段差恋愛方程式(扉・ちょっとまて)

 姿見の前に立って、遥奈はいつもよりも念入りに制服のチェックをする。リボンの形を整えるために10分もかかったことは、親にも内緒だ。
 普段ならおざなりのブローも何度も何度も繰り返した。少し背伸びをしてほんの少しだけコロンを耳の後ろにつけている。柑橘系のミニボトルのものだ。
 他の人には全く変わらない今日なのに、妙に浮き足立っている自分がいるのに気づいて苦笑した。告白に応える前は、変わらない変わらないと思っていたはずなのにその様である。
「よし」
 ようやく納得が出来て、鞄を持ちながら部屋を出る。階段を降りながら腕時計を見ると、すでに出なければいけない時間だった。あわてて、玄関まで走る。
「バタバタ走らないの!」
 母親の怒る声が聞こえてあわてて「ごめんなさい」と反射のように言葉を返した。ちらりと映った姿が気になって玄関に置いてある鏡でチェックし直すと、時間をかけてセットした髪が乱れているのに気づく。
 うわあと思って、靴を履きながらもう一度簡単にセットし直した。落ち着くために深呼吸を何度もして、胸ポケットを上から軽く叩く。そこに大切なものが入っているのがわかると、ようやく本当に落ち着けた。
「いってきますっ!」
 扉を開けたらそこに久生が立っている可能性だって高い。
 本当はどんな顔をして会えばいいのかわからない。いきなり声が上擦ったらどうしよう、緊張しすぎたら、なんていろいろ思いが浮かぶが、目を閉じてえいっと外へと出た。
 けれど、そこには誰も待っていない。
(……先、行っちゃったかな)
 ほっとするやら拍子抜けするやらで、遥奈はため息をついた。かごに鞄を入れて、自転車を漕ぎ出しても心の中はすっとしない。
 確かにいつもならとっくに出かけている時間だから、そこに久生がいなくても当たり前だ。けれど、昨日の今日で、それも自分はちゃんと返事をしたのだから待っていてくれてもいいのではないかと思う。
 なんだかモヤモヤする。
 漕ぐ足を急がせながら、そのモヤモヤが強くなるのを感じて、遥奈はもう一度ため息をついた。
(学校に着いたら、久生に言ってみよう)
 このときの遥奈には、その機会がことごとくかわされるとは思わなかったのである。


 何かをしようとする1日というのは、いつもよりも短く感じる。
 授業は移動や選択が多く、同じクラスであるというのに久生と話をするどころか視線を合わせることすらできなかった。それならばと、お昼休みに探してみるが、今日に限って久生の姿はどこにも見えない。柚麻は、お弁当もそこそこに用事があるからと言った遥奈に対して何か思ったようだったが、結局何も言わなかった。
 その昼休みに、何かがおかしいと遥奈が感じる。
 敵意の目を向けてくる女子生徒がいることは知っているが、それがいつもよりも酷い。それとは別に遥奈に対して興味深々の視線を送ってくる男子生徒もいる。その数は決して多くないが、気のせいですむほど少なくもない。
 遥奈は疑問符を浮かべながらも、久生が先決だと廊下を走って彼を探す。
 人が少ない階段の踊り場へ着いた時だ。
「ちょっと!」
 今の今まで忘れていた久生の取り巻きの少女たちが階段の上に立っていた。その様子はひどく憤慨しているようで、遥奈はさらに不思議に思う。
(何でこんなに怒ってるのかな……)
 嫉妬という怒り方だったら納得はできる。彼女たちの好きだった久生とどうのこうのがあったのだから、何か言われることに関しては当たり前かもしれない。
 しかし、彼女たちは嫉妬というより、大切なものを傷つけられたという怒りをしていた。
(てか、そんな場合じゃないし)
「何? 今、急いでるから後にして欲しいんだけど」
 その言葉にがやがやと少女たちがざわめく。
「あなた、何様のつもりよ」
「いい気になってんじゃないわよ」
 集団の中の代表らしき子が遥奈に向かって指をつきつけて口を開く。
「幼馴染か何かしらないけど、久生くんふっておいて、よくのこのこと学校に顔が出せたわね!」
「そうよ!」
「久生くんかわいそう!」
「……何?」
 興奮している彼女たちの言葉は不明瞭だったが、それでも遥奈の知らない事実がある。それに対して反論しようとしたのに、彼女たちはさらに言葉を連ねる。
「だいたい最初から気に入らなかったのよ」
「内部組かもしれないけど、態度でかいのよ、あなた」
「久生くんのこと振り回したくせに、偉そうよ」
「谷原くんだって、もしかしたら矢田くんもたぶらかしてるんでしょ」
 マシンガンのように言われたことに返すこともできずに、半分以上あっけにとられながら遥奈はその場に立ち尽くした。
 それに気をよくしたのか、彼女たちの口は止まらない。
 人を傷つける言葉がよくここまででてくるものだと感心させられるほど、それはどんどん続く。
 このままでは昼休みも終わってしまう。
 けれど、勢いに呑まれてしまって遥奈は声がでてこない。
「………まったく、うるさいのよね。自分が相手にされてないくせに」
 その声は決して大きくなかったが、その場を沈黙させるのには充分だった。声がした方を向くと、心配し後をつけてきたらしき柚麻がそこに立っている。
 階段を上りながら、ため息をつくその音まで聞こえてくるようだ。案の定、少女たちは登場した柚麻にも酷い言葉を投げつける。
「なによ、いつも矢田くんをいいように使ってる女の癖に」
「援交とかしてる奴が何言っても知らないわよ」
「パパ、あれ買ってとか言ってるんでしょ」
 それにさらにため息をついて、遥奈の隣に並んだ柚麻は口を開いた。
「馬鹿じゃないの。綾人くんは好きでやってるだけよ。援交してるっていう証拠はどこ? 申し訳ないけれど、あなたたちと違って内部組はそんなことをしなくてもお金には苦労しないのよ。まあこんな人がいないような場所で、1人をよってたかっていじめる貴女たちがそんな高尚なこと理解できないかもしれないけれど」
「な、なによ!」
「文句があるなら、正々堂々人のいる前でやってみたらどう? できないのでしょう? それなのに正しいことしてるつもり?」
 煽るように、柚麻は意地の悪い笑みを浮かべる。その効果はあったようで、彼女たちは口々に非難を始める。
「ひどい!」
「何様のつもりよ!」
「何様でもなんでもないわよ。ただ、貴女たちよりも人間なだけ。わかるかしら?」
「柚麻ちゃんも結構言うなぁ」
 男の声がいきなり割り込んだ。声は上から聞こえてくる。女の子たちが姿を見てぎょっとするのがわかった。遥奈自身には姿は見えないが声で誰かがわかる。
「まあ、友だちいじめられたんだからこれくらい仕方ないでしょ? それとも、今泉くんはそっちにつくの?」
 柚麻だけが知っていたかのように言葉をつなぐ。そんなことはありえない、とわかっている上の軽口のようだ。
「……人が悪いな。俺、一応傷心少年だぜ」
「私の友だちをいじめる奴が悪いのよ」
 顔はまったく見えないけれど、久生だ。そのことに緊張して、こんな事態だというのに胸が高鳴った。
「つーことでさ、ふられたとは言え、望月は俺の幼馴染なんだよ。悪いんだけどこういうことはしないでくれる? 今までの分は目を瞑ってるからさ」
 望月、という初めて聞く言葉に心臓がドキン、とうつ。先ほどまでとは違う、えぐるような痛みをともなって、それは遥奈を襲った。
(ふられた? ふった? 私が?)
 混乱した頭のまま、上を向く。そこには、顔色を失った彼女たちがいるだけだ。その上に久生がいる。話を聞かなくては、と思うけれど、膝ががくがくして動けない。
「………」
 ふと彼女たちが動き、遥奈の横を走り去る。
 その顔を見ることもできなかった。視線はいまだに上を捉えている。ただ、まっすぐに。
「つーことで、傷心男はまだ顔見たりするの辛いんだわ。先に教室戻っててくれる?」
「そう、じゃあお先に失礼するわ」
 久生と柚麻が会話を交わす。それをどこかで聞きながら、まだ遥奈はショックから戻れなかった。それに気づいたのか、柚麻は少し迷った顔をする。
 しかしすぐに久生の言葉と遥奈の様子に何かピンとくるものがあったらしい。遥奈の耳元で「大丈夫よ」と囁くとそのまま彼女だけ階段をおりていった。
「………はぁ」
 久生のため息が聞こえる。そのまま、ゆっくりと歩く音。
 その場から動けない。視線もそらせない。耳だけが鋭敏になっていくのを遥奈は感じている。
「ったく、俺も情け……」
 方向を変えた途端、そこに遥奈がいるのに気づいたのだろう。驚いた顔をしている。
 遥奈の視線の先に、ちょうど久生は立ち止まった。階段は12段。それが今の遥奈にはとても遠く思える。
「な……んで」
 久生が呆然としたように呟いた。
「ちょっと待ってよ………」
 ようやく遥奈の声が出る。擦れてはいるが、久生には届くだろう。
「なんで? どうしてふられたの?」
 いつの間にか目頭が熱くなっていた。まばたきをしたら、涙が頬を伝う。
「私がふったの? わかんないよ……」
「というか、お前こそちょっとまて」
 慌てて久生が階段を降りてきた。12段があっという間だ。目の前にあるその顔を見上げると、さらにしずくが零れる。
「泣くなよ、頼むから」
 久生の指先が遥奈の涙を拭う。泣く原因にそんなことを言われたくない、と思いながら、遥奈はポケットから小さな袋をとりだした。
 不思議そうな顔をしている久生の前でそれを開く。そこには、久生から貰った小石のかけらがある。昨日、遥奈が割って半分久生にあげたそれだ。
「これ。ハートなんでしょ?」
「ああ、……だから」
「半分ずつもてば、両思いかなって思ったの」
「…………は?」
「だって、心を半分ずつしてることになるでしょ?」
 突然、久生が笑い出した。驚いて遥奈の涙も止まる。
 目をパチパチさせていると、頬をさらりとなでられ、そしてぎゅっと抱きしめられた。
「はー」
 久生はようやく笑いをおさめ、かわりに長いため息をつく。
「俺って馬鹿……」
 ちょうどその時、チャイムがなった。5時間目の始まりだ。慌てて身体を離して教室に向かおうとする遥奈を久生は抱きしめたまま離さない。
「ちょっと! 授業遅れるって!」
「知るか」
「知るかじゃないって! ほら! 変なこと言われるって」
「言われても大丈夫だから、な? もう少し」
「私は大丈夫じゃないの」
「いつも女の子に取り囲まれても平気な顔してたじゃないか」
「………! 知ってたの?」
「いっつも行ってただろ? 助けに」
 腕の力は弱くなるどころか逆にどんどん強くなる。半分以上あきらめて大人しくなると、顔をのぞきこまれた。
「あんなの助けじゃないわよ」
 近距離にある顔に赤くなりながらも、口では久生の言葉を否定する。だいたい、知っていたなら彼女たちをとめてくれればいいのにと思う。
 今まで言われもない呼び出しを何回受けたのか説明しようとした瞬間。
「!!」
 いきなりキスをされた。
 軽くだったが、確かに唇が触れ合って、それ以上何も遥奈は何も言えなくなった。久生といえば、してやったりという顔をしている。
 それにムッとして久生の腕から逃げようと身体を動かすと、すかさず耳元で呟かれた。
「好きだよ」
 入れようとした力が空回りする。
 ずるい、としか遥奈は思えない。これから先、ずっと振り回されるのかと思うと告白を受けたことが間違いのような気もしてきた。
 でもきっと間違いではないのだろう。
(あー、もう)
 久生の顔を見れば、何かを待っているかのようにじっと遥奈を見ていた。
 何を待っているかはわかる。
「遥奈」
 名前を呼ぶ声に安心する。
 真っ赤な顔になりながら、遥奈は背伸びをした。もともとの背の差があるのに階段の高さが加わり、そうしても耳元に口はいかない。
 でもそんなことはもう知らない。
(聞こえなくても私のせいじゃないし)
 そして、遥奈は彼女の想いを言葉にのせた。

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