櫛田宮 史料


  櫛田宮には多くの史料が残っています。それらを概略まとめたものが『名も神埼の―櫛田宮誌』(宮司 執行武典 著)です。

 これは平成13年6月に私費で発行され、神埼地区の公的な施設や神社総代さん方、郷土研究会関連の方々など、地域の皆さまに目につくようなところへは数百冊が無料で配布されました。当時はそれなりの反響もあり「神埼」や「櫛田宮」さらには唯一残った社家である「執行家」について認知されたものと思われました。

 しかしそれからすでに十数年を経て、各地域の役に就いていた方々も総替わりし、『櫛田宮誌』のほとんどが所在不明となり、古書店に時折結構な値段で出ていたりもしますが、そうした物があったこともご存じない地域のリーダーも増えてきている状態です。

 そこで今回、『みゆき大祭』に関することを手始めに、史料やあれこれを掲載することにしました。
  (平成26年1月)
 
  @みゆき大祭関連   
     
  A神埼町周辺・村の鎮守   
     
   B 櫛田宮の伝説  
     
   C 神 職・執 行 家  
     
     
@ みゆき大祭関連

御神幸大祭絵馬

   安政5年(1858)に東西水馬場本堀の有志により大絵馬が奉納されています。(佐賀県重要有形民俗文化財、昭和54年3月31日指定) 絵師は地元の石橋権太夫と署名されています。
 図柄は当神社のみゆき大祭で、おくだりの様子を克明に描いたもの。はげ落ちたり薄くなった部分もありますが、よく見ると人々の表情も豊かで生き生きとして、お祭りの様が直に伝わってきます。
 このみゆき大祭は、750年もの昔から神埼荘挙げての神事として、永いこと伝えられてきたもので、町民の誇りといえます。1年おきに春4月、桜吹雪の中で執り行われ、大勢の観衆・参拝者で賑わいます。


 このお祭りの準備について、采配を振った神宮寺(金剛院)の記録が残っています。 (金剛院は現在の神埼市役所の場所にあった祈願寺で、明治初年に廃寺とされたため現存していません)
■享和二年(1802)戌二月の『櫛田社御幸日記』

一、金剛院病気につき二月十九日より不動院越され諸事心遣い候事。
一、同日世話人中へ懸け合いの上咾(おとな)中へ回状指し出し候。左に
一、出来町・東町・五日町・八日町・七日町・二日町・枝ヶ里町・挽木町・辻町・東馬場・平ヶ里村・本堀村・小津ヶ里村・九日町・西新町・土井上町
回状 櫛田社御幸に付き申し談じの義御座候間、各組明飯後金剛院へお出まし下さるべく候。云々

 二月十九日に御宮方より咾(おとな)や庄屋あて、同日倉谷嘉兵衛あて。また、金剛院から修理方役所、寺社方役所、寺社方御奉行所 笛吹中あて。八乙女の人選及びご神灯の件で町々の咾あて。三月一日小津ヶ里より注連卸し、下の宮は本堀より注連卸と橋懸かりの事。会所御仕組方よりは上敷四十枚借用、倉戸、荒堅目
 ご宝殿畳替え高麗縁十三枚の内七枚、金剛院うすべり三間続き三枚修理方へ願い出、お供・道修理・掃除・出夫の件で平ヶ里・本堀村・駅ヶ里・尾崎・蔵戸・大依村・荒堅目村・枝ヶ里・小津ヶ里・鶴田村へ別紙手紙
 平ヶ里は 二月三日掃除注連卸御幸の道具持ちの件
 本堀村は 二月三日下の宮橋掛かり掃除御幸の道具持ちの件
 尾崎村は 太神楽の件
 駅ヶ里は 六日掃除七、八日道具持ちの件
 大依村 荒堅目村 蔵戸村は 七、八日御輿担ぎ
 小津ヶ里 西小津ヶ里 枝ヶ里 鶴田村は注連卸について朔日二日、みゆきのお供七・八日
 修理方検分三月一日 三月二日米五石七斗二升六合代官所より受け取り。拝殿その外掃除 坊領より出夫。舞台掃除警固場所出夫。
 寺社奉行所へ神馬一疋差し出されたくお願い、大庄屋 庄屋中お供刻限に付き触れ状の件。
 請役所へ郡方警固の願い。御馬屋。
 二月十六日市中村々みゆきお供役割書き付け差し出し
 御幣建所 地蔵町口二本 西新町二本 辻口二本 平ヶ里二本。
 御紋所灯籠四張りのこと。
 下の宮は上の宮より二張り差し出し候事、
 九日十日代官所送り物 お礼 御造酒一升樽詰め 御菓子箱入りにて、夫丸二十人石井ヶ里十人的ヶ里掃除その外
 
 
■天保九年(1838)戌三月の『櫛田社御幸一通控』

市武代官所より取り立て御幸貫米総高
一、米三石三斗二升四合九勺右は上東郷分、
一、同三石四升五勺五 右は上西郷分、
一、同二石八斗五升三合一勺右は西郷分、
一、同四石四斗一升九合七勺右は下郷分、シメ十三石六斗三升八合二勺尤も此の内駅ヶ里村引き。
一、同三石五斗八升二合右は下西郷分蛭牟田大庄屋納所新七より納め。
一、拝縄三束
一、組三束右同人納め。これは正月の内万事相頼み溝口紙一束持ち参り御幸後ご円鏡お菓子差し遣わし候事。
一、代官所の儀手元上より三人が正月の内、木綿一反づつお年玉差し遣わし代官殿えは柿の二百も差し遣わし候事。
一、二月朔日ごろ酒肴いたし、代官所まかり出で候事。云々
一、二月半ばころ町中咾寄り万事申し談じ候事。尤も氏子庄屋別当扠又御茶屋番殿へも申し遣わし金剛院寄りの事。
一、二月 笛吹中へ触れ差し出し候事。
一、御供人数書き抜き咾(おとな)中へ差し回し候事。
一、尾崎村太神楽懸け合い手紙差し遣わし候事。
一、三月初 郷内庄屋中へ回状差し回し候事。
一、倉谷山チガヤ榊扠又ご神輿掛け合い差し遣わし候事。
  上の宮
一、三月朔日注連卸の事、小津ヶ里村へ掛け合いの事。尤も酒二升豆腐二丁御幸方より差し出し候事。  但し常は一丁半、酒一升、米一升、紙一帖 寺より
一、下の宮同断 本堀村懸合いの事。総じて橋の儀も頼み遣わしの事。酒肴なし
一、平ヶ里村も掛け合いの事。
一、東は地蔵町出かへし。
一、西は鶴田町同。右は幣二本づつ建て差し遣わし候事。
一、三月二日 初能達の事。文言あり。
一、同 御神馬達の事。
一、同 郡方警固達の事。
一、同 御馬屋へ神馬の儀掛け合い手紙差し出し候事。安政五午春より御馬屋へ直ちに御達事出し候様の事。
一、薄縁り借物達の事。文言あり。
一、御門へ張り紙の事。定 一、下の宮御幸 三月七日正暮六ツ時。一、上宮遷御 三月八日朝 正五ツ時。月日
一、突鐘 一番 二番 三番 突きの事。
一、上の宮お供え物 お菓子 御神酒一対 中餅一重 二十八社へ小餅 送品の儀酒屋より寄り道致し候事、但し取りに遣わし候事。
一、下の宮 大餅三重 菓子三方三ツ 御酒一対
一、稲荷社へ 中餅一重 小餅一重 社内小末社まで小餅一重ツツ差し遣わしの事。
一、御紋付き提灯四張 ご本社へ二ツ ご神馬へ二ツ  九日十日 代官所送り物 一御札 一御神酒一升樽詰めにて二ツ 一お菓子 箱入りにて
一、市中その外御幸刻限触れ差し出し候事。
一、拝殿その外掃除神領よろ出夫致し候事。
一、舞台警固屯場所市中より出夫相調べ候事。
一、下の宮橋懸かり竹木その外本堀村より心遣い相調べ候事。
一、能後 倉谷へ酒三升持たせ、礼手紙相添え 並びにお供物神輿かつぎの人々へ差し遣わし候事。
一、蔵戸荒堅目高志 右も同様神酒は二升樽の事。
一、大依神納 右同様ご神酒二升供物差し遣わし候事。
一、蛭牟田大庄屋お供物お菓子松原包み
一、花手 右同断
一、五・六人殿 総御供 別当 お茶屋 同断
一、御馬屋へ二五十目相渡し候節受取判取り候事。
一、郷内中庄屋お供物差し遣わし候事。右は代官所へ四郷より持参いたし相控え候事。
一、下西郷の儀は蛭牟田大庄屋へ差し遣わし相頼み候事。
一、久々牟田社人へ六日朝早々より加勢相頼み候事。尤も前より懸け合いの事。
一、三月三日総氏子宮掃除掛け合いの事。右は前より
一、参銭の内 二箱分 倉谷行き 二箱分 稲荷社行き
一、市中咾(おとな)庄屋 供物差し遣わしの事。
一、倉谷山 蔵戸 荒堅目 挨拶(前出)文例あり 略
一、町方貫銭別当納め銭一貫二百目尤も定式には之れ無きの由
一、下西郷庄屋中へは御供物三十包みばかり蛭牟田大庄屋へ相頼み配り申し候事。
一、代官所行き御札書き様の事。櫛田宮御祭御祈祷之璽
一、六日お宮掃除 神輿掃除 同餅突きの事。
一、七日朝 神水川水取り差し遣わし候事。
一、提灯九ツ
一、柳ごり拾一 右かり入れの事。但しお供物添え返す事。
一、薄縁り返上 九日拾日 夫一人差し遣わし手形取り返し候事。

■天保十三年(1842)御幸石五勺高

 (注 四郷中一石につき五勺を御幸の費用にあてる例あり)

 上東郷 一、米三石三斗二升五合
 西 郷 一、同二石一斗二升七合八勺
 上西郷 一、同三石二斗二升三合二勺 同二石九斗一升四合五勺
 下 郷 一、同四石四斗二升一合五勺この内一斗七合八勺下西郷より
 下西郷 一、同三石四斗八升二合納所へ五斗懸かり
しめて  十六石八斗六升三合
一、尾崎村太神楽懸合二月末ころ手紙差し遣わし候事。尤も御幸刻限付け等致し候事。文例あり。略

 以上、3冊の御幸日記より書き写した次第ですが、平安・鎌倉時代の神埼御荘の盛儀をそのまま伝える神事として、旧藩時代となっても地方を挙げて祭りを執り行ってきた姿が、これらの記録からもよく窺われます。
 特に、市武代官所・大庄屋・庄屋・別当・咾(おとな)と言われる人々が力強く盛り立てて推し進めている姿がよく分かります。
 田の反別に「石五勺」といって、一石につき五勺の米を代官所の指示のもと、大庄屋が取りまとめています。町方では、貫銭もしています。
 金剛院や御幸方からの呼びかけの手紙ひとつで、尾崎太神楽・お供(奴さん)・八乙女・倉谷をはじめ各村の神輿担ぎの人々もそれに即応しており、スムーズに神事は実施されていたようです。
 明治維新ののちは藩の保護を離れましたが、それでも町内氏子等の皆様方の努力によって大方においては省略することなく、以前のままの姿で執り行われ続けています。  
櫛田宮古文書をご覧になる浩宮様(現皇太子殿下) 


 御幸祭について簡単に説明を加えておくと、

 前夜お下り 下の宮に神輿をとどめ、翌日昼本宮にお上りになる。
その長い行列は大きく三ツに分かれ、次のようになる。

一、尾崎太神楽(獅子・メズリ・笛・ササラ・モラシ・大太鼓・頭取り・棒使いなど)

二、締元行列(奴・八乙女・頭取りなど)

三、お神輿(ご神水・火王・水王・大榊・稲荷神輿二基・櫛田神輿三基・御幣など)

 行列参加人員は約八百人乃至千人にもなります。
 ●みゆき大祭 現代の行列順序

   ※高張提灯は初日夜のみ

1,太神楽(だいかぐら)  尾崎地区
   花籠、大宮司、棒術使い、大太鼓、笛、もうし、
   ササラ、めずり、獅子使い、唄頭取

2,今回締元の高張提灯

3,氏子総代会長、神埼市長、市議会議長、締元委員長

4,締元(しめもと)   
   奴、八乙女(やおとも)

5,神水(しえ)行事

6,鴨団扇(かもうちわ)

7,火の王、水の王

8,御幣御輿(ごへいみこし)

9,御参物方(おさいせんばこ)

10,神職

11,御朱傘(おんかさ)

12,高張提灯(たかはりちょうちん)

13,櫛丸社御神輿(くしまるしゃおみこし)

14,高張提灯

15,御参物方

16,櫛森社御神輿(くしもりしゃおみこし)

17,御朱傘

18,金御幣(きんごへい)

19,御神鏡(おんかがみ)

20,御刀(おんかたな)

21,金御幣

22,御神鏡

23,白角折(おしとり)大明神の神名旗(しんめいき)

24,御参物方

25,高張提灯

26,白角折大明神の御神輿(おみこし)

27,御朱傘

28,神職

29,金御幣

30,御奉幣(ごほうへい)

31,高志(たかし)大明神の神名旗

32,御参物方

33,御朱傘

34,高張提灯

35,高志大明神の御神輿

36,御神鏡

37,御弓

38,御矢

39,金韓獅子(きんからしし)

40,大榊(おおさかき)

41,櫛田大明神の神名旗

42,御参物方

43,高張提灯

44,櫛田大明神の御神輿

45,御朱傘

46,宮司

47,氏子総代

48,敬神婦人会

49,崇敬者

50,次回締元の高張提灯

 めずり






太鼓


ササラ












八乙女(やおとも)




獅子






大太鼓






挟み箱



 ■ 太神楽 ■ 

 佐賀県重要無形民俗文化財(昭和41年4月23日指定)である尾崎太神楽は尾崎地区の東分と西分とが交互に出番が当たります。締元は壱組、弐組、参組、西組に分かれているため尾崎東分と壱組・参組、西分と弐組・西組が決まって組むことになります。

 太神楽の記録は少ないのですが、観応3年(1352)足利尊氏から神埼御家人本告執行あての下文中に「太神楽・八乙女」とあります。
 伊勢の太神楽に獅子がしらはよく似たものがありましたが、櫛田の神の神使いの大蛇を現すものという長大な胴体に特徴があります。20〜30人の若者が獅子使いとして胴の下に入っています。また、小児の棒術や少女の擦りササラは大変古いもののようです。
 歌詞のうち、丹波与作については近松の浄瑠璃からきたはやり唄が紛れ込んだようです。
 伊勢のお祓いをする太神楽の系統であって、『みゆき大祭』の行列においては災厄を祓うための先払いをつとめており、獅子頭の白い紙は有り難いお守りとされているため、行列の途中でも観衆が手をのばして取るような姿も見られます。
 佐賀県内を代表する太神楽です。
 絵馬(太神楽)

 ■ 締元行列

 神埼市重要無形文化財(昭和45年2月17日指定)の締元行列は『みゆき』にお供する奴さんのことです。
 町内4区輪番で当番の地区が『締元』と称して臨時に委員会を組織し、その運営に当たっています。
 小中学生組・青年組の奴さんは、傘鉾・挟み箱などとともに約1ヶ月間稽古をします。独特の衣装の奴さんは「シッシッ」と声を出して足で化粧まわしを蹴り上げながら進みます。時々「イーヤ、アサーヘエ」とか「アーヨイヤサーノホイ」「ドッコイネ」「コラサノサ」とか所作に合わせて言っています。采の毛の竿の投げ渡しがあります。傘鉾の所役は『傘鉾』を頭上で回転させ、次にいろいろ面白い掛け合いの文句を大声で言って見物人を笑わしています。その時の時事問題や人生論、時にはちょっと下品なものまであるようです。
 締元行列には奴さんのほか、女児の稚児さんが多数参加して賑わいをそえ、みゆきの古来からの音楽『上の句』『下の句』の曲を学習用のリコーダーを吹いて道中しています。
 本来は『八乙女(ヤオトモ)』と称して豪華な独特の衣装を着て、神輿の後ろにお供する少人数の限られた童女たちであったようです。
 その昔は『ダイキュウ』というものもあったらしいのですが、今では伝わっていません。

 
 絵馬(締元行列)
 ■ 関 連 年 表

 ●終戦後。昭和20年12月15日 神道指令(連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府に対して発した覚書「国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・監督ならびに弘布の廃止に関する件」)の神道弾圧政策と、戦中戦後の混乱により『みゆき大祭』は一旦中止となった。

 ●昭和24年4月7日・8日の春祭から『みゆき』が出来ない代わりとして、締元の責任においてお祭りをより一層賑わそうと、壱組当番で掛け舞台や道行踊りを行った。

 ●昭和25年 春祭は弐組当番で 太神楽獅子舞と奴さんの『仮装お下りお上り』を実施して大喝采を受けた。獅子は町回りまでしたらしい。
 この締元順番回しの賑わいは昭和28年度まで続いた。

 ●昭和29年4月7日・8日、戦後初めての『御神幸大祭』が復興して、大変な賑わいで皆々感激一入であった。
 交通難という理由で、西馬場お下り、東馬場お上りで行われた。
 当時の祭典費は二百円(締元は百五十円)であった。
 締元は壱組、太神楽は尾崎東分で、いずれも十年ぶりの『みゆき』というので大層な張り切りようであった。

 ●昭和45年。背振村倉谷地区が諸事情で不参加となり、かわって神納地区より奉仕の例が出来た。この年より御神輿台車を三台作り、これに御神輿を載せるようになった。

 ●昭和53年よりみゆき大祭の期日を4月第1土曜・日曜に変更した。
 この年の第1土日は4月1日・2日。壱組締元。尾崎東分の太神楽は欠場。

 ●昭和55年2月25日。大神輿三基 大修理。

 ●昭和55年4月5日・6日。みゆき大祭。弐組締元、太神楽は尾崎西分。みゆき大祭時の祭典費は一戸1,200円になった。(締元担当地区の祭典費は1000円)

 ●昭和57年4月3日・4日。尾崎東分の太神楽は欠場。
 参組消防団を主体とした『太神楽を守る会』が組織され、猛練習によって獅子舞のみではあったがそれらしい姿となり、『みゆき』を実施できた。

 ●平成6年3月13日。奴さん衣装修祓式。広く寄付を募り、小中学生用の25着、20着、20着、幼児用15着、合計80着を貸出用として作製した。

 ●平成8年2月13日。奴保存会を結成し、2月15日施行する。奴さん衣裳の管理・会計も担当することとなった。現「締元行列保存会」。

 ●平成8年2月25日。群衆に慣れない馬が危険であることや馬の交通事故が起こったことなどから、今回より神馬の出場を取りやめることと決した。その代わりとして『ご幣みこし』を作製し総代若干名で担ぐこととした。中島建設(中島公雄氏)が製作奉納。

 ●平成26年。諸般の事情によりみゆき大祭の期日を特別に早めて 3月29日・30日に変更した。

 ●平成30年。神埼市の市長選挙・市議会議員選挙の公示日と重なり、太神楽の出場を優先事項として日程変更。3月31日、4月1日に行なった。稲荷神社御神輿の台車を製作。これにより御神輿5基とも台車使用になった。

 ●令和2年4月4日・5日。新型コロナウイルス感染症対応により弐組締元が欠場。平成31年春より祭典費改定により、今回のみゆき大祭は1戸当1,500円となる。(締元担当地区は1,200円)

 ●令和4年。新型コロナウイルス感染拡大により行列は自粛中止。行列のない「みゆき大祭」は戦後初。春祭神事は厳粛に齋行。祭典費は1200円に減額。
 
 絵馬(神輿)
   
   
 神馬 駕籠(金剛院)
 大絵馬に描かれたみゆき大祭行列の最後部には、駕籠に乗った僧侶が描かれています。
当時 神社の祭のことも采配していた金剛院の僧です。神職は櫛田大明神の御神輿の前を歩いています。現代の実際の行列でも神職は徒歩であり、駕籠等に乗ることはありません。もっともずっと昔ならば牛車あたりに乗っていたかも知れませんが…。  
   

執行家

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