『憧れの……』(自転車・雫)

 晴れた空 そよぐ風。

 視線の先にある景色を見つめていたら思わず歌いだしそうになった。
(そんな場合じゃないって。私)
 船上でも機上でもなく、ここは学校の校舎裏だ。遠くに行きたいのは確かだが、しかしそんなことを考えている場合ではない。
 夏の日差しがジリジリと肌を焼く。風はあるが、生ぬるい。
 外でのお話し合いに向かない時期に、お誘いを受けてしまった自分が恨めしい。呼び出した人間や原因はこの際考えないでおく。
 このうだるような暑さでは、そこまで気力は回らない。
(呼び出した方も大変だと思うんだけどな)
 遥奈の周りには、不機嫌な顔をした少女が10人ほどが取り囲んでいた。目は口ほどにものを言う、とはよく言ったもので、一人一人を見ると、何を言いたいのかなんとなくわかる。
 曰く、久生くんには近づかないで。
 曰く、久生くんをたぶらかさないで。
 曰く、久生くんはあなたのものじゃないのよ。
 曰く、2人乗りなんて汚らわしい。
 曰く、………暑い。
(やっぱり、向こうだって暑いよね)
 目の前の少女の顎から雫が零れ落ちた。ダラダラと汗をかいているのは、別に彼女だけではない。右隣の彼女など長い髪を下ろしているのだから、さぞ地獄だろう。
 もう少し、そういうことも考えて呼び出しをした方がいいと心から遥奈は思う。
 せめて髪は結んでおくとか、日焼け止めクリームを大量に塗るとか、制汗スプレーを使っておくとか。そうじゃなかったら、図書室とか視聴覚室とかコンピュータ室とかそういう場所に呼び出してくれるとか。
 口に出したら、なんでそんなことしなきゃいけないのよ、などと怒られそうだけど、そういうのもありだと遥奈は思う。
 クーラーの効いた部屋だったら、2時間でも3時間でも話を聞く気になるのに。どうして、過酷な環境を彼女たちは選ぶのだろう。
 この前は、トイレの裏だった。その前は、クラブハウスの横だった。
 今回は臭いに関してはマシだが、だからといって環境は全くよくない。
 こんなことは早く終わらせるに限る。
 そう思って、遥奈は口を開いた。
「何度も言うようですが、私と久生は…」
「呼び捨てにしないで!」
「そういうところが、あなたは生意気なのよ」
「いい気になってるんじゃないわよ」
「そうよ、そうよ」
(やば、失敗した)
 呼び捨てに過剰反応されて、遥奈は心の中でため息をつく。暑さにやられた脳が、いつもやらない失敗をした。これで話し合いは5分確実に伸びる。
「今日のことだってそうよ」
「いい気になってないで!」
「あなた、卑怯なのよ」
「どうしてそういうことするの!」
「そうよ! 2週間迷って………わたし、今日、久生くんに告白しようと……」
 一番左にいた少女がいきなり涙ぐんだ。
 それを見た彼女たちは、泣いた少女をいたわるように覗き込んだり、背中をさすったりしている。  初めて見る展開だ。どうなるのか少し気になって、そのまま遥奈は様子を見る。
「めいちゃん、泣かないで!」
「泣かないで、ね?」
「めいちゃん、かわいそう」
「ひどい!」
「ひどいよ。……ちょっと! 早くめいちゃんにあやまりなさいよ!」
「謝りなさいよ!」
「あなたのせいで、めいちゃんが泣いてるのよ!」
 『めいちゃん』が遥奈を睨む。潤んだ瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「返してよ! わたしに久生くんを返して!」
(いや、私のものになってもないんだけど)
 思わず突っ込みそうになって、慌てて遥奈は口をつぐむ。その様子が気に入らなかったのが、さらに『めいちゃん』が声を荒げようとした時、後ろから第三者の声がした。
「あれ? 遥奈じゃん。どうしたんだ?」
「………どうもしないわよ」
 振り返ると、久生がこちらに歩いてくる。
 緊迫した雰囲気を突き破れるその神経に呆れながらも、遥奈はほっとした。これで、彼女たちは表立った攻撃はしなくなる。
 この暑い中での話し合いも、とりあえず終了だ。
「なんでこんなとこにいるんだよ」
「いいじゃない、別に」
 彼女たちに義理立てするわけではないが、告げ口することでもない。そんなことよりも早くこの場を立ち去りたくて彼女たちの方を見ると、あまりのことに遥奈は驚いた。
 少女たちは全員泣いていた。
「ひっく……久生君」
「久生く……ん」
「めいちゃん? みんなも? なんで泣いてるんだ?」
 久生がそう言うと、彼女たちは「望月さんが…」「望月さんが…」と何度も繰り返す。こちらをちらちら見る目が、「あなたが悪いのよ」と言っているようで、怖い。
(なんだかなぁ)
 心からため息をつく。
「ひどいの! ひどいの!」
「だって私たちが…」
「久生くんもそう思うでしょ?」
 彼女たちの性格を掴みきれなかったのが敗因なのか。
 目の前で繰り広げられる茶番劇がこの後1時間続くことを、遥奈はまだ知らない。


「それは災難だったわね」
 昇降口の前にある自動販売機に硬貨を投入しながら、柚麻は同情した声で言った。その隣では、遥奈がスポーツドリンクに口をつけている。
「災難なんてもんじゃないよ。あんな暑い中、よく自分の意識が持ったって感心してるとこなんだから」
 取り出し口から炭酸ジュースを取り出して、柚麻はプルタブをあける。そのまま一口飲むと、ふぅと息をもらした。
「それで、今泉くんはどうしたの?」
「知らない。他の子とどっかいっちゃった」
 頬を膨らませてそう言う遥奈の頭を、柚麻はぽんぽんとなでてやる。
「はいはい、かわいそうね」
「かわいそうじゃないもん」
 半泣きの顔で強がる遥奈に、柚麻は心の中で苦笑した。毎回毎回呼び出しにきちんと応じる真面目さは、彼女たちにつけこまれるだけだと言っているのだが、遥奈はそれでも出かけている。
 それがいじらしいが、もどかしい。
「けど今泉君、どうしてあの場所にあらわれたのかしら?」
「知らない」
 校舎裏に生徒が来るのは、ほとんどないといってもよい。だからこそ、彼女たちは遥奈を呼び出したのだし、遥奈も深く考えずにその場所へ行った。
 そこに久生が現れたのだから、確率的にありえない気がするけれども。
「でも、告白かなんかされに来たんじゃない?」
「……まあ、ありえないことじゃないわね」
 人気がないということを利用して、校舎裏がひそかな告白の場所になっていることは2人とも知ってる。久生がそのためにあの場所に来たとしても何も不自然ではなかった。
 缶を傾けて液体を喉に流し込むと、2人そろってため息をつく。
「それで、遥奈は何をしているの?」
「う〜〜〜」
 聞かれたくない問題らしく、遥奈は頭を抱え込んだ。
「呼び出しは終わったんだから、もう帰ればいいじゃない」
「……………だもん」
 小声でボソボソつぶやく声では理解できず、柚麻は遥奈の口に耳を近づけ言葉を促す。
「何?」
「だって、自転車の鍵、久生が持ってるんだもん」
 思いがけない言葉に柚麻が笑ってしまうと、遥奈がきっと睨んだ。それに「ごめんなさい」と慌てて返して、ごまかすためにジュースをもう一度飲む。
「ここで待っててもいつになるかわからないわよ。迎えが来るから一緒に帰る?」
「………待つ」
 ポツリとつぶやいた言葉に、柚麻はにっこりと笑う。
「そ? それじゃ私は行くわよ」
「冷たい」
「ここまで付き合ってあげたのに、どうして冷たいのよ。まあ、待ち人も来たし、いいでしょ?」
「え?」
 そう言われた遥奈が下駄箱の方を見ると、久生が両手に持っていた靴を乱暴に落としたところだった。こちらに気づくと、軽く手を上げてくる。
 あの場所に来た理由は何だろうか。
 彼女たちはどうしたのだろうか。
 それよりも、彼女たちの話を聞いて私のことが嫌にならなかったのだろうか。
 聞きたいことがたくさんあって、頭の中をぐるぐる回り、けれども一つも口から出す言葉にならなかった。
 柚麻に助けを求めようと思っても、すでに隣には影も形もない。
(酷いよ)
「帰るぞ」
「………命令しないで」
 自転車の鍵を手のひらでもてあそんでいる久生に言い放つと、遥奈はいつの間にか空になっていた缶をゴミ箱に投げ捨てる。ついでに「いーだ」と歯を見せると、自転車の方に身体を翻した。
 それを見て、久生が舌打ちをする。
「お前、人がわざわざ行ってやったのに」
 久生がポツリと言った言葉は、遥奈の耳には届かない。
「はーれたそらー そーよぐかぜー」
 代わりに久生の耳に遥奈の歌声が聞こえてきた。
「古すぎ」
 つぶやいて、久生は遥奈の後を追う。苦笑しながら、手の中の鍵を握り締めた。

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