された。
埴輪というのは、大むかし古墳の頂部や麓を巡って並置される素焼きの土製品で、円筒状のものもあれば動物を象った動物埴輪とか、人物を象った人物埴輪などがある。これを焼いたのが埴輪窯である。
この駐車場には三基、入り口に二基が認められ、他に義公廟から展望台へ行く道の北側にも五基ほど認められた。確認された窯跡から推定すると全長七.八メートル、幅三.四メートル、厚さ三五センチメートルの登窯で大地の斜面を利用して作られたものである。ここから円筒・人物・動物埴輪が出土している。ここには専門の工人がいて作製にあたり地元のほか幡山や梵天山などへの古墳へも供給したと考えられる。/常陸太田市教育委員会
【備考】
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